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浅野の武家屋敷は門構えこそ立派だが、中は荒れ果てている。同盟を結んでいた武家の裏切りによって手痛い傷を負わされた。その憎しみを忘れないためにあえて傷を残しているということらしい。たとえ、そうでなくとも身体に刻まれた傷は消えやしないというのに。
自らの着流しをはだけさせ、背中に開いた大きな傷を、屋敷の中へと招き入れたフローラへと見せしめる。血の染みがべったりと沁みついていたり、刺し傷がそこかしこにあるような屋敷の中の様子だけで、震え上がっていたフローラはもはや悲鳴を上げる心の余裕すらないのか。口角をぴくぴくと引きつらせながら、身体を硬直させるのみ。
「フローラよ。お前までこの私を失望させないでくれ」
その傷は、古傷で塞がっているとはいえ、見るのも憚られるほど痛々しい。縫い跡が青紫色にところどころ変色しており、少し組織が壊死してしまっているのが分かる。これをまじまじと見つめられるのは、浅野の側近として就いている才蔵くらいだ。
「……、浅野殿。確か武家としての立場はかなり幕府の重役にまで、上り詰めていたとお聞きしましたが……」
「ああ。人徳なんぞという言葉は、所詮は貧しき民の吐く負け惜しみ。この世の人を測る物差しは、地位と名誉と金……。私は、それを女の色を使って得てきた」
浅野は幕府解体直後は幕府の重役だった。その地位を得るために講じた手段は潔白なものとはかけ離れていた。浅野は遊女を買い取り、道具として使っていた。交渉の席には、美酒と美女を以てしてもてなすのはほとんど常識のようなもの。男は、酒と女に酔いながら、健常な判断を失わされ、条件を鵜呑みにする。だが、それならまだかわいいもの。浅野はそこから、昇進に邪魔な幹部の首を文字通り斬っていたのだ。そして、その死傷の件を、もみ消すために情報工作をすべく、御庭番の連中をも買っていた。幕府での地位を獲得する度に、抱え込む遊女と、忍びの脈を増やし、幕府の黒い心臓と揶揄されるほどの闇の実力者だった。
「女は男の地位と名誉と金を愛するもの……。ならば女の色を以て、男に地位と名誉と金を与えることが出来るならば、これは公平な契約ではないかね」
遊女は全て、浅野の御目付、または愛人ということになっていた。だが、それを情を以てしてつなぎ留めておくことは難しい。そこでまた御庭番だ。浅野は遊女をつなぎ留めておくために御庭番をつけていた。なにか、主に背くことがあれば知らせるようにと。
そして、それを知らされたものは、浅野をして非人道的な拷問を強いられた。
心中立ては遊女が使っていた手管で、髪の毛や血判、あるいは小指第一関節を切り落として、客に送り付けるというもの。それを拝借したものだが、もちろん、そんな可愛いものではない。浅野は契約を違い、他の男と駆け落ちしたりした遊女の四肢を捥いだ。小指どころか、腕の根元からばっさりと切り落としたのだ。
「……だのに、この公平な契約を破らなかった者はいなかった。悔しかったよ。契約を破ったとはいえ、女の腕を落とし、首にまで手をかけなければいけなくなったときはね。
空しくて、口惜しくて……、実に甘美だった……。美しい女の顔が苦痛に喘ぎ、もがき苦しみ、むせび泣く様が」
青白い顔で冷たい笑みを浮かべる浅野。着流しをはだけさせたまま、フローラに背中の傷を向けてゆっくりと立ち上がり、彼女に向かって振り返る。にんまりと浮かべられた邪な笑みが、行灯の灯に照らされる。氷のような笑み。目に入っただけでフローラの背筋は凍り付く。
「だから、フローラ。私がお前に望むことは……」
そして、絶対零度のごとく冷たい体温が浅野の手から、フローラへと伝わっていく。フローラの白く透き通った肌の底から、青い静脈が浮き上がるように、みるみる青ざめていく。それを見て、浅野は舌なめずりした後、彼女の頬を再び平手で打った。二度目だ。彼女が床に転がるほどまでの力でぶったのは。だが、今回はこれでは治まらない。
浅野は、刀を引き抜く。ぎらりと光る刀身にフローラの青ざめた顔が映る。フローラに言葉は通じない。浅野は最初から契約なんぞを望んでいるはずもない。彼が最初から彼女に望んでいたことは、その美しい顔を苦痛に歪ませること。ただ、それだけだった。
「異国の女は、どんな艶めかしい喘ぎ声を聞かせてくれるのだろうか……是非とも耳に入れておきたくてねえ……。
まずは、右腕からもらおうか」
ゆっくりゆっくりといたぶるかのように、フローラにむかって一歩一歩と歩みを進め、畳の上に刃を這わせてかりかりと不気味な音を立てる。その異様さに、フローラは畳からはみ出たい草の繊維を掴み、肩をがくがくと震わせ、荒い息をし始める。その様は、大いに浅野を興奮させた。
「……、いい声を出すな。いい顔だ。私の背中の傷も喜んでいるようだ……。人の傷というものは、自らに屈服し恐れおののく存在があることで初めて癒えるのだよ……」
ついに浅野が刀を振り上げ、一思いに振り下ろした。
だが、浅野の刀身は、フローラに届くことはなかった。その前に、刀身のひどく短い小刀によって受け止められていた。獣。野を駆ける動物の皮を裂く包丁にもなるという刃渡りの短い刀で、浅野の手に握られた日本刀を受け止める。
「……、ほう……、ごろつきが邪魔立てをするか……」
「ユー……」
獣は無精ひげを生やし、鷹のように鋭い目をしていた。その姿を見れば、誰もが警戒心を抱くだろう。だが、その背中を知るフローラは、その温もりを知る彼女は、胸に手を当てて、安堵のため息と涙を漏らした。
「その抜き身を下げろ……。この女には指一本触れさせやしねえ」
「浅野殿っ……」
主の声を呼びかけた才蔵の背後に、殺気が。行灯の光の影を利用した死角から、脇差の刃が振られた。才蔵はそれをクナイで受け止め、殺気を感じた方に向き直る。しかし、そこには姿はない。再び後ろだ。相手の振り返るタイミングに合わせて後ろを取るなんぞお手の物。ならばと才蔵も、背中に背負った大鉈の柄に手をかける。
「この刃を抜かせるたあね。心苦しいよ。かつて妹と思っていたお前を相手取るとは」
「……あたしは、今でもあなたのこと兄だと思ってるわよ」
「けっ、御庭番を捨て置いて、どの口がそれを言うかね」
「……才蔵、あなたには目を覚まさせる必要がある」
お凛と才蔵は顔を合わせてにやりと笑い、互いの刃を振りかざす。その大鉈がお凜に向かって振り下ろされるか。彼女は身構えるが、才蔵は乾いた笑みでさらりと体を交わし、一直線に浅野と刃を交わす男のもとへ。
「なっ!」
*****
虫唾が走った。言いようのない感覚とはこれのことだったか。この男、浅野の歪んだ心根が屋敷の外まで漏れ出ていたのか。いや、違う。もっと禍々しくて、心臓から胃の奥からまさぐられるような感覚を今感じている。この女に、こいつが手を下そうとしていたからという単純な理由では片づけられない。まだこの男には何か感じるものがある。だとしても、俺がこの男を許せないことには変わりはない。
「その抜き身を下げろ……。この女には指一本触れさせやしねえ」
啖呵を切ったまではいいが、日本刀相手に、小刀で鎬を削るのは無理な話だ。第一、小刀には鍔というものがない。力の加減を間違えて、相手の刃が滑りでもしたら、右の手の指が全ておじゃんになる。
だが、そんなことを考えているうちに思いもよらぬ方向から、そいつはやって来た。不釣り合いなほどの大きさの大鉈を携えた忍び。俺は、大鉈の斬撃に思わずのけ反る。そこから息をもつかせず、大鉈を振り下ろす。それを畳の上に身体をごろごろと転がして避けたあと、態勢を立て直す。
「才蔵っ! 卑怯だぞっ!」
この忍びは才蔵というらしい。彼の背後でお凜がその名を叫んでいる。お凜が知っているということは、御庭番のときの仲間なのか。
「悪く思うな。雇い主の護衛は御庭番の務めだ。もと武士とはいえ、手練れの相手は骨が折れるだろうからな」
浅野ひとりならば、才蔵の言う通り何とかはなっていたかもしれない。だが、入り乱れての交戦となれば話は別だ。
「全力で、浅野殿の護衛をいたしますよ」
才蔵が右手を挙げると同時に、指笛の根が聞こえ、謁見の間の障子を蹴り倒して、一斉に忍びの群れが躍り出てきた。これは完全に形成を覆された。屋敷の中に人の気配がない時点で何か怪しいとは踏んでいたが、連中、俺たちをここで袋叩きにして見世物にでもしようという魂胆らしい。
「こ、こんなに……」
「お凛、こいつぁ、ひとりの忍びの影分身かなんかか」
「だといいけど、違うみたいね」
俺とお凛は、再び忍びの群れに周りを取り囲まれる形になった。かごめかごめの遊びのように。前後左右ありとあらゆる角度を全てだ。浅野がフローラを傷つけないというなら、まだ楽だったかもしれない。だが、今回はその逆だ。浅野は、フローラを傷つけ、その顔が苦痛に歪む様を楽しもうとしている。フローラを、浅野に近づけさせるわけには行かない。
俺はお凜に目で合図を送った。伝わったかどうかは分からない。
これは賭けだ。
小刀を才蔵に向けて振りかざす。才蔵がのけ反ると同時に、後ろとびで間合いを開けられ、そこに刀を構えた忍びが挟まって立ちはだかる。それを低い姿勢で足を払い。態勢を崩したひとりの忍びから、刃渡りの長い刀を奪い、右から斬りかかって来た忍びの得物をはじき返して、首筋をかっさく。血しぶきが飛び散り、叫び、喘ぎもがき苦しむ忍びの股の間に腕を入れて、抱え、左から斬りかかって来た、その刀にねじ込ませる。
お凜はフローラの手を引きよせ、迫りくる忍びと体を交わす。忍びの攻撃の手は、お凜には俺のものほど激しくない。やはり狙い通り、フローラを傷つけることが出来るのは浅野だけということだ。奴は自らの手で、フローラを傷つけたがっている。自分以外のものがそれをすることは、せっかくのお楽しみを奪う邪魔者としか考えていないわけだ。フローラには悪い気もするが、うまく利用すれば彼女を無傷で連れ出すことが出来るかもしれない。
お凜に襲い掛かる忍びは、決してフローラにはその刃を向けようとはしない。お凜は、小さくごめんとだけ呟いて、フローラの腰を抱きかかえる。
「……走れるわよね……」
その意味を彼女が理解したかどうかは知れない。だが、彼女が頷いた以上、それを信じるよりほかはない。お凜は後ろ走りをしながら、右手でクナイを投げ、迫りくる忍びの急所に的確に命中させていく。フローラはその光景を見まいと必死に目をつぶりながら、お凜に半ば引きずられながらも歩調を合わせる。
そして、この俺も手を休めるわけには行かない。お凛に意識を集中しすぎたせいで、後ろを取られてしまった。背面から斬りかかる、その手が届く前に右方向の忍びの鳩尾に肘鉄砲をかまして、そのまま右回りに投げ飛ばし、背後を取っていた奴もろとも薙ぎ払う。だが、こちらが身体を回転させれば、もちろん背中を見せてしまう者もいるわけで。そいつには、再び身体を回転させて、斬撃をお見舞いしてやるに他はない。
ちくしょう。この人数は目が回りそうだぜ。
もうすでに三半規管が悲鳴を上げている。心なしか、己の身体の動きが鈍くなったように感じる。だが、それは思い違いではなかったことを、背中に走った鋭い痛みに思い知らされる。クナイが刺さったらしい。
「ちぃと、疲れちまったかな」
刺し傷など、取るに足りないもの。そう思いたいが、どうも様子がおかしい。傷が痛むという話ではない。まるで脳そのものを鷲掴みにされているかのような感覚だ。眩暈がする。ぐらぐらと揺れながら傾いてゆく視界の中でお凜の声がした。俺の異常に気付き、声を上げた瞬間、人の肉を斬る音、そして人が倒れる重たい音が木霊した。
「ユー! アーユーオーケー!?」
床に崩れたお凜にフローラが囁きかける。背後から腹を一突きされたらしい。言葉の意味は分からないが労っているのだろうか。そうこうしているうちに、ついに俺の膝も床についてしまった。どうやら、平衡感覚を犯す類の毒を盛られたらしい。
「お凛……、お前は弱くなったな……」
「……、……」
際限なく歪んでいく視界の中、聴覚がそれを補おうと必死に情報を拾い始める。才蔵の低く冷たい声だ。
「柄にも合わず、人を守る戦いなんぞするからだ。忍びなら仲間を捨て置いてでも、獲物を真っ先に取りに行く。そもそも獲物の首を取れば、誰も傷つかないからな……」
「それが、仲間の窮地に気を取られて、後ろから腹を刺されるとは……、因縁の対決と少しは息巻いていた身にもなってくれよ」
一気に形勢を覆されてしまった。その上、相手は圧倒的不利な戦況に立たされた俺たちをいたぶるかのように攻撃の手を休めている。俺たちがゆっくりと死にゆく様を楽しもうとしている。
「……才蔵、目を覚まして。あんな下衆野郎にどうして尻尾を振っているの。師範は……佐之助は……、時代に殺されただけ……。誰も憎む必要なんか」
「何を世迷言を……、だからこうして時代を相手取ってんだろうがよ」
「……なっ……」
「ふざけた新政府の輩を血祭りにあげるためなら、誰にだろうと尻尾を振ってやるよ」
背後で、才蔵とお凜のやり取りが聞こえる。お凜が床に倒れたことで、ふたりの身体が離れ、攻撃の対象をお凜だけに絞ることが可能となってしまっている。助太刀に入れない自身がひどく情けない。それどころか、その足音がこちらに近づいて来る。浅野だ。
「……、よくも名前もないごろつきがここまで楯突いてくれた」
そして、床について上半身を支えていた俺の右の手のひらに、刃をねじ込んだ。手の甲から脈とともに血がほとばしる様を浅野は笑っている。フローラの前に、毒に犯されたこの俺を拷問しようという腹らしい。
「称賛に値するが、言っておこう。頭が高いとなぁあっ!」
浅野は、刀を回転させて肉を抉りだした。神経の繊維が、筋肉の繊維が絡まって切れていく、言葉では言い表しようのない、途方もないほどの痛みが身体中を駆け巡る。
「はぁ……、はぁ……」
痛みのあまり、呼吸が荒くなっている。
「……、お前のような名前も地位も何もない男が、女を守ろうなど笑わせる……。女は男の地位と名誉と金を愛するものだ。それをそのどれも持っていないお前が守ろうなどと、何という笑い話だっ!」
手の甲だけでは飽き足らず、刃で右腕をなぞり、傷を広げ、肉を抉りだしていく。
「うぁあああああっ!」
畳の上に己の血がぼたぼたと滴り落ち、赤黒い染みをつくっていく。手の甲も、腕も貫通させた刃は、もがけばもがくほど、刃と皮膚や肉がこすれて、切り刻まれ、その傷口を深くしていく。もはや、肉片が畳の上に転がろうかというぐらいだ。
「うぁあ……ああああっ……はぁ……、うぁあっ……はぁ……」
俺の呻き声を浅野は嘲笑う。
「そうだ……、ひとつ昔話をしてやろう……」
そこで浅野は唐突にある話を切り出した。ある遊女の話だという。政治交渉と称して、自らの昇進に邪魔だった人物の首を落とすのに使っていたという。遊女はそんな汚い仕事のために利用され、浅野の正室という名目で、身柄を拘束されていたらしい。だが、この遊女に間男、つまり浅野以外に駆け落ちで会っていた男が見つかったのだ。女に安らぎというものを一切与えなかった。それどころか苦しめるばかりだった浅野が、裏切られるのは当然の摂理だが、浅野はそれを許さなかった。
遊女は右手をばっさりと切り落とされた。
それから遊女は行方をくらませた。そのまま時が過ぎても、遊女の捜索は続き、ついに見つかったとき、遊女は身ごもっており、お腹も大きく膨らんでいた。だが、それを見つけた御庭番の忍びには、遊女の抹殺が命じられていた。身ごもった遊女は、一瞬で首を胴体から切り離された。それが、浅野の正室でありながら、間男と駆け落ちをし、子供まで身ごもった罰なのだという。
「……だが、この遊女が身ごもった子供が生きていたらしい。……信じられない話だろう?」
俺は自分の耳を疑った。聞き間違いなど決してすることのない獣の耳を疑うなど、自分でも妙な感覚だった。それほどまでに信じがたい事実だった。そして、そんな話をなぜ、この俺にするのだろうか。その疑問符は、浅野に対して感じていた、あの言い知れない感覚をさらに強めていく。いいや、今ははっきりとその正体がつかめてきた。おそらくこいつは。浅野は。
「息絶えた遊女の腹を裂いて赤子を取り出し、これを育てた者がいたそうだ。その住処も街の鍛冶屋と突き止められ、この赤子は殺されるはずだった。しかし、殺そうと押し入ると、子供は既に逃がされた後だった……。
賭けだったらしい。のたれ死んだとしても、私に殺されるよりはましだという遺言だった。そして、その子供に託したのが、えらく切れ味の鋭い小刀だったそうだ」
小刀。俺が愛用している得物の話だ。そうだ、きっとそう。今も腰に挿している刀身がわずか五寸強ほどの長さしかない、小刀。それは、物心つくころから持っていた。覚えている光景は、それで沢蟹の身を抉り出して食らっていた自分。
ずっとその柄を握りしめて来た小刀。
「……、名もなきごろつきよ。それがお前だ。お前は名前もない身寄りもない、捨てられたたった独りぼっちの獣。獣に人間の女をめとる権利などありはしない。ここで、自らの傲慢さを恥じながら、くたばるがいい」
「……、お前が俺を生んだのか……」
確信に変わった。浅野は、俺を獣にした男。俺の母親を殺し、里親も奪い、俺が野に放たれた原因をつくった男。左手で、わずかに残る感覚を頼りに、小刀の柄を探り当て、俺は咆哮とともに、浅野の右目にその刃を突き刺した。
「うぁああああああっ!」
浅野が右目から血をだらだらと流し、恐れをなして腰を抜かし、逃げ惑う。俺はその隙に右腕を貫通していた刀を左手で引き抜いた。もはや右手は動かすことすら叶わず、使い物になりそうもない。
「……この、名もなき男の息を止めろっ!」
浅野が去り際に吐いたその台詞で、忍びも傍観の姿勢から刀を構える。もちろん、先ほどよりは数が減ったが、それでも勝てる望みは絶望的だ。一斉に忍びがこちらに向かって斬りかかる。そのとき、彼女の叫びが聞こえた。
「……、ユーーーッ!」
その声は熱く俺の心を揺さぶり、利き手が使えないという劣等感をどこかへと弾き飛ばした。嘘のようだった。左の手が、自分の右手よりも自由に感じる。俺は左手の刀で向かいくる敵を一斉に切り払い、屍にした。
「名もなき男ではもうない……、俺の名前はユウだ。彼女がそう呼んでくれた。俺は……、最後まで……俺に名前を与えてくれた存在を守り続けるっ!」
彼女の声が、フローラの声が力をくれた。




