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女狐

 畳に転がる首を失った野呂間の亡骸。思わずフローラは顔面を手で覆いながら悲鳴を上げる。亡骸からは、まるで今になって斬られたことを自覚したように、止まっていた血がどくどくと溢れ出し、まだ青みの残る新しい畳に染み込んでいく。切り口からは骨と肉がしっかりと見えており、その様子を見れば、吐き気を催す者もいるだろうが、下手人の浅野はそれを嘲笑のタネとしていた。


「……空けよ。良い姿だ。安心して死にゆくがいい。お前がため込んだ金は無駄にはしまい」


 もはや生き返る余地などない屍に、げしと蹴りを入れる。今まで金づるとして利用するために、このむかっ腹の立つ空けに自分は頭を下げてきたのだ。何とすがすがしい姿だろうか。浅野は感慨に浸るような表情で、野呂間の首を踏みしめ、肉片がぐちょりぐちょりと音を立てて飛び散る様を詰る。この正気の沙汰ではない行動を、才蔵もけたけたと笑いながら眺めている。怯え惑い、常人の反応をしているのは、異国の女性であるフローラだけ。この状況の異様さを物語っているようであった。


「何を怯える必要があるか。括目して見るがいい。これがお前を犯そうとした男だ」


 そしてあろうことか、浅野はフローラの顔から両の手を引っぺがし、後ろで組ませた。否が応でも、血みどろになり、肉がはみ出た無残な姿の死体が目に入る。彼女が悲鳴を上げ、泣き叫ぶのも無理はない。


「少しは笑ってみたらどうだ。まあ、無理もないか。今度はこの私がお前を犯すのだから……」


 口角を引きつらせて、やけに長い舌を出し、上唇を舐める。フローラの顎に手を添えて、自らの顔に引き寄せ、舌先を彼女の唇に向かって伸ばして行く。思わず彼女は、背筋が凍りつき、浅野の手を振りほどいてがたがたと震えながら後ずさり。すると浅野は、にんまりと笑い、あろうことか彼女の頬を平手でぶったのだ。しかも、彼女がその場に倒れこむほどの力でだ。


「この娘を私の屋敷に担ぎ込め」


 美しく透き通るような白い肌が、今や浅野の手の形がくっきりとわかるほどに紅い手形がついてしまっている。強い衝撃に頭がくらくらとし、うまく立てないフローラの両の脇を、忍びが取り押さえ、彼女を担ぎ込む。間もなくして抵抗をするも、延髄に手刀を入れられ、気を失ってしまった。


「ここから退くぞ」


 浅野もこの成金独特のぎらぎらとした、けばけばしい屋敷から住み心地の良い自らの屋敷へと戻るため、その場を去る。屋敷の外には、馬車がつけてある。積荷には、野呂間のため込んでいた財産が積めるだけ積んである。もうこの屋敷は用済みだ。


「才蔵殿……」


 フローラが担ぎ込まれ、浅野が謁見の間を去るのを見送った才蔵のもとに、彼の部下の忍びが伝言に現れる。どうやら異変が起きたらしい。異変が起きたのは、やはりと才蔵が思う場所。お凜を閉じ込めて置いた牢屋だ。思惑通り、お凜を見張っていた手下がやられたということらしい。


「……やはり、あの女狐……。敵の懐に忍び込むための芝居だったか」



 才蔵からの命を受け、牢屋に忍びの群れが押し寄せた。看守をしていた忍びは、頭部から血をだらだらと流し、凶器は傍に転がっていた厠の蓋と思われる。牢屋の向こうの厠には蓋がなく、中から糞便の臭いが漏れてきている。そして、牢屋の中は、空っぽだった。


「逃げられたのか……」


 そう思うも、牢の鍵が開けられた形跡はない。牢の鍵を開けずに牢から脱出するのは、どんな忍術を使おうが、奇術を使おうが不可能だ。だが、牢屋の中には人の気配というものがない。ひとりの忍びが刀を抜き、身構えながら牢の鍵を開け、中に入る。あたりをしきりに見回すが、人の気配はない。かに見えたそのとき、忍びの頭上に、抜身の脇差を引き抜いてそいつは降り立った。


「ごめんごめん、天井張り付いてたらちょっと疲れちゃってさ」


 天井から、忍びを踏んづけて現れたのは、御庭番に反旗を翻した謀反者のくのいち、お凛。女ひとりの体重で、上からのしかかったのでは忍びもまだ息があるらしい。お凜の右脚に忍びの右手が喰らいつく。だが、そんなものに、この女は怯みはしない。たとえ、周りを大群に取り囲まれ、孤軍奮闘を余儀なくされてもこの女は、笑っている。背面方向にのけ反り、逆立ちをするような格好で床に手をついて右脚を忍びごとぶん回し。周りを取り囲む忍びどもにぶち込んで弾き飛ばし、態勢を整える間に手裏剣を投げ、一切の隙を作らせない。起き上がったところを正面から、斬りかかってきたその刀を弾き飛ばす。怯んだ隙に鳩尾に膝を食い込ませる。息をもつかせぬ攻めに相手が悶え、身を屈めたところで飛び上がり、そいつを踏み台にし、まるで飛び石を渡るがごとく、忍びの頭の上を渡る。


「逃がすなぁあああ」


 一気に忍びの群れを背後に迎えることになったお凛。背後から刀を構えて斬りかかろうとするも、そんなものはもう遅い。振り向きざまに、煙球を投げ、忍びの群れを煙幕の中に閉じ込める。


 その隙に、お凜は牢から地階へ石段を駆けあがり、野呂間の屋敷の庭に出る。ちょうど馬車と馬が屋敷を出ようとするところ。とっさの判断で手裏剣を投げ、馬の手綱を取っていた忍びを撃ち落とす。落馬し、地面に転がる忍びを足蹴りにして、止めを刺し、馬に勢いよく跨る。暴れる馬は3回ほどくるりとまわるが、手綱を引けば、すぐさま従順となる。先を走る馬に乗った忍びと馬車に手綱をしきりに振り上げて猛烈な追い上げを図る。


 だが、後方から追い上げるお凜の存在に気配付き、右前方を走っていた馬の手綱を取る忍びが警戒の指笛を吹く。これは迎え撃つよりほかはない。脇差を抜き、己に向かって放たれる矢を、馬を巧みに操って交わし、身を屈め、馬の腹を蹴る。ちょうど弓を構えた忍びにの横に並ぶと、その忍びの馬に飛び移り、首筋を脇差で一突き。そのまま冷たくなっていく屍を楯にし、矢の群れを全て屍に捧げる。自ら仲間の止めを刺してしまった射手の心の隙間に入り込み、屍が持っていた矢を奪って、お返しの矢の雨を頭上を覆う夜の帳に向かって放つ。空から降る矢の雨。周りを囲んでいた、忍びの乗る馬に正確に当り、舵の効かなくなった馬どもが次々と騎手を振り落す。


 そして、自らが乗る馬から今や矢が全身に刺さり、針山状態となった屍を突き落し、馬を走らせたまま鞍の上に立ち、先頭を走る馬車に飛び移る。おそらく、フローラはこの馬車の中に捕らえられているはず。馬車の屋根の部分の薄い板ならば、蹴りを与えて破壊し、中に侵入することが出来るはず。

 だが、それをする前に、中から屋根を蹴破って、忍びが飛び出してきた。屋根に這い出た忍びは刀を抜き、斬りかかる。激しく揺れる馬車の屋根。バランスを崩しながらも、脇差で斬撃を受け止めると、薄い屋根の板が悲鳴を上げる。ばきばきと折れて崩れ落ちる。お凛は忍びもろとも、馬車の小屋の中へと落ちる。狭い小屋の中には頭陀袋を被せられている艶やかな和服姿の女。ここで忍びの手をかいくぐり、フローラを奪還すれば目的は達成となる。だが、忍びは姑息にもフローラの首元に刀の刃先を差し向けた。思わず、怯むお凛。


 攻撃をすればフローラの命はないというわけだ。


 睨み合い、じりじりと間合いを詰めるふたり。狭い馬車の中、車輪の音と馬の駆ける足音だけが響く。だが、途中で馬車を激しい揺れが襲う。その後、明後日の方向へと離れていく馬の足音が。


「なっ……?!」


 馬が馬車から切り離されたのだ。謀られた。馬車は囮だ。動揺したその隙に、お凜に刃が迫る。避けきれないかと思ったそのとき、忍びの背後の小屋の横板が吹き飛ばされ、中から小刀を抜いたひとりの男が現れる。いいや、獣だ。


「……お、お前は……」


 現れた獣は乱暴にも、お凛の身体を抱きかかえ、そのまま彼女の背後の小屋の横板を体当たりで突き破る。半壊した小屋が城壁にぶちあたり、木っ端微塵に砕け散るのをお凜は獣の腕の中で見送った。御姫様抱っこの格好でお凜の身体を抱きかかえていたのをそっと地面に下す。お凜はすくっと立ち上がり、少し頬を赤らめながら礼をした。


「ありが……とう……」


 獣は両の手をぱんぱんと打ち合わせて、砂を払い落とす。


「思ってたより重かった」


 お凜は無言で、獣の右肘を明後日の方向に曲げた。


「ひぎゃぁああああっ!」



 *****



 相変わらず、この女のやることは分からない。馬を失い、舵の取れなくなった馬車の中。俺が助けてやらねば、城壁にぶつかり、馬車と同じく見るも無残な残骸に成り果てていただろうに、俺に感謝すべきところを、この女は関節技でお礼をしてきた。やっぱりこの女のやることは俺には不可解だ。


「いや、分かんだろ。分かんなきゃ人としてまずいだろ」


 もしかして、重いとか言ったのがいけなかったのだろうか。いや、もしかすると重いとか言ってはいけなかったのだろうか。さらにもしかすると、重いとは言ってはいけないのに、俺が重いと言ったからだろうか。


「確信犯だろうが!分かってやってたのかよ!」

「ほんの冗談だろうが」


 そもそも、こいつはなんで当たり前のように人の心を読んでいるのか。


「冗談でも言っていいことと悪いことがあるだろうがっ!」

「人のどてっ腹に、睡眠薬塗り付けた脇差をねじ込んだ奴に言われたくない」


 さっきのはほんのからかいというか、仕返しだ。あれで命が救われたと言えば、それはそうなのだが。いくらなんでもそのために、あそこまで人の心をかき乱すのは度が過ぎている。


「生きていたと自分で気づいたときは驚いたよ。おかげで寿命が縮んだ。お前には、寿命を縮まされてばかりだ」

「……でも、不思議と後悔はしていないように見えるわね」


「獣のくせに、すがすがしい顔してるじゃない」


 どうやら、この女。本当に人の心というものが読めるらしい。それも俺自身でもよく分からないような奥深くのところまで。こんな言い方をするのは悔しいが、獣の勘にも勝る女の勘というものもあるのだろうか。


「……なんでだろうな、お前に助けられて。一度は逃げ出そうと思った。もとの獣に戻れる気がしてな……。でも、もう戻れそうにねえや。ったく……、なんでここまで来ちまったかなぁ……。でも……お前も、俺がここに来ると分かってたから、あんな小細工までして俺を命拾いさせたんだろ?」


 悔しいから、こちらも思っていることを言い当ててみる。苦笑いが返された。当たったのだろうか。


「さあね。あなたが……ここに来ることを期待していなかったと言えば嘘になるけど……」


「何が言いたい?」

「別に。それにあんまり話している時間はなくってよ」


 途端に、お凜の顔つきが神妙なものとなる。一目見れば、口を出すことすら憚られるような鋭い鷹のような瞳。その視線は真っ直ぐに、俺たちを迎え入れるかのように開いた城門の向こうの武家屋敷に注がれていた。


「浅野という男……、好色なことでも有名だけど、そんな遊びで済まされるようなものじゃない……。フローラが思い通りにならないと知られれば最後。あの男は……、何をしでかすか分ったものじゃないわ」


 唇を噛みしめて、怒りを露わにするお凛。まさに虫唾が走るといった心持ちなのだろう。だが、どうしてか。俺も言い表しようのない何かを感じるのだった。



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