朝露に濡れた花
なんでかは分らない。その声を聞いた時、力が出た。きっと理屈では考えられない。理性ではなく本能のどこかを確実に、その声は刺激していた。もし理性が働いていたら恐れていたはずだ。この戦況で、自分の利き手が死んでしまっているということに。自分の身体が毒に犯されているということに。
「奴は手負いだ。右脇から攻めろ」
才蔵の指示通り、利き腕が死んで手薄となった右脇を執拗に、クナイが狙ってくる。まだ感覚の残っている二の腕を重点的に。
痛覚信号を飽和させ、全身を麻痺させる気だ。ならば……。
俺はクナイが風を斬る音を頼りに、その終着点に右の手の甲をあてがった。もう死んでいる右腕ならば、痛みなど感じないはず。弾数が多いなら、毒に犯された背中をあてがう。毒による麻痺を大いに利用させてもらう。
「肉を斬らせて骨を断つつもりか」
そして、俺は両の手を、再び床につけた。
「今だ、相手が怯んだっ!」
怯んでなどいない。人間を忘れ、四肢で地を這うこの姿こそが、俺の最も力を発揮できる体勢。獣の構えだ。
「うぉおおおおおおおっ!」
俺は獣のように咆哮を上げた。付近にいる者の聴覚が馬鹿になるほどの声量だ。怯んだ隙に、足元を崩し、浅野の眼球を刺した小刀を引っ掴み、崩れた身体を這い上がって、背面から延髄を一突きにし、倒れた身体を表に返して懐から煙球を奪い、それを背後の忍びの顔面に投げつける。広がる煙に、さらに怯えを強める忍びの群れなど、もはや烏合の衆。煙の中、感覚を頼りに、忍びの頭部に飛びかかり、頸動脈を引き裂く。四つん這いならば、刃渡りの短い小刀の方が、行動を制限されない。
そして、煙の中から飛び出し、才蔵に向かって振り下ろす。それを咄嗟に察知した才蔵の大鉈によるなぎ払いで後方に飛ばされる。だが、ここで才蔵は俺の凶刃に括目する。煙幕が晴れて現れたのは、血にまみれた屍の山。
「なるほど……、まさにお前は獣だ」
息をしなくなった屍の山を背に。
真っ赤に血がこびりついた小刀を左手に。
背中を猫のように反らせ、口を狼のように大きく開き、舌なめずりをする俺に、才蔵は戦慄を感じ、感嘆の声を漏らす。だが、その周りを守る忍びは、俺の獣の瞳に、背中を震わせていた。
「邪魔だっ」
あろうことか、才蔵は目の前で背中をがくがくと震わせていた忍びふたりを大鉈で一斬り。血しぶきを上げて地面にひれ伏すふたりの屍。恐れをなした部下など必要ないというのか。それとも、この俺とサシでやり合いたくなったのか。いや、その両方か。だが、その才蔵の願望も敵いそうにはない。
才蔵の背面から、お凜が飛び上がり斬りかかって来たのだ。
なんとか気配を察知した才蔵、お凜を大鉈で薙ぎ払う。それを軽々と避けて、お凜は俺の前に躍り出た。
「……、才蔵はあたしに任せて。浅野に!」
「ふざけんな、女に務まる相手じゃねえ」
「……毒盛られた上に、右腕をやられたあなたに言える権利があるっていうの? こいつは……、あたしが決着つけるのよ。それに、浅野は仇なんでしょ」
「……、可愛くねぇ女……」
謁見の間から逃げ去った浅野。俺はその匂いを頼りに行方を追った。上だ。階段を使って上の階へ逃げたようだ。走り出す俺の背中を、才蔵がクナイを差し向ける。
「させるかぁあっ!」
それをお凜は脇差で叩き落とした。
「聞こえなかったの?あなたの相手はこのあたしよ」
お凜が才蔵を引き留めている間に、俺は上の階へと駆け上がり、三階にまで登り、乱暴に障子が開け放たれた和室にたどり着いた。窓から夜風がびゅうびゅうと吹き注いでいる。浅野は、上に逃げたはいいものの、飛び降りる勇気もなく、壁に向かって必死に背伸びをするだけのなんとも情けない姿。
「くっ……、来るなっ!」
俺の右手を殺したときの気迫はどこに置いてきたのか、追い詰められたという危機感が人をここまで崩してしまうのかと呆れ果てる。じりじりと歩み寄り、その喉元に小刀の刃先を向けた。鋭利な刃先から必死に目を背けようとしながら、俺の顔を睨み付けてくる。
「……、私を殺す気か……、親への敵討ちか」
「俺は、お前がいなかったら獣にはならなかっただろう。だが、俺はお前を……、そんな後ろ向きな理由で殺したくない。
だから、フローラのために、ここから消えろ」
俺は刃を下げて、浅野の顔面を蹴り飛ばし、背後の障子窓ごと外に突き落した。
*****
フローラの怯えた蒼い瞳の中で、剣劇を交わすふたりの忍び。お凛と才蔵。大鉈と脇差という得物の差。無傷と、腹に刺し傷のある手負いの差。そして、男と女の力の差。全てにおいて不利な状況ではあるが、その差を全く感じさせない立ち回りをするお凛。彼女の身軽さが、その埋め合いになっているらしい。だが、長く続く立ち回りは、疲弊を生む。とくに身軽さを利用した戦いでは、剣の重さを利用した才蔵の剣裁きに対し、動きが多すぎる。
「ちょこまかと動くなっ!」
振りかぶった大鉈の上にお凛が飛び乗り、踏み台にして、才蔵の後頭部を肘で打つ。肩に体重をかけて、背中を蹴り倒す。床に転がったところで、相手が素早く向き直り、大鉈をぶん回す。肩口が切れてしまった。とっさの判断が大鉈の常識外れの刃渡りを計算できなかった。幸い、動脈を斬られていないことを穏やかな出血が物語るが、より一層憔悴を強めてしまうこの傷に、否が応でもお凜の胸の内に焦りが見え始める。それを噛み潰すかのように、奥歯を噛みしめた後、不敵な笑みを浮かべた仮面をかぶる。
だが、その少しの焦りの色を才蔵の目は逃さなかった。
才蔵は、飛び上がり、屋根の梁によじ登りながら、クナイを頭上から投げる。お凜はその梁を支える支柱を斬り、梁を落とそうとしたがこれは、才蔵の仕組んだ罠だった。柱を落とすと木の悲鳴とともに梁が折れ始めるという具合ではない。最初っから梁は、折れていて、柱の両脇にぶら下がっていただけの状態。そう、才蔵はよじ登った瞬間に、クナイで気を反らせ、梁を斬っていたのだ。梁がお凜の背中目がけて落ちてくる。間に合わない。そう思ったそのとき、身体が突き飛ばされた。
「なっ……!」
突然の思いもよらない事態に、才蔵は声を上げる。お凜を突き飛ばしたのはあろうことか、フローラだった。重たい角材はフローラの右のふくらはぎの部分にのしかかっていた。咄嗟にお凜が駆け寄るが、フローラは右脚を動かすことが出来なくなってしまったらしい。
「お、愚か者っ! なんで、こんな真似っ!」
「……、アイム、オールライト……」
背後から、才蔵の笑い声が聞こえる。
「笑いものだな。何も守れてなどいないではないか。やはり、お凛……、お前は組織を離れて弱くなった。こうは思わないのか、師範を守れなかったのは、お前が弱くなったからだと。お前は逃げたかっただけじゃないのか。師範を守れなかった自分から」
「……才蔵……、お前は何もわかってなんかいない」
お凜は、歯を食いしばりながら耐えるフローラの右手を強く握りしめ、才蔵の方へ向き直り、脇差を構える。
「フローラは、あたしを守りたいって思ってくれたの」
「それはお前が弱いからだ」
「……かもしれない。でも、あなたは何を守りたいというの」
「……、……」
そこで言葉に詰まる才蔵。
「お前の剣はどこに向いている。才蔵、目を覚ませ」
肩が小刻みに震えはじめる。
「う、うるさいっ!……私の剣は最初っから、師範……佐之助を守るべく時代が佐之助を殺したってんなら、このふざけた時代に喧嘩を売るしかねえだろうがよっ!」
「あたしだって、佐之助のために生きているわよ。今も」
奥歯をぎりりと噛みしめ、拳に青筋を走らせる。
「ふざけたことを言うな! ……御庭番を捨てたお前が……その名を語るなぁああっ!」
「……佐之助は、殺されていない!自刃したのよ!」
お凛が放った一言に、才蔵は我が耳を疑った。
「う、嘘だっ! 私を謀る気かっ!」
「嘘じゃないわ……、あたしは見届けたのよ佐之助の最後を」
佐之助を監禁していた新政府派の居城の地下牢。御庭番の師範である佐之助を罪人という扱いで新政府派に幕府が引き渡したため、牢屋には入れられた。だが、彼には城のものと変わらぬ食事が与えられた。罪人に似合わぬ待遇は、御庭番が幕府から用済みと理不尽に切り捨てられたのを、新政府派が師範ひとりの斬首を条件に擁護したからだ。御庭番の組織全員が取り潰し対象だったのを救えたが、師範の首を斬らなければいけない事実は変わらない。それへの僅かながらの罪滅ぼしだったということらしい。だが、この丁重な扱いと新政府派の擁護を、御庭番の連中は把握しようとしなかった。ただひとり、お凜を除いて。
「佐之助は、幕府の終わりを予見していた。それから新政府派に寄り付く準備も進めていた。もちろん、御庭番の存在意義が幕府を守ることだった当時は、あたしを含めて弟子たちには一切このことを話さなかった……、それは佐之助本人も御庭番を守る最後の手段として新政府派との関係を持っておきたかったからだと思う。
佐之助の奪還で、御庭番の仲間が殺される中……。佐之助は、役人を介錯役として呼び出し、その前で自らの腹を刺した。そして、最後に天井裏からその一部始終を見ていたあたしにこう言ったわ。
前を向いて生きてくれと皆に伝えておいてくれと」
才蔵の手が解かれ、床に大鉈が鈍い音を立てて横たわる。そして、才蔵はゆっくりと膝を折った。気付かされたのだろうか。
己が向けていた刃が過去にしか向いていなかったということに。
自分には守るべきものも、進むべき前も何もないということに。
力を失ったその背中は震えていた。お凜はそっとその背中に自らの右手を差し伸べ、優しく摩ろうかとしたその瞬間、才蔵の背中を刃が一突きにした。才蔵の身体は床に倒れていた。身を屈める姿勢で隠していたクナイを右手に持っていたのが見えた。
「……、危ないところだったな……」
才蔵は、攻撃の手を休めた体を装い、お凜の情を利用して誘っていたのだ。お凜の説得が効かなかったわけではない。効いたところで、彼が前の向き方を知らなかったのだろう。だからお凜も才蔵に手を下した獣を責めはしなかった。
「……、ありがとう……」
「礼なんて言うな。死んでほしくなかったっていう面してる」
「……、そうやって自分を責めたいの?」
「……、聞きたくないだけだ。女の強がりは胸に悪い」
獣は、フローラの脚にのしかかっていた梁を持ち上げ、フローラの右肩をゆっくりと持ち上げた。右脚はまだ動かせない。恐らく骨が折れている。その様子を見て、お凜もフローラの左の肩を支える。
「さて……、フローラを守るか……。この身体でどこまでできそうだ」
「さあね……新政府に取り入れば、この娘が安らげる場所があるかもね」
「長い旅路になりそうだな」
「あたしが預かろうか。その手置いじゃ頼りになんないから」
「腹をぶっ刺された女に言われてもねえ」
「あたしも右腕が死んだ男には守ってもらいたくないね」
「……オリン、ユー……」
憎まれ口をたたき合いながら、肩を支えて、忍びと獣と異国の姫君が歩きはじめる。姫君の肩が小刻みに震え、覗き込むと、青い瞳から清らかなせせらぎが流れていた。天に昇りたての眩しい朝の光が窓から注いで、その滴を照らし出す。朝露にまみれた花はそっと、呟くのだった。
「……、アリガ……トウ……」




