箱庭の真実
……まるで、こわい夢を見ているようだった。
アルディアンナは連れてこられて真実を知った時から、それでも諦めずに帰郷を訴えてきた。このときは困りはしていても、本来の快活さを失ってはいなかった。
それが、いつから壊れてしまったのか。明確に変わっていったのは、最初の脱走の時だった。
「……お可哀想に。私でよければお手伝いしましょう」
あまり見たことのない侍女の一人だった。
リザに聞けば、新しく手配された一人らしい。そういえばアルディアンナについていた侍女の一人が家庭の事情で辞めていた。最初から付いてきてくれていた一人なので騙されていたとはいえアルディアンナも別れを惜しみ、彼女の幸せを祈ったのは新しい記憶だ。
そして足りなくなった人員が補充され、初めて出会ったばかりの者が侍女がアルディアンナ付となった。
そしてアルディアンナが訴えても誰にも届かず打ちひしがれていた時、その侍女は甘く囁いた。
アルディアンナ自身も戸惑いを隠せず、不安を明かして一度はそれを拒否しようとしていたが、手立てのない状況に流される。
リザでさえ、アルディアンナの望みは頑なに叶えてくれなかったのだから。
「……本当に?で、でも貴女に迷惑が掛かってしまうから」
「いいえ、アルディアンナ様のためならば構いませんわ。何事もあるところにあるべきなのですから」
にっこりと笑みを浮かべる侍女の言葉に偽りはなかったのは確かだ。侍女がアルディアンナを主として認めていた場合は本当の意味も、結末も違っていたのかもしれない。だけど初めからこうなることは仕組まれていたのだから、その齟齬を指摘する者などいるはずがなかった……。
ある昼下がりの、天気の良い日に計画を実行したのは覚えている。
そのあとのは記憶は断片でしかなく、医者が言うにはショックが大きすぎたから思い出さないようにしているらしい、とアルディアンナは後に何処か他人事のように聞いた。
一人で庭を散歩をしたいと言って出た裏庭から、先に出ていて誘導する侍女のあとを着いていく。
そして自由への扉に手を掛けたその瞬間に、アルディアンナの自由は奪われた。
後ろから背中を押されたと思ったら、口許に酷い臭いのする布を当てられ、みぞおちを殴られ痛みが襲う。
遠くなる意識のなかで、怖いぐらいに表情もなく冷たい視線を向ける侍女と、見知らぬ男たち。
「……本当に、身のほど知らずですこと。私がどこかの田舎者でしかない貴方に忠誠を誓うと信じていたのかしら」
厭そうに吐き捨てられた言葉は、アルディアンナの心を切り裂く。それは王宮で初めて向けられた明確な悪意だった。
ただ幸運なことに王宮から連れ出される前に全ては露見し、アルディアンナが次に目を覚ましたのは与えられた部屋のなかであった。
まるで霞がかかったような意識のなかで、誰かに握られた手だけが熱かった。
「……アディ、何故こんなことを」
重たい頭を傾けると、悲しげに顔を歪めたクラウディアードがいた。握っているのは誰かわかったが、何だかとても怠くて何も答えれない。
あの侍女はどこに、どうしてこの場所に戻っているのか、アルディアンナの考えは纏まらないまま視線だけが彷徨う。
「お前を誑かした者共は捕まえた。身体の自由が利かぬのは薬の影響だ」
「く、すり……?」
舌が痺れているかのようで、言葉が続かなかった。言われてみれば確かに身体が上手く動かない。思考も鈍くて、また眠気が襲い瞼が重く気を抜くとまた遠くなりそうだった。
途切れがちな記憶を頼りに思い返すと、ようやく騙されていたことと向けられた悪意を思い出す。
優しくしてくれた、信用した侍女の裏切りと蔑んだ視線は、アルディアンナを恐怖させるのに充分だった。
「い、や……かえ、りたいの……」
身体の自由はまるできかないのに、涙だけは溢れる。アルディアンナは自分の生きるべき世界を心得ていた。だから今まで強い憎しみに似た悪意を向けられたことはなかったのに。
涙で濡れた瞳で訴えかけると、クラウディアードは感情が抜け落ちたかのように表情を消した。それは初めて見たが、この時のアルディアンナに気にかける余裕などなかった。
きっとこの時から、かけ違えてしまったのだろう。
「おねがい……」
「……聞けない」
「クラウ……?」
「お前をもう離すつもりはない……」
握られた手が痛いほど強まる。決して離さないと誓ったかのように思えて、アルディアンナは初めて不安が込み上げる。
初めて知ったのは、幼い日々の優しい瞳しか知らなかったから。
そして、2度目の脱走の時クラウディアードは今まで見たこともないほどに怒りを見せ、アルディアンナは身も心も暴かれた。
それから記憶は、今でも思い出すと激しい動悸に苛まれる。二人の関係はどこか歪で、柔らかな陽射しの檻で少しずつ何かを見失いつつあった。
だけども、アルディアンナは知っている。
クラウディアードの怒りを受け止める一方で、このアルディアンナを囲う小さな箱庭は決して傷付けたりはしないことを。
それを知っていてはただ甘えるしかない自分を一番許せないのは。
「アルディアンナ様?」
先程からの心あらずといった表情のアルディアンナに声を掛けると、思考の中から戻ってきたのかやや心許ない顔を見せた。
持ったままのカップを置いて、漸く今の状況が飲み込めたようで頭を下げて見せる。
「申し訳ありません、ベアティミリア様からご招待戴きましたのに……」
ここはすでに庭園の東屋で、目の前には美しい貴人が微かに眉を寄せてこちらを見ていた。
いつものように人払いもされてあり、二人きりだと言うのに他事ばかりに気を取られているのは不敬際回りない。
「お気になさらないで。ですが、もしかしてお加減が宜しくないのでは?」
日差しがそこまで強くないとはいえ、アルディアンナの表情はどこか落ち着かず暗く見えた。とはいえ、ベアティミリアにも予想外のことがあったのだから判断がまだつかない。
「いいえ、そんなことはございません……」
「では、私の騎士が何か失礼を?」
息を呑んだアルディアンナの様子に、やはりという確信が生まれた。そしてその内容も、ベアティミリアにとって喜ばしいことではないだろうことも既に見抜いている。それでいてあの騎士は素知らぬ顔でアルディアンナを連れ立って現れた見せた。
無様な動揺を見せなかったのは、ベアティミリアの意地だ。
「ベアティミリア様のご提案、という訳ではないのですね」
「……何を、彼は申しておりました?」
柔らかな物腰を崩さなかったはずのベアティミリアの言葉にはっと驚き、その表情を見てアルディアンナは違和感を覚える。なぜ、ベアティミリアともあろう人がそんな表情をしているのか。
それから、天啓のようにアルディアンナは理解した。
あの黒を纏った騎士の正体と、ベアティミリアの立場。
穏やかな記憶の中で王妃であった貴婦人の小さく漏れた後悔の意味と、その後悔の先にいる相手。
ベアティミリアが王妃候補を譲らぬ理由と、それでいて尊いクラウディアードとは対等であろうとする姿勢。
「ベアティミリア様は、あの方をお慕いしているのですね」
答えの要らない問いかけはただ事実として確かにしたかったからだ。その証拠に、ベアティミリアはただ微笑むだけ。
だけど、どうして、今にも泣かそうに微笑むのか。
アルディアンナには、ベアティミリアを悲しみを癒す言葉を持っていない。こんなにも近くに感じているのに、とても違うから。
「……わたくしには、美しい母がいましたの」
言葉を持たないアルディアンナより先に、ベアティミリアは話を紡ぐ。
答えにたどり着いたその時に、話すと決めていた。
この数奇な運命を変えるために。
きっとこの始まりは、ある女性の悲劇。