08 国
王都は、いつもより静かだった。
冬の気配が国全体に広がっている。
市場は賑わいを保っているのに、どこか空気が乾いている。
人の声が届くはずの場所で、音が消えていくような、妙な静けさ。
王城の執務室は、さらに静かだった。
机の上には、封蝋が割られたままの報告書。乾いたインクの匂い。
窓の外からは、遠く訓練場の掛け声がかすかに届く。
平和に訓練に励める――それがどれほど薄氷の上に乗っていたかを、この部屋にいる者は知っている。
机の前に影が跪いて、短く報告をしていた。
「……聖女、死亡。母妹も同様。山中にて確認。任務、遂行」
王は書簡から視線を上げもしない。
ただ、一言だけ。
「そうか」
それで終わりだ。
影はそれ以上言わない。言う資格がない。王命を遂行しただけの者たちに、言葉の自由など与えられない。王もまた、自由を持たない生き方を選び続けてきた。
「下がれ」
影は無音で退いた。扉が閉まり、また静寂が戻る。
その静寂の中で、唯一、呼吸が乱れている者がいた。
第一王子だ。王の横に控えているが、背筋が固い。手が僅かに震えているのが、王には見えた。
震えを隠そうとして、拳を握りしめている。
王は何も言わず、椅子の背もたれに体を預けた。
背中に冷たい革の感触。
玉座よりも、執務椅子の方がよほど「王」という生き物に似ている、と王は思う。
玉座は見せるためのものだが、この執務椅子は耐えるためのもの。
教会の司教の怒声が、耳の奥で蘇る。
『わたしは何度も言ったはずだ! 聖女殿の御身を考えよと! あの御方の力に縋るだけの国に未来など無いのだと!』
清廉な司教。
腐敗の匂いのない、数少ない「信用できる」神官。
王はその男の声の温度を覚えている。
怒りだけではなかった。恐れと、痛みと、そして悔恨が混ざっていた。
王の冷たさとは別の意味で、重い声。
王は聖女に与えられるだけのものを与えた。
家族の安全。衣食住。王族籍。名誉。贅沢。
――そして、約束を守るために、王自身も動き続けた。
隣国へ赴き、魔導技術を導入し、魔物への対抗手段を増やすために国庫を削り、官僚を叱りつけ、軍備を整え、政策を進めた。
六年。
聖女を檻に入れてから六年。
王が政務を疎かにした日は一日たりともない。
冷酷で残酷で非道な選択をしながら、その選択の代価を払うことだけは怠らなかった。
それが王の誇りであり、唯一の「誠実」だった。
だが。
結果が伴わなければ、意味がない。
一流の教育を与えていたはずの第二王子。
血生臭い継承争いから遠ざけるために、あえて第一王子ほど期待を寄せず、穏やかな場所に置いた第二王子。
その「穏やかさ」が、息子を愚かにしたのか。
あるいは、愚かさは最初から息子の中にあり、王の目がそれを見抜けなかっただけなのか。
そして負の感情に囚われた第二王妃。
側室の子という烙印。未来のない息子。平民の娘が「聖女」と呼ばれて王族籍に座る理不尽。理解できなくて当然の心。けれど理解できたとしても、許されることではない。
すべてが絡み合い、狂った。
聖女は逃げた。
逃げ続けた。
その先で――死んだ。
王は、司教の最後の言葉を覚えている。
『……王よ。覚えておきなさい。神は決して、あなたの行いを許しはしない。わたしもだ。あなたの言葉を信じ、あの娘を教会で保護しなかった自分自身を、生涯呪い続ける』
司教は去った。
今後は事務的な付き合い以外、決してしないだろう。
失ったのは聖女だけではない。聖女にまつわるあらゆるものが、王に刃を向け始める。
将兵の信頼。領地貴族の忍耐。神官たちの最低限の協力。
王は低く呟く。
「何を今更――最初から、俺が許されるなど思っていない」
十歳の少女に「国のために死ね」と命じたあの日に、王は神の元に召される資格を失った。
自分の死後、行く場所は地獄以外あり得ない。
それは王自身が、王位についたときから決めていたことだ。
地獄に行く覚悟なくして、この椅子に座れるものではない。
王は目を細めて第一王子を見た。
「聞いているか」
第一王子は、喉が詰まったような表情を浮かべつつ、頷いた。
王は続ける。
「これから、この国は荒れる」
淡々とした声だった。誰かに言い聞かせるというより、自分が既に答えを知っている事実を、再確認する声。
「聖女が見つかる前、この国は六年前に一度終わりかけた。魔物の活性化。兵の消耗。農業と職人の人員が戦地に吸われ、産業が痩せた。国は疲弊し、余力を失い、崩れる寸前だった」
国王は、六年前を思い返しながら言った。
「聖女は、それを止めた。負傷者を十分の一に減らした。これは奇跡ではない。国家構造に対する救いだ。六年分の技術発展が、農業政策が、職人の育成が、兵士の補充に飲み込まれずに済んだ。王都の平和は、その上に立っている」
第一王子の唇が震える。
「……私が、彼女の婚約者であれば。今回の悲劇は防げたのでは」
言いながら、自分で自分を責めるような顔。
しかし王は、即座に否定した。
「できなかった」
その一言には、容赦がない。
だがそれは息子を突き放すためではなく、現実という壁の厚さを、息子に教えるため。
「お前は次期国王だ。お前の婚約者は次期王妃となる。王妃教育の時間も猶予も、あの娘にはなかった。いくらなんでも平民の娘を王妃にはできん。……予備の第二王子の婚約者に据える。それが限界だった」
王は息を吐いた。
「そして第二王子の妻となれば、王の身内だ。身内に置けば、護れる。少なくとも『護りやすい』――そう考えた。あれが唯一の策だった」
第一王子の眼に、悔しさが滲む。
「……弟が、あそこまで愚かだったとは」
王は答えなかった。答える必要がない。愚かさを見抜けなかったのは王だ。
見抜けなかった理由が、教育方針なのか、王自身の盲点なのか、もはや考えることに意味はない。
王は言う。
「問題はふたつ。第二王子が、あそこまで馬鹿だと思っていなかったこと」
そして、続けた。
「――もうひとつ。俺が、人の心に寄り添うことをしなかったことだ」
言葉の端に、自嘲が混じる。
「俺は……幼い頃から冷たい世界で生きてきた。人を労わる方法を、政治の道具としてしか知らん。あの娘に必要だったのは、贅沢でも栄誉でもなかったのかもしれんな」
王は知らない。人の心に寄り添う事を、知らないまま今日まで生きた。
王が思いつく最大の報酬が、贅沢と栄誉しかなかった。
それ以外で、王に用意できるものがなかったのだ。
過ちだ。
致命的すぎる過ちだった。
王は告げる。
「おそらく近い内に、俺は断頭台に登る」
「なぜ……!? 陛下が、なぜそんな……!」
第一王子が絶句した。
けれど、王は淡々と語る。
「馬鹿正直に発表などしない。聖女は行方不明。病死。事故死。……表向きはそうだ」
王は窓の外を見た。
王都は今日も動いている。市場の声。衛兵の足音。教会の鐘。平和な音。だが、その平和は薄い氷の上にある。
「だが、聖女を知る者は信じない。戦地の将兵も、領地貴族も、清廉な神官も。彼らは『建前』より『現場』を信じる。現場にいた者ほど、真実を嗅ぎ分ける」
王の指が、机を叩いた。
「反感は俺に向く。怒りも憎しみも俺に向く。それを受け止めねば、国が割れる。聖女がいない以上、軍事費は莫大な数になる。損耗も、目を覆うほどに増えるだろう。そんな状態で国が割れたら、滅亡は確実だ」
第一王子は言葉を失っていた。
王は続ける。
「だから、俺が死ぬ。俺が死ねば、怒りの矛先はひとまず収まる。収まらずとも、暴発の速度は落ちる。国は『王を処刑した』という形で納得を得る」
王の声は冷たい。だが冷たいからこそ、現実を見据えられている。
「聖女に国のために死ねと命じた。ならば俺も、国のために死ぬ覚悟はできている。最初からだ。王位についたその時から」
そして王は、息子に向き直った。
「お前が王になる」
第一王子の喉が鳴った。恐怖か、覚悟か、どちらか分からない音。
王は更に続ける。
「侯爵領での修行は終わりだ。いや……終わったも同然だ。お前は未熟なまま、混沌の舵を切ることになる」
王は、ここで初めて頭を下げた。
わずかに。
ほんの一瞬だけ。
それでも、王が頭を下げるということは、世界が割れるようなことだ。
「すまない」
「陛下……!」
第一王子の目が揺れた。
王は顔を上げる。
「正しく成長を遂げれば、お前は稀代の名君になれただろう。だが国は荒れる。荒波の中で、人を育てる余裕などない。国を存続させるだけで精一杯だ。……歴史書は俺を『稀代の愚王』と書き、お前を『乱世の凡君』と書くだろう」
第一王子は唇を噛み、声を絞り出した。
「……それでも、私は」
「生き残れ」
王は遮った。
第一王子の煩悶を、不安を、全て断ち切るように。
「名君になるな。聖人になるな。国を残せ。残すだけで、十分だ」
執務室の中に沈黙が落ちる。
王は机の引き出しを開け、短い文書を取り出した。
処刑の段取りではない。今はまだ早い。
だが、未来のための道筋だ。官僚と軍の要職。誰が次の政権を支えるか。誰が反乱の芽を潰すか。誰が民衆の怒りを受け流すか。
王は言う。
「半年だ」
「半年……?」
「半年後、俺は処刑される。お前が王位を継ぐ。第二王子は病死と発表される」
第一王子の顔が歪んだ。父は、息子の死まで決めている。いや、死そのものが真実かどうかは分からない。だが発表は病死。そう決めている。そう決めねば、国が持たない。
王は淡々としたまま、最後を締めた。
「真実がどうであれ、国は危機に晒される。聖女がいない世界で、国を維持する。それが、お前の仕事だ」
第一王子は立ち尽くしたまま、震える息を吐いた。
父を恨むべきか。
父を理解すべきか。
父を超えるべきか。
答えは出ない。出せるほど、世界は優しくない。
王は椅子にもたれ直し、もう一度だけ窓の外を見た。
王都の上に、薄い雲が流れている。
その雲が、まるで棺の蓋のように見えた。
騒乱は起こる。
国は荒れる。
それでも、国は生き残らねばならない。
王は静かに言葉を送る。
「行け。準備をしろ。お前が王になるのだ」
第一王子は、唇を噛みしめ、深く頭を下げた。
その背中はまだ若い。
だが、その背に乗るものは重すぎた。
執務室の扉が閉まる。
残された王は、机の上に視線を落とす。
執務机は何も変わらない。
変わらない物がある中、世界だけが変わってしまった。
王は筆を取り、淡々と次の命令を書き始めた。
国を存続させるための、次の冷たい選択を。




