07 影
気の進まない仕事だということは、最初から分かっていた。
分かっていて、それでも「影」は歩く。
王宮の影。表の歴史に名を残さぬ者たち。
王の言葉が届く場所なら、どこへでも行く。王の怒りが向かう先なら、泥でも血でも踏む。
彼らはそれを「職務」と呼び、感情の置き場所を持たないように訓練されている。
――訓練されている、はずだった。
この任務だけは、胸の奥に沈んだまま動かない鉛の塊のように、重い。
逃げ続ける聖女を追う。包囲網を敷き、押さえ込み、回収する。場合によっては殺す。
命令の文面は単純だ。単純であるがゆえに、冷酷さが剥き出しになる。
彼らが追うのは「罪人」ではない。
国が縛り、国が使い潰し、そして国が捨てることになった――まだ十代の少女。
影の隊長は、最初の会議で言う。
「口を閉じろ。考えるな。職務だ」
誰も異論を挟まなかった。挟めるはずがない。
王命だ。影にとって、王命は風向きと同じで、逆らう概念がない。
それでも、足取りが重い者がいた。目が冷えている者がいた。誰も言葉にはしないが、全員が同じ感覚を抱いている。
――汚れているのは、民ではなく、俺たちだ。
街の至る所に手配書が回っていた。
白い紙に描かれた似顔絵。
実際には似ていない。聖女の顔を見た者は少ない。
王都での聖女は、神官の衣と白いヴェールで顔の大半を隠していた。
戦地での聖女は、泥と血と疲労で、肖像画のような美しさなど最初からない。
それでも人は紙を信じる。
紙に書かれた「報奨金」の数字を信じる。
行方を知る者には金貨を与える。確かな情報なら銀貨。保護に協力すれば、追加の褒賞。
保護と書いてあるところが、この国の冗談の上手さだ、と影の一人が心の中で毒づく。
金は偉大だった。
何故、聖女が王都を離れたのか。
何故、手配書が回っているのか。
何故、国がかつて祈りを捧げた相手を追っているのか。
そんな問いは、誰も抱かない。
抱いたとしても、口にしない。
抱くのは「金貨が欲しい」という欲求だけだ。
善でも悪でもない。飢えと寒さと、目先の暮らしが生む切実な欲。
影はそれを見て、汚いと感じた。
そしてすぐに、さらに深い汚れが自分たちの足裏にこびりついていることを思い知る。
事情を知らずに金で動く民より、事情を知ってなお追う自分たちのほうが――よほど汚い。
だが、影の者たちはそれを口にしない。
口にした瞬間、心が壊れるからだ。
壊れた心では任務が遂行できない。
任務が遂行できない者は、影では生きられない。
情報は集まっていった。
顔を隠した「三人の親子」。
粗末な外套。荷は小さい。食料の買い方がぎこちない。
最初の目撃は、川沿いの市場だった。
次は、街道の宿場町。
その次は、関所の手前の村。
どれも同じ特徴があった。三人の親子は、目立たないようにしているのに、不自然に目立ってしまう。消えようとして、かえって輪郭が濃くなっていく。
影の者たちは地図に印を付けた。動線は明確だった。
隣国へ向かうつもりなのだろう。
だが関所は通れない。
王の命令が出ている以上、関所の兵は「三人の親子」を見逃さない。
たとえ本当にただの親子でも、手配書が回っているのだから疑う。
だから、山越えをする。
素直に無謀だと思う。
長く戦地で過ごした聖女はともかく、母親と妹は平民。
王都の暖かな生活に慣れた身体だ。山の冷え込み、岩場、獣道、夜の寒さ、食糧不足――耐えられるはずがない。
しかも季節が悪い。今は冬だ。無理がありすぎる。
しかし影の者たちが、彼女たちを嘲笑うことはない。
嘲笑う資格など、どこにもない。
むしろ、胸の奥で「逃げ切ってくれ」と祈る者すらいた。
王からの命令は端的だった。
他国へ行こうとするのなら殺せ。
ただし、可能な限りその選択は避けろ。
国内に留まるのなら、あらゆる条件を聞け。
地位も名誉も金銭も、望むだけ積め。王都でなくてもよい。
どこの領地でもよい。ただ、国の外へは出すな。
影の者は、その命令を聞いて思った。
通らない。
言葉の上では理がある。国家の均衡。隣国に聖女を渡すことの危険性。国益。戦地の損耗。
正しい。正しいことは分かる。
分かるのに――通らない。
あの娘を、どれだけ酷使した。
十歳の子供を契約で縛り、戦場に投げ込み、心を削り続けた。
王は冷酷であることに慣れ過ぎた。冷たいまま歩くことに慣れ過ぎた。
そして、その冷たさを、少女にも求めた。
求めてはいけなかったのだ。
影の一人が、歩きながら思う。
あの娘は、ただ力を持っただけの、小さな娘だったのにと。
……今更だ。
今更思っても手遅れだ。
聖女の向かう先は間違いなく隣国。
亡命。そこへ辿り着けば、二度とこの国のために力は振るわれない。
そして隣国の戦地で、あの結界が、あの癒しが振るわれる。
国家間のパワーバランスが崩れる。
王の判断は間違っていない。渡るくらいなら殺さねばならない。
……間違ってはいない。何一つ正しくもないけれど。
影にできるのは、命令通りに動くことだけだ。
意思は不要。感情は邪魔。思考は最小。
ただ静かに、影は山に入った。
――冬の山は、冷たい。
風は刃のように肌を削り、霧は布のように視界を塞ぎ、足元の岩は不機嫌に滑る。
雪が踏まれ音が鳴り、息を吸う度に胸の奥が痛む。
先行する影が、手で合図を送る。
三人分の足跡。
ひとつはしっかりしている。ひとつは浅い。もうひとつは、途中から乱れている。乱れた足跡は、転び、滑り、引きずられている。支えられた跡だ。抱えられた跡。
遅れている。
追い詰めている。
聖女は逃げるために、こんな険しい道を選んでいる。
選んだまま、ここに来てしまった。
そして――山の途中で、彼らは見つけた。
まず感じたものは匂い。
僅かな血の匂い。けれど腐敗ではない。冷えた土と、濡れた布と、そして……死の匂い。
人間が、生きていない匂い。
影のひとりが、足を止める。
そこには、二つの体があった。
母親と、妹。
雪の上に横たわり、体はもう動かない。
口元に薄い霜がつき、目は半分開いたまま凍っている。
手は互いに伸びているのに、指先が届いていない。
体が、岩にぶつかったのか、形が不自然に曲がっている。
雪が朱に染まっている。きっと頭を打ってそのまま――。
そして、その二人の傍に、少女が跪いている。
聖女。
薄い肩。細い背中。ボロボロの外套。指は傷だらけで、爪の間に土と血が入り込んでいる。
寒さで紫に変色しているのに、彼女は震えていない。
――震える余裕がない。
彼女は、二つの体を覗き込んでいた。
呆然とした顔で、死体となった家族を覗き込んでいた。
そして、家族の身体を、小さく揺すっている。
何度も何度も揺すっている。
言葉をかけず、寝ている家族を起こそうとするように。
必ず起きると信じているかのように。
影の者たちは、そこで足を止めた。
誰も命令を口にしない。誰も「対象を確保する」と言わない。
誰も「殺せ」と言わない。とても言えない。
死んだ者は蘇らせられない。
聖女の力が届かない、唯一のものが死者だ。
影たちも、それは知っている。
知っているからこそ、この光景は残酷だ。
きっと即死だったのだ。聖女の癒しが届く前に、瞬きの間に死んだ。
結界すら間に合わず――ああ、本当に、無慈悲なほど一瞬で。
逃げて、逃げて、逃げ続けた先で。
山の斜面に足を滑らせて、滑落した母親と妹が死んだ。
冬でなければ、雪がなければ、足を滑らせることなどなかっただろうに。
追跡を恐れて無理な道を選ばなければ、こんなことにはならなかっただろうに。
けれど現実は残酷で。
国が縛り続けたその先で。
最後まで護りたかった家族を失った。
影の者たちは、静かに武器を構える。
非道とは言い切れない。ある意味で、最大の憐憫だ。
もう聖女が国に仕えることはないだろう。
護りたかった家族を失い、それでも国のために力を振るう――そんなことができる心は、もう残っていない。
ここで終わらせてやった方がマシだと、影の者たちは思ってしまった。
思ってしまったことが、彼ら自身をさらに汚した。
しかし、手は動く。訓練された手は、躊躇なく動く。
剣が鞘から滑り出る音が、冬の山に小さく響く。
その音に、聖女が反応した。
ゆらりと立ち上がる。
聖女と目が合った。
影は、その目を見て息が止まる。
憎しみがない。
恐怖もない。
悲しみもない。
あるのは――空洞。
穴が開いたような目。
すべてが抜け落ちて、残った形だけが「人間の形」をしている。
――そして、彼女の手に光が集まり始めた。
膨大な光。
祈りの光ではない。癒しの光でもない。
熱を孕み、牙を剥くような攻撃的な波動。
結界の光とは違う。回復の柔らかさが一切ない。純粋な破壊の輪郭。
影たちは一瞬だけ、目を見開く。
聖女は、攻撃は不得手だったはず。
聖女は護りの術の人間。癒しの術の人間だ。
結界を張り、命を繋ぎ、戦場の損耗を減らす――それが彼女の役割だったはず。
だが、不得手とできないは違う。不得手でも、やれるならやる。
守る者がいなくなった今、彼女は「守り」を使う理由を失った。
理由を失った魔法は、時として方向を変える。
理解が追いつくより先に、影の身体が動いた。
殺しの技は、考えるより先に出る。
攻撃の気配を感じた瞬間、最短距離で相手の懐へ潜り込み、詠唱が完成する前に終わらせる。
影の隊長が踏み込む。
足音が消える。影のように滑る。
次の瞬間、剣先は聖女の胸元へ――。
――しかし、違和感があった。
防御結界が無い。
正確には無い、のではなく……張っていない。
いつもなら、彼女は反射で張る。
驚いた時も、怒った時も、眠っている時でさえ薄い結界が残ると聞いていた。
呼吸のように張り続ける者だったからこそ、聖女と呼ばれ国に縛られた。
なのに、彼女は無防備だった。
刃が、抵抗なく入った。
一突きで心臓を貫いた感触。骨に当たる手応え。血が温い。剣先が微かに震える。
聖女の体が、静かに崩れた。
光は霧散した。熱が消えた。攻撃の波動は、形になる前に消えた。
影の者たちは、言葉を失う。
聖女が攻撃を放とうとしたのではない、と理解したからだ。
あれは、最後の怒りですらない。
最後の抵抗ですらない。
ただ、反射的に集めただけの光。怒りの形を作ろうとしただけの、空虚な動き。
聖女は倒れながら、影たちを見なかった。
彼女の視線の先は――二つの死体に吸い寄せられたまま。
母と妹。最後に守るはずだったもの。最後まで守れなかったもの。
聖女の唇が、わずかに動いた。
音にならないほど小さく、吐息のように漏れた声。
それは呪いでも、恨みでも、怒号でもない。
むしろ拍子抜けするほどの――子供の声。
「……長かったぁ……やっと……終われる……」
苦笑いのような、泣き笑いのような声。
その言葉を最後に、少女の鼓動が止まった。
開かれたままの目は閉じる事もなく、光を宿す事もない。血が冷えていく。
体温が冬の冷気に吸い取られる。生き物としての「温度」が、静かに消えていく。
影の者たちは、その場から動けなかった。
職務としては、成功だ。対象を排除した。隣国への亡命を阻止した。国家の均衡を守った。
――守った。
その言葉が、胃の奥で腐る。
何を守った。誰を守った。
守った結果が、この光景だ。
母と妹の死体の傍で、疲れ切った少女の息を止める。
逃げ切るために山を越えようとした家族が、落ちて死ぬ。
守りの術しかない少女が、最後に攻撃の形だけを握り、結界も張らずに刺される。
影の隊長が、手のひらを見つめた。
血が付いている。この冷気のせいか、もう冷え始めた血。
――生涯取れない血だと思った。拭っても取れない気がした。
隊長は、歯を食いしばる。
報告をしなければならない。王へ。王宮へ。聖女は死亡、任務完了と。
それが影の仕事だ。感情を挟むな。考えるな。職務だ。
分かっている。
分かっているのに、喉が詰まる。
隊長は、ようやく口を開いた。
「……埋葬する」
部下が小さく息を呑んだ。
隊長は続ける。
「この場に置くな。獣が寄る。……せめて、土に返せ」
王命にはない行為だ。余計な行為だ。影としては越権だ。
だが、隊長はそれでも言った。
この少女は、最後まで「国のために死ね」と言われ続けた。
ならばせめて、国の影が、最後に土をかける。
誰にも知られず、記録にも残らず、墓標も立たないとしても――土に返す。
それだけが、影に残された唯一の「良心」だった。
彼らは黙って穴を掘った。
手袋越しに土が冷たい。石が硬い。根が絡む。
山の土は優しくない。ましてや今は冬。雪が多く、土が優しくない。
それでも彼らは必死に掘った。
母と妹を先に横たえた。次に聖女を横たえた。
誰かが、彼女の乱れた髪をそっと整える。彼女の頬の泥を、指で払った。
払っても泥は残る。残って、それが戦場の汚れだと分かる。
聖女の顔は、幼かった。
戦場で擦り切れた顔なのに、それでも幼い。まだ、少女だった。
隊長は土をかけた。
一掬い、また一掬い。
土が彼女の頬を隠し、唇を隠し、目を隠す。
最後まで開かれていた目が、土に閉じられていく。
影の者たちは、誰も泣かなかった。
泣く資格などないからだ。
だから泣かない。
その代わり、隊長は小さく呟いた。
「……すまない」
謝罪の相手が誰かも分からない。聖女か、母親か、妹か、あるいは自分自身か。
そして彼らは、立ち上がった。
山は何も変わらない。風は吹き、霧は流れ、枝は揺れる。世界は何も知らない顔で回る。
変わったことはひとつだけ。
――もう、小さな少女が檻に閉じ込められることはない。
檻が壊れたのではない。
檻の中身が、消えたのだ。
それが救いだと呼べるかどうかは、彼らには決められない。
決められないまま、影は冬の山を下りていった。




