06 聖女
王都から遠い地方の町に、彼女は生まれた。
地図に記される名前はある。けれど旅人がわざわざ目指すような場所ではない。街道を外れ、川沿いを少し行き、畑と林の間に家々が寄り集まっただけの、どこにでもある町。
風が吹けば土の匂いがして、雨が降れば道がぬかるみ、冬は薪が足りずに肩を寄せ合って眠る――そういう、生きるための苦労が当たり前の場所だった。
そこで、彼女は「ただの娘」だった。
小さな食堂の娘。母と妹と三人暮らし。父は早くに死んだ。魔物討伐の仕事をしていた父は、ある日、帰ってこなかった。死体が戻ったわけではない。戻ったのは、血の付いた武器と、軽い謝罪と、少しの慰労金だけ。
死者を癒せない。
回復魔法は、骨が折れた腕を繋げられる。裂けた皮膚を塞げる。熱で朦朧とする子どもの呼吸を整えられる。だが、死者には届かない。届かないどころか、届いてはいけない。
そのことを、彼女は幼すぎるほど幼いころに知った。
彼女の魔法は「上手い」と言われた。町の誰かが怪我をすると、母は彼女を呼びに行かせた。重い鍋を落とした職人の指、牛に蹴られて肋を痛めた農夫、木から落ちた子ども。彼女が手を当てると痛みが引き、腫れが引き、血が止まった。
褒められた。
けれど、褒められても、日々は変わらない。
回復は地味だ。戦場で火の柱を上げる魔法使いのように、派手に賞賛されることもない。
結局、食堂の仕込みをし、皿を洗い、床を拭き、妹を叱り、母を手伝う。貧しさが、穏やかさの顔をしてそこに居座っていた。
父が生きていたころの食堂は、少しだけ特別だった。
魔物の肉を扱う、変わった店。父が倒した魔物の肉を、父が捌き、母が煮込み、彼女が薬草で臭みを取る。町の者が「変わり種」として笑いながら食べ、旅人が噂を聞きつけて寄る。小さな町にしては、人の出入りが多かった。
父が死んでからは、それも消えた。
魔物の肉は、命と引き換えに手に入る。父の代わりにそれを持ち帰れる者はいなかった。
食堂は「普通」になり、普通になった食堂は、町の中で一番でもなく、下でもなく、ただ埋もれた。
それでも、家庭はあったのだ。
母がいて、妹がいて、彼女がいた。冬の夜、三人で同じ毛布にくるまって眠るとき、彼女はいつも思う。これだけあればいい、と。これだけを守れるならいい、と。
――その町が襲われるまでは。
魔物の群れが来るという噂は、いつもどこかに存在する。
森が騒がしい。夜に遠吠えが増えた。川の上流で、狼に似た何かが見えた。そんな話は、町の者が日々の恐怖を薄めるための会話でもある。
その日も、朝はいつも通りだった。
母が鍋を煮込み、妹が客の真似をしてふざけ、彼女が薬草を刻む。
昼前、外で叫び声がして、次の瞬間、鐘が鳴った。
あの鐘は、祭りの鐘ではない。火事でもない。魔物襲来の鐘。
町の空気が、ひっくり返った。
人の顔から血の気が消え、声が裏返り、走る足音が床を震わせる。誰かが「門へ行け!」と叫び、誰かが「子どもを隠せ!」と叫び、誰かが祈りを口走る。
彼女はそのとき、父が死んだ日のことを思い出した。
戻らなかった背中。血の付いた武器。母の震える手。妹の泣き声。自分の手のひらが、いくら熱を持っても、死を押し返せなかったこと。
あの無念が、喉の奥から湧いた。
それが怒りだったのか、恐怖だったのか、よくわからない。
ただ、胸の内側で、何かが裂ける音がした。裂けたものの隙間から、熱が溢れた。
彼女は走った。
門へではない。中心広場へ。兵士が集まり、冒険者が集まり、町の男たちが集まる場所へ。
そして――叫ぶ声が出た。
「下がって!」
誰の声だったのか、自身の声だったのか、彼女は覚えていない。
ただ、その言葉を境に、世界が少し変わる。
視界の端で、魔物が見えた。
群れ。数。牙。唾。黒い瞳。狼のようなもの。蛇のようなもの。小さくても、人を殺せる数。
兵士の結界術師が、必死に術式を組む。だが薄い。町全域を覆うには、力も時間も足りない。
――足りないなら、わたしが埋める。
その思考は、理屈ではなく衝動だった。
彼女は両手を広げた。町の中心に立ち、目を閉じ、呼吸を止める。
魔力が、湧いた。
水のように、ではない。炎のように、でもない。
空気が「圧」になって押し寄せた。
彼女自身が何かの穴になったように、外から力が流れ込む。
――結界が立ち上がる。
町の上空に、薄い膜が張られる。
見えないのに、見える。
鳥が飛び込み、弾かれ、空で羽ばたいて向きを変えた。
魔物が町へ飛び込もうとして、目に見えない壁にぶつかり、転げ落ちた。
歓声が上がる。
けれど、歓声に耳を傾けている暇はない。
結界は「張れば終わり」ではない。維持し続ける必要がある。
維持しながら、町の中の負傷者を癒さなくてはならない。
彼女は走った。走りながら、癒した。
矢で肩を貫かれた兵士。
爪で裂かれた冒険者。
噛まれて毒が回り始めた男。
倒れた人の呼吸を整え、止まりかけた心臓の鼓動を引き戻し、血を止め、骨を繋げる。
それでも、死はそこにいた。
ほんの数歩先で、誰かが倒れ、目が虚ろになり、口から言葉がこぼれる。
――すまない。町を、頼む。
その声が、父の声と重なった。
彼女は唇を噛んだ。噛んだまま、手を伸ばした。
間に合った命もあれば、間に合わない命もあった。
夕方、魔物の群れは退いた。
結界が残り、町が残り、家が残った。
けれど町の中には、泣き声が残った。
家族を失った声。友を失った声。生き残った者の、罪悪感の声。
その夜、彼女は倒れた。
そんな彼女を、母が抱きしめた。妹が震える手で頬を触った。
意識が薄れていく中で――その声を、家族以外の声を聞く。
「聖女だ……」
誰かが言った。誰かが復唱した。噂は、祈りの形をして広がる。
彼女は、その言葉が怖かった。
聖女。救いの象徴。期待の器。誰もが、自分の願いを投げ込める穴。
――そんなものになりたくない。
そう思ったのに、もう遅かった。
噂は町を出る。街道を走り、宿を渡り、商人の口を渡り、王都に届く。
王都に届いた噂は、城に届く。城に届いた噂は、王の机に届く。
王の命令は、矢のように速い。
迎えが来た。兵士が来た。馬車が来た。
町の者は頭を下げ、母は泣き、妹は彼女の服を掴む。
彼女は、連れて行かれた。
王都は眩しかった。石畳が整い、建物が高く、空が狭い。
人が多く、匂いが違い、笑い声が軽い。戦いの匂いがしない町。血の匂いがしない空気。
王は冷たかった。
その冷たさは、悪意というより、刃物の冷たさ。
必要だから切る。切らねば国が死ぬ。そんな冷たさ。
そんな王が、彼女の眼前で言う。
――あらゆる贅沢を赦す。家族の安全を保障する。王族籍に入る栄誉を与える。
――そして、国のために力を振るい、国のために死ね。
当時、彼女は十歳だった。
十歳の子どもに、断る術などない。
断れば家族がどうなるか、言われなくてもわかる。
王の言葉は贈り物ではなく鎖の類。
金で飾られた鎖。鎖が立派であればあるほど、外せない。
彼女は頷いた。頷くしかなかったのだ。
その瞬間から、彼女の人生は「契約」になった。
彼女が鎖で繋がれて間もなく、王都で婚約が結ばれた。
第二王子との婚約。名ばかりの婚約。
祝福の言葉と拍手の中、彼女は立っていた。
何を感じていたのか、思い出せない。感じる余裕がなかった。
そして、彼女は戦地へ行く。
戦地は、王都とは別の世界だった。
土は泥で、空気は血と汗の匂いで、夜は冷え、朝は重い。
叫び声がある。呻き声がある。祈りがある。祈りの直後に、死がある。
彼女は癒した。
癒しても癒しても、負傷者は尽きない。
結界を張り、毒を抑え、骨を繋げ、傷を塞ぐ。
癒しが間に合えば「ありがとう」と言われた。
癒しが間に合わなければ「なぜ間に合わない」と言われた。
欲情のこもった視線を向ける者もいれば、守るために盾になる者もいた。
善いも悪いも、どちらもいた。
それが人間だと、彼女は戦地で学んだ。
王都の貴族より、戦地の兵のほうが人間らしかった。
汚くて、正直で、怖がって、泣いて、それでも立つ。
仲良くなった兵が、魔物に食われて死んだ。
憎まれ口ばかり叩いていた兵が、最後に「助けてくれ」と言って死んだ。
笑いながら酒を飲んでいた兵が、翌日、首だけになって死んだ。
盾になってくれた兵が、バラバラになって死んだ。
彼女のことを「聖女様」と呼び、頭を下げてくれた少年兵が、初陣で死んだ。
そのたびに、彼女は思った。
――わたしは、何をしている。
癒しているのに、救っていない。
救っているのに、救えない。
救えないのに、やめられない。
王都へ戻ると、第二王子が悪態をついた。
仕事ばかりだ。愛想がない。婚約者として相応しくない――そんな言葉だけを貰う。
文句を言いたいのは、彼女の方だった。
戦地の泥と血を落とし、夜も眠れぬまま戻ってきて、まず聞くのがその言葉なのだから。
けれど、口には出さなかった。
家族が守られている。母と妹は、暖かい部屋で、温かい食事を食べ、冬に凍えることなく暮らしている。
それは王の「約束」だった。
冷酷な王は、無法ではなかった。約束を守る王だった。
だから、彼女も守った。
契約を。
恨みと憎しみを胸に、守った。
守らなければ、戦地の者が死ぬ。
彼女がいなければ死ぬ者が増える。そうわかってしまったから。
――わたしは、檻の中でも働ける。
そう思ってしまった時点で、彼女の負けだったのかもしれない。
王は忙しく、彼女と会う機会は少なかった。
隣国と会談し、条約を結び、魔物対策の技術を導入し、戦争を避け、財政を回し、軍を動かす。王は確かに国のために身を粉にしていた。だからこそ、彼女の心を守る暇はなかった。
守るつもりがあるかどうかも、定かではない。
彼女と王の間にあったのは、温度ではなく鉄だ。冷たい鉄の契約。互いに情など期待しない契約。
そして、彼女の心は、擦り切れた。
十歳から、六年。ずっと戦い続けた。
ずっと癒し続けた。ずっと人の死を見続けた。ずっと「聖女」と呼ばれ続けた。
だから、第二王子の婚約破棄は――最後の一押しにすぎない。
あの場で、第二王子が叫んだ言葉。
愛想がない。つまらない女だ。婚約を破棄する。
その言葉に彼女は、怒りもしなかった。
悲しみもしなかった。
ただ、何かが「切れた」。
結界が破れたのではない。魔力が枯れたのでもない。
彼女の中で、糸が切れた。国を守る理由を繋いでいた糸が。
契約を破ったのは、そちらが先だ。
その一文が、頭の中で冷たく響く。
王の息子が契約を踏みにじった。王の誓約が嘲笑された。王の約束が、王の家の中で壊された。
王がどう思うかは知らない。
王族の家族のやり取りなど、彼女は知らない。知る必要もない。
知ったところで、彼女の檻の鍵が外れるわけではない。
彼女が知っているのは、ただ一つ。
裏切りがあったということ。
それだけで、十分だった。
あの瞬間、国の未来がどうなろうと、どうでもよくなった。
戦地で死ぬ兵の顔が浮かんだ。泣く母の顔が浮かんだ。妹の笑顔が浮かんだ。王の冷たい目が浮かんだ。第二王子の軽い声が浮かんだ。
全部が一度に浮かんで、全部がどうでもよくなった。
彼女は、自分が恐ろしくなった。
救う力があるはずの自分が、救うことを放棄できる自分が。
でも――もう、疲れていた。
彼女の心は、とうの昔に擦り切れていたのだ。
彼女は立ち去った。
家族を連れて。結界で守りながら。王都の石畳を、振り返らずに歩いた。
背後で誰かが叫んでいたかもしれない。止まれ、と。待て、と。契約が、と。国が、と。
でも、その声は遠かった。
遠い地方の町で、父を失った日のあの声と同じくらい遠かった。
死者は癒せない。
その事実だけが、今も変わらない。
けれど――彼女は、もう無理に癒そうとは思わなかった。
癒せないものに手を伸ばし続けた結果、自分自身が壊れたのだと、ようやく理解したから。
聖女だと呼ばれた。
でも、聖女である前に、人間だった。
その当たり前を、誰も覚えていなかった。
彼女自身さえ、忘れかけていた。
「あなたは、私たちのために六年も戦った。……もういい。もう、いいの」
「わたしが食べた王都のパン、美味しかった。あったかい毛布で寝られた。……だから、もう、いいよ」
覚えていたのは二人だけ。
届いたのは、そんな母と妹の声だけだ。
今も昔も変わらない家族の温かさ。
だから猶更、苦しかった。
……今、こうして彼女は思う。
もし、わたしがあの町に生まれず、あの群れが来ず、あの結界を張らず、聖女と呼ばれなかったなら。
母と妹と、貧しくても暖かな食堂を続けていたのだろうか、と。
そう考えるのは、許されない贅沢だとわかっている。
だけど贅沢を許すと、王は言ったのだ。
だから彼女は、最後の最後に一つだけ、贅沢をする。
――わたしは、あの小さな食堂の娘だ。
ただそれだけの自分を、胸に抱いて。




