表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
名もなき花は春に咲く  作者: 初音の歌


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/9

05 第二王妃


 牢は静かだった。


 石壁は冷たく、灯りは弱い。けれど王城の地下牢は、わざと惨めに作られてはいない。

 王城の牢は、余計な感情を排した「器」だ。罪人を入れる器。判決を下すまで保管する器。湿り気のある空気だけが、そこが地下であることを思い出させる。


 そして、その器の中に、第二王妃は座っていた。


 両手は自由。鎖も枷もない。逃げられるわけがないからだ。逃げる気も、恐らくない。

 背筋は伸びている。髪は簡素にまとめられ、装飾品は外されている。

 それなのに、王妃の気配は消えなかった。育ちと所作は、牢の空気では削れない。


 鉄格子の向こうに足音が一つ。

 見張りの兵が身を正す気配。誰が来るかを告げる声はない。必要がない。

 国王が来たのだ。


 扉が開く。

 蝋燭の火が揺れ、王の影が牢の床に落ちた。影は長く、歪みなく真っ直ぐだった。


 王は、立ったまま王妃を見下ろす。

 あらゆる戦場を踏み、あらゆる会議を踏み、あらゆる嘘を踏み潰してきた男の目。

 怒りも悲しみも、表情には出さない。


 第二王妃はゆっくりと顔を上げた。

 恐れていない。少なくとも、恐れを見せない。

 目は澄んでいて、声は落ち着いている。

 まるで、ようやく順番が回ってきたと言わんばかりの静けさ。


「陛下」


 その呼び方だけが、牢の空気を一段深くする。

 彼女が選んだのは、最も冷たい距離を保つ呼称だった。

 儀礼としての呼称。裁きの前の呼称。


 王は答えない。

 沈黙が落ちる。


 その沈黙の中で、第二王妃は少しだけ息を吐いた。

 長い間胸の奥に溜めていた空気を、ようやく外へ出すように。


「……わたくしが、あの令嬢に声をかけました」


 先に言う。逃げ道を塞いでいる。

 否定しない。言い訳もしない。ただ、事実を差し出す。


「何を言った」


 王の声は低い。だが、怒鳴らない。

 怒鳴るのは、感情に判断を明け渡す行為だ。

 王は自分の感情を、刃として使う。

 第二王妃は目を伏せたまま、言った。


「『貴女のような子が娘になるのなら嬉しい』と」


 あまりに小さな言葉。

 たった一言。夜会なら、酒と笑い声に紛れて消える程度の言葉。

 けれど、この国の命運は、その一言で揺れた。

 第二王妃は続けた。語る速度は一定で、言葉が乱れない。

 それが妙に――痛々しく映った。


「陛下は、ご存じでしたでしょう? 第二王子には、生まれた時から未来がないことを」


 王は眉一つ動かさない。

 第二王妃は、言葉を選んでいるようで、選んでいない。

 長年噛み砕けずに飲み込んできたものを、吐き出している。


「側室の子。第一王子の……予備。そう扱われることが、国にとって必要な仕組みであることも、わたくしは理解しておりました。理解して、従ってきました」


 第一王子に与えられるのは「国を背負わせる」教育。

 第二王子に与えられるのは「国を乱さぬ」教育。

 それは彼女も理解している。

 だからこそ今まで耐えてきた。

 壊れてしまいそうな心から、目を逸らして。


「第一王子殿下は、あまりに優秀でした。武芸も、学も、政も。……そして天性の資質も」


 ほんの一瞬だけ、声が柔らかくなる。

 嫉妬ではない。事実の確認だ。理解しているからこそ、鋭く刺さる。


「だから陛下は、第一王子殿下にだけは『厳しさ』を与えようとなさった。侯爵領へ送られたのは罰ではなく、鍛錬。未来への投資。わたくしの目にも、それは眩しいほど明白に映りました」


 王は何も言わない。

 全て正しい事実を述べられているからだ。何も訂正する部分がない。

 王自身が思ったのだ。第一王子は人に甘いが、その甘さを優しさに変えられたのなら、自身をも超える稀代の名君になると。

 第二王妃は、ゆっくりと顔を上げた。


「では……わたくしの息子は?」


 その問いは、責めではなく、泣き言でもない。

 ただ、ずっと胸に刺さって抜けなかった棘を、ようやく抜いただけ。


「陛下は、第二王子を冷遇なさったわけではありません。王族として十分すぎる教育も、環境も、与えてくださった。……それでも、期待だけは、最初から無かった」


 第二王子に与えられた教育は、決して低くない。

 王都一の学園。礼法、史学、法、算術。

 剣も魔法も、王族として恥じぬ程度に鍛えられた。

 政務の場へ同席することも許された。

 栄華の中心に置かれ、飢えも寒さも知らずに生きられる環境だった。


 けれど、期待だけは無かった。

 それは、食事や衣服よりも大切な――本当に、子が欲しがるもの。

 与えられなければ子は餓える。与えられなければ、存在理由が薄くなる。


「争いを避けるため。兄弟が血を流す未来を避けるため。陛下が幼い頃に見た、あの凄惨な争いを繰り返さないため。……理由もわかります。わたくしは、陛下のその恐れが、どれほど深いものかも知っております」


 知っている。

 第二王妃は、王の恐れを知っている。

 後継者争いは悲劇を生む。兄弟で血が流れる。

 あんな地獄を、我が子に与えたくなかったからこその選択。

 王が自分にだけ見せた影を、彼女は握りしめて生きてきた。


「けれど、わたくしは母でございました」


 その一言が、感情の核だった。


「陛下が正しくても、国が安定しても、わたくしの息子には『最初から道が無い』。それを見て、わたくしは……耐え続けてきたのです」


 牢の空気が少し重くなる。

 一言一言が、あまりにも重い。


「そして――聖女」


 第二王妃はその称号を口にするだけで、唇を強張らせた。


「平民の娘が聖女と呼ばれ、王族の席へ座る。国にとって必要な契約であることも理解しています。戦地の損耗を減らすため。兵の命を守るため。国家の損失を抑えるため。……それも、わかるのです」


 彼女は言った。

 わかる。わかる。わかる。

 わかっているからこそ――余計に苦しい。


「けれど、わたくしには……それが、惨めでございました」


 声が震えていた。

 その震えを見るだけで、どれほど抑え込まれてきたかを悟る。


「側室であるがゆえに。正妃でないがゆえに。わたくしの息子には未来が用意されない。そのうえ、息子の妻の座にさえ、平民の娘が座る」


 そこに、理屈はない。

 感情の傷だけがある。


「……陛下。わたくしは、この国で一番美しく見えた令嬢に声をかけました。息子の隣に立つ姿が、あまりに自然に思えた令嬢に」


 第二王妃は目を閉じた。


「そして、本音を言いました。それだけです。策ではありません。陰謀でもありません。『娘になってくれたら嬉しい』――ただ、それだけ」

「結果は?」


 王が、初めて僅かに口を開いた。

 問いは短い。刃のような問い。

 第二王妃は、静かに頷いた。


「……契約が破られました。国が揺れました。聖女が去りました。陛下の誓約が……踏みにじられました」

「そうだ。お前の言葉を聞いた侍女が、お前の意思を尊重した。優秀な王室付きの侍女が、第二王子と令嬢の関係を、整えてしまった――問題の侍女は、既に処分したがな」

「はい。全ては、私の言葉が発端であること。全て承知しています」


 自分がしたことを、正確に理解している。

 権力者の本音は、下の者にとっては「命令」になる。なってしまう。

 第二王妃は理解して――それでも言葉にしてしまった。

 王は、第二王妃を見たまま、動かない。

 その目の奥には、怒りがある。

 だが、怒りだけではない。もう一つの影がある。

 ――哀れみとも、愛とも、罪悪感ともつかない何か。

 王はそれを表に出さない。出せば決断が鈍る。

 第二王妃は、そこを見抜いたように言った。


「……わたくしに僅かでも愛があるのなら。少しでも哀れだと思うのなら……どうか陛下。あなたの手で裁いてくださいませ」


 牢の昏い空気の中で、その言葉は清潔だった。

 祈りのようで、告白のようで、願いのようで。


「他の誰でもなく、あなたの手で」


 第二王妃は微笑んだ。

 穏やかな、逃げ場のない――逃げる気のない微笑み。


「あなた様の手で、わたくしを殺してくださいませ」


 王は、しばらく沈黙した。

 沈黙は、許しではない。迷いでもない。王にとって沈黙は、最終確認の時間だ。心がどれほど荒れていようと、言葉を短く、硬くし、揺れを削り落とすだけ。

 そして、王は言う。


「毒杯を手配する」


 声は、氷のように冷たかった。

 第二王妃の肩が、ほんの僅かに落ちた。

 安堵に似たもの。

 救われたのではない。やっと終わるという顔。

 王は続けた。


「金の杯に鎮魂酒を注ぐ。お前の望み通り、俺の手で酒を注ごう」


 第二王妃はその言葉を聞いた瞬間、目を見開いた。

 金の杯。王族の儀礼の酒器。鎮魂酒。死者の魂を迷わせないための祈りの酒。

 それは、罪人に与えられるものではない。

 王は処刑ではなく、弔いを選んだ。

 第二王妃の喉が小さく鳴った。

 涙ではない。感情を飲み込んだのだ。


「……陛下」


 声が掠れた。その掠れた声が、彼女の長い耐えを証明してしまう。

 王は、そこで初めて、視線を少しだけ逸らした。

 ほんの一瞬。牢の石壁を見た。何もないところを見た。そこに、過去の何かを置いたように。

 そして言った。


「お前は、この国を揺らした」


 それは刃の言葉。

 一切の赦しがない、断罪の声。

 けれど。


「だが、お前は……俺の子を産んだ」


 刃には裏側がある。鋭さだけではない、確かな重み。

 第二王妃は、唇を噛んだ。噛み切らない程度に噛んだ。

 ――痛みで自分を保つために。


「……わたくしは、母でございました」


 繰り返した。自分の罪の根を、もう一度だけ確かめるように。

 王は、答えず――背を向けた。

 足音が一つ、牢を離れていく。見張りが頭を下げる気配。扉が閉まる音。閂の音。


 第二王妃は、独りになった。

 息を吐き、目を閉じる。


 自分が望んだのは、息子の未来だった。

 だが得たのは、国の揺れと、王の手による静かな終わり。

 どうすれば良かったかなど、今となっては分からない。

 何もかもが遅すぎる。


 ただ一つ分かるのは――。

 長い間、正妃の影で耐え続けてきた女は、ようやく「王の手」によって、自分の物語の幕を下ろされる、ということだけだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ