05 第二王妃
牢は静かだった。
石壁は冷たく、灯りは弱い。けれど王城の地下牢は、わざと惨めに作られてはいない。
王城の牢は、余計な感情を排した「器」だ。罪人を入れる器。判決を下すまで保管する器。湿り気のある空気だけが、そこが地下であることを思い出させる。
そして、その器の中に、第二王妃は座っていた。
両手は自由。鎖も枷もない。逃げられるわけがないからだ。逃げる気も、恐らくない。
背筋は伸びている。髪は簡素にまとめられ、装飾品は外されている。
それなのに、王妃の気配は消えなかった。育ちと所作は、牢の空気では削れない。
鉄格子の向こうに足音が一つ。
見張りの兵が身を正す気配。誰が来るかを告げる声はない。必要がない。
国王が来たのだ。
扉が開く。
蝋燭の火が揺れ、王の影が牢の床に落ちた。影は長く、歪みなく真っ直ぐだった。
王は、立ったまま王妃を見下ろす。
あらゆる戦場を踏み、あらゆる会議を踏み、あらゆる嘘を踏み潰してきた男の目。
怒りも悲しみも、表情には出さない。
第二王妃はゆっくりと顔を上げた。
恐れていない。少なくとも、恐れを見せない。
目は澄んでいて、声は落ち着いている。
まるで、ようやく順番が回ってきたと言わんばかりの静けさ。
「陛下」
その呼び方だけが、牢の空気を一段深くする。
彼女が選んだのは、最も冷たい距離を保つ呼称だった。
儀礼としての呼称。裁きの前の呼称。
王は答えない。
沈黙が落ちる。
その沈黙の中で、第二王妃は少しだけ息を吐いた。
長い間胸の奥に溜めていた空気を、ようやく外へ出すように。
「……わたくしが、あの令嬢に声をかけました」
先に言う。逃げ道を塞いでいる。
否定しない。言い訳もしない。ただ、事実を差し出す。
「何を言った」
王の声は低い。だが、怒鳴らない。
怒鳴るのは、感情に判断を明け渡す行為だ。
王は自分の感情を、刃として使う。
第二王妃は目を伏せたまま、言った。
「『貴女のような子が娘になるのなら嬉しい』と」
あまりに小さな言葉。
たった一言。夜会なら、酒と笑い声に紛れて消える程度の言葉。
けれど、この国の命運は、その一言で揺れた。
第二王妃は続けた。語る速度は一定で、言葉が乱れない。
それが妙に――痛々しく映った。
「陛下は、ご存じでしたでしょう? 第二王子には、生まれた時から未来がないことを」
王は眉一つ動かさない。
第二王妃は、言葉を選んでいるようで、選んでいない。
長年噛み砕けずに飲み込んできたものを、吐き出している。
「側室の子。第一王子の……予備。そう扱われることが、国にとって必要な仕組みであることも、わたくしは理解しておりました。理解して、従ってきました」
第一王子に与えられるのは「国を背負わせる」教育。
第二王子に与えられるのは「国を乱さぬ」教育。
それは彼女も理解している。
だからこそ今まで耐えてきた。
壊れてしまいそうな心から、目を逸らして。
「第一王子殿下は、あまりに優秀でした。武芸も、学も、政も。……そして天性の資質も」
ほんの一瞬だけ、声が柔らかくなる。
嫉妬ではない。事実の確認だ。理解しているからこそ、鋭く刺さる。
「だから陛下は、第一王子殿下にだけは『厳しさ』を与えようとなさった。侯爵領へ送られたのは罰ではなく、鍛錬。未来への投資。わたくしの目にも、それは眩しいほど明白に映りました」
王は何も言わない。
全て正しい事実を述べられているからだ。何も訂正する部分がない。
王自身が思ったのだ。第一王子は人に甘いが、その甘さを優しさに変えられたのなら、自身をも超える稀代の名君になると。
第二王妃は、ゆっくりと顔を上げた。
「では……わたくしの息子は?」
その問いは、責めではなく、泣き言でもない。
ただ、ずっと胸に刺さって抜けなかった棘を、ようやく抜いただけ。
「陛下は、第二王子を冷遇なさったわけではありません。王族として十分すぎる教育も、環境も、与えてくださった。……それでも、期待だけは、最初から無かった」
第二王子に与えられた教育は、決して低くない。
王都一の学園。礼法、史学、法、算術。
剣も魔法も、王族として恥じぬ程度に鍛えられた。
政務の場へ同席することも許された。
栄華の中心に置かれ、飢えも寒さも知らずに生きられる環境だった。
けれど、期待だけは無かった。
それは、食事や衣服よりも大切な――本当に、子が欲しがるもの。
与えられなければ子は餓える。与えられなければ、存在理由が薄くなる。
「争いを避けるため。兄弟が血を流す未来を避けるため。陛下が幼い頃に見た、あの凄惨な争いを繰り返さないため。……理由もわかります。わたくしは、陛下のその恐れが、どれほど深いものかも知っております」
知っている。
第二王妃は、王の恐れを知っている。
後継者争いは悲劇を生む。兄弟で血が流れる。
あんな地獄を、我が子に与えたくなかったからこその選択。
王が自分にだけ見せた影を、彼女は握りしめて生きてきた。
「けれど、わたくしは母でございました」
その一言が、感情の核だった。
「陛下が正しくても、国が安定しても、わたくしの息子には『最初から道が無い』。それを見て、わたくしは……耐え続けてきたのです」
牢の空気が少し重くなる。
一言一言が、あまりにも重い。
「そして――聖女」
第二王妃はその称号を口にするだけで、唇を強張らせた。
「平民の娘が聖女と呼ばれ、王族の席へ座る。国にとって必要な契約であることも理解しています。戦地の損耗を減らすため。兵の命を守るため。国家の損失を抑えるため。……それも、わかるのです」
彼女は言った。
わかる。わかる。わかる。
わかっているからこそ――余計に苦しい。
「けれど、わたくしには……それが、惨めでございました」
声が震えていた。
その震えを見るだけで、どれほど抑え込まれてきたかを悟る。
「側室であるがゆえに。正妃でないがゆえに。わたくしの息子には未来が用意されない。そのうえ、息子の妻の座にさえ、平民の娘が座る」
そこに、理屈はない。
感情の傷だけがある。
「……陛下。わたくしは、この国で一番美しく見えた令嬢に声をかけました。息子の隣に立つ姿が、あまりに自然に思えた令嬢に」
第二王妃は目を閉じた。
「そして、本音を言いました。それだけです。策ではありません。陰謀でもありません。『娘になってくれたら嬉しい』――ただ、それだけ」
「結果は?」
王が、初めて僅かに口を開いた。
問いは短い。刃のような問い。
第二王妃は、静かに頷いた。
「……契約が破られました。国が揺れました。聖女が去りました。陛下の誓約が……踏みにじられました」
「そうだ。お前の言葉を聞いた侍女が、お前の意思を尊重した。優秀な王室付きの侍女が、第二王子と令嬢の関係を、整えてしまった――問題の侍女は、既に処分したがな」
「はい。全ては、私の言葉が発端であること。全て承知しています」
自分がしたことを、正確に理解している。
権力者の本音は、下の者にとっては「命令」になる。なってしまう。
第二王妃は理解して――それでも言葉にしてしまった。
王は、第二王妃を見たまま、動かない。
その目の奥には、怒りがある。
だが、怒りだけではない。もう一つの影がある。
――哀れみとも、愛とも、罪悪感ともつかない何か。
王はそれを表に出さない。出せば決断が鈍る。
第二王妃は、そこを見抜いたように言った。
「……わたくしに僅かでも愛があるのなら。少しでも哀れだと思うのなら……どうか陛下。あなたの手で裁いてくださいませ」
牢の昏い空気の中で、その言葉は清潔だった。
祈りのようで、告白のようで、願いのようで。
「他の誰でもなく、あなたの手で」
第二王妃は微笑んだ。
穏やかな、逃げ場のない――逃げる気のない微笑み。
「あなた様の手で、わたくしを殺してくださいませ」
王は、しばらく沈黙した。
沈黙は、許しではない。迷いでもない。王にとって沈黙は、最終確認の時間だ。心がどれほど荒れていようと、言葉を短く、硬くし、揺れを削り落とすだけ。
そして、王は言う。
「毒杯を手配する」
声は、氷のように冷たかった。
第二王妃の肩が、ほんの僅かに落ちた。
安堵に似たもの。
救われたのではない。やっと終わるという顔。
王は続けた。
「金の杯に鎮魂酒を注ぐ。お前の望み通り、俺の手で酒を注ごう」
第二王妃はその言葉を聞いた瞬間、目を見開いた。
金の杯。王族の儀礼の酒器。鎮魂酒。死者の魂を迷わせないための祈りの酒。
それは、罪人に与えられるものではない。
王は処刑ではなく、弔いを選んだ。
第二王妃の喉が小さく鳴った。
涙ではない。感情を飲み込んだのだ。
「……陛下」
声が掠れた。その掠れた声が、彼女の長い耐えを証明してしまう。
王は、そこで初めて、視線を少しだけ逸らした。
ほんの一瞬。牢の石壁を見た。何もないところを見た。そこに、過去の何かを置いたように。
そして言った。
「お前は、この国を揺らした」
それは刃の言葉。
一切の赦しがない、断罪の声。
けれど。
「だが、お前は……俺の子を産んだ」
刃には裏側がある。鋭さだけではない、確かな重み。
第二王妃は、唇を噛んだ。噛み切らない程度に噛んだ。
――痛みで自分を保つために。
「……わたくしは、母でございました」
繰り返した。自分の罪の根を、もう一度だけ確かめるように。
王は、答えず――背を向けた。
足音が一つ、牢を離れていく。見張りが頭を下げる気配。扉が閉まる音。閂の音。
第二王妃は、独りになった。
息を吐き、目を閉じる。
自分が望んだのは、息子の未来だった。
だが得たのは、国の揺れと、王の手による静かな終わり。
どうすれば良かったかなど、今となっては分からない。
何もかもが遅すぎる。
ただ一つ分かるのは――。
長い間、正妃の影で耐え続けてきた女は、ようやく「王の手」によって、自分の物語の幕を下ろされる、ということだけだった。




