04 令嬢
窓がないというだけで、人は時間を見失う。
昼か夜かが分からない。壁は冷え、床は硬い。灯りは一定の明るさで、影だけが伸びたり縮んだりする。あらゆるものが「変化しない」ように設計されている部屋。
その変化のなさが、精神を削った。
小部屋の中央に椅子が一脚。
令嬢はそこに座らされている。座るというより、置かれている。
背筋はとうに伸びない。髪は乱れ、指先は乾いてひび割れていた。頬はこけ、唇は薄く色を失っている。幾度となく水を口にしたはずなのに、喉は常に渇いていた。
自由時間はない。
あるのは、僅かな食事と、監視の下での排泄。そして施錠された部屋での就寝。眠れるかどうかは別の話だが、横になれる時間だけは与えられる。眠りに落ちる。鍵の音がして扉が開く。起こされる。椅子に戻される。
それを繰り返す。
「答えろ」
尋問官の声は低い。
抑揚がない。怒鳴りもしない。怒鳴る必要がないのだ。
ここにいる者が怒鳴ったところで、何も変わらない。
尋問官は二人いることもあれば、一人のこともある。
だが、核心を問う声だけは常に同じ人物のものだった。
その男は、黒い上衣を着ていた。飾り気のない服の冴えない容姿。
だが、目だけが異様に冷たい。
王都の貴族が身につける冷たさではない。
人を黙らせるための冷たさ。反論を許さないための冷たさ。
「誰がお前を第二王子の元に手引きした」
問いは、毎回そこから始まる。
令嬢は最初、その問いが意味不明だった。
「手引き……? 私はただ、夜会に――」
言い終える前に、尋問官は言葉を切った。
「答えろ。名前だ」
「わ、私は……父の――」
「父の名前を聞いていない」
言葉の端々が、刃物のように鋭い。
令嬢は気づかされていく。
ここは弁明の場ではない。情に訴える場所でもない。自分の品位を示す場所でもない。
ここは、目的の答えを取り出す場所。
そして、自分は「貴族令嬢」ではなく「物」扱いなのだと。
王族と顔を合わせる令嬢は数多い。
舞踏会、礼拝、祝祭、戦勝祈願。
いくらでも機会はある。だが、恋仲になるまで距離を縮められる令嬢は稀だ。
しかも相手は、聖女と婚約している第二王子。
普通は近づけない。近づこうとすれば、周囲の目が止める。
止められないとすれば――誰かが黙認したということになる。
尋問官が本当に聞きたいのは「彼女が何を思ったか」ではなく「誰が目を逸らしたか」だ。
「目的は?」
「目的など……私は、ただ――」
「金を積まれたか?」
「ち、違います! 私はお金なんて――」
「では何だ。身分か。恨みか。恩か。弱みか」
令嬢は、幾度も同じ問いを浴びせられて、最後には呼吸の仕方さえ分からなくなる。
最初の一日目は、彼女は高慢に叫んでいた。
『無礼ですわ! わたしが誰の娘だと――!』
尋問官は眉一つ動かさなかった。
叫び声に怯えもしない。ただ、叫ぶほどの余裕があることを確認していただけ。
二日目、令嬢は叫んだあとに泣いた。
三日目、叫ぶ声すら出なくなった。
声を出せば喉が裂ける。泣けば頭が痛む。
眠れば悪夢が来る。起きれば同じ問いが来る。
そして、四日目。
令嬢は、ふとした瞬間に、尋問官へ手を伸ばした。
叩こうとしたのだ。
あの無感情な顔を歪ませたかった。自分がまだ「貴族の娘」だと証明したかった。誰にも踏みにじられないと示したかった。
その瞬間だ。
腕を掴まれ、捻られ、視界が回転し、床に叩きつけられた。
肺から空気が抜ける。音が出ない。痛みが遅れて身体を満たし、背骨が砕けたのではないかと思った。
耳元で、尋問官の声がする。
「次は骨を折る」
淡々とした言い方だった。
脅しではない。「次に起こること」を告げただけ。
令嬢の中で、何かが折れた。
叫ぶことも、殴ることも、泣き喚くことも、ここでは武器にならない。
彼女の武器は、家柄と礼儀と世間体である。
だが、その武器が届かない場所へ連れて来られたのだ。
令嬢は、最後の頼みとして「家」を持ち出した。
「こんなことをして、父も母も黙っていない……! あなたの首など、すぐに――!」
その言葉に、尋問官は初めて、僅かに首を傾げる。
興味ではない。たんなる確認。
「お前の家は王家より上か?」
令嬢は息を呑む。
尋問官は続けた。
「王家より尊い血筋なのか。そう宣言するのか」
その声は静かだった。静かであるがゆえに、恐ろしかった。
「それならそれでいい。反逆罪を一つ追加する。お前の言葉は、お前の家の言葉として記録される。……答えろ。王家より上か」
令嬢は震えた。口の中が乾き、舌が張り付く。
反逆罪という言葉が、急に現実の刃になった。
彼女は今まで、反逆を「物語」だと思っていた。絵巻物の中の罪だと思っていた。
だが、今はそれが紙に書かれて記録され、家の未来を切り落とす刃になる。
「ち、違……そんな意味では……!」
尋問官は頷いた。
「なら黙れ。家柄を盾にするな――お前の親も、今頃捕らえられている」
そして、決定的なことを言う。
令嬢は、その瞬間だけ、脳が理解を拒んだ。
捕らえられている? 父が? 母が? 自分の家が?
そんなはずがない。うちの家は――。
だが、尋問官は容赦しない。
「爵位の降格はほぼ確実だ。手続きで忙しい。だから、今この国はお前の相手をしていられるほど暇ではない」
最後の一文が、令嬢の背筋を凍らせた。
暇ではない。
つまり、彼女が生きていようが死んでいようが、国にとっては「手続き」の一部にすぎないということだ。感情は不要。必要なのは処理。
その時、令嬢は初めて理解した。
王国は、優しい国ではない。
礼儀正しい国でもない。必要な時に必要なだけ冷たくなれる国だ。
だからこそ、生き延びてきたのだろう。
だからこそ、国王は契約を守ったのだろう。
そして今、その冷たさが自分に向いている。
尋問官が椅子を引き、令嬢の正面に座り直す。
距離が近い。近いが、息は感じない。人がそこにいるのに、温度がない。
「誰だ」
「……分かりません……」
令嬢は、震えながら答えた。
尋問官は眉を動かさない。驚かない。怒らない。
「では、誰の言葉を信じた」
令嬢は必死に記憶を掘り返す。
夜会。廊下。笑い声。王子の視線。自分が褒められた瞬間。胸が高鳴った瞬間。
そして、そこに、あの声があった。
『貴女のような子が、娘になるのなら嬉しいのに』
あまりに優しい声だった。
甘やかすような声だった。
言ったのは――。
「……第二王妃様が……」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が変わる。
尋問官の目が、ほんの僅かに動いた。
誰も言葉を発しない。だが、令嬢は理解した。
言ってしまった。
言ってはいけない名前を、言ってしまったと。
尋問官は、ゆっくりと聞き直す。
「もう一度言え」
「……第二王妃様が……私に……」
「正確に」
「貴女のような子が娘になるのなら嬉しい、と……」
尋問官は、一瞬だけ黙った。
考えているのではない。
記録しているのだ。言葉を、罪状の形として。
「いつ」
「……覚えていません。廊下で……人が少ない場所で……」
「他に誰がいた」
「侍女が……二人……。でも顔は……よく……」
尋問官は首を僅かに振った。
「思い出せ。思い出せなければ、お前の価値はそこで終わる」
令嬢は、泣いた。
声を上げて泣くことすらできない。
涙だけが落ちる。鼻水が垂れても拭う余裕がない。
「お願い……します……本当に……私は……」
「お前が何を思っていたかは、どうでもいい」
その言葉は、令嬢の胸に突き刺さる。
彼女はずっと、自分が「正しいこと」をしたと思っていた。
平民風情が聖女と崇められ、王子の婚約者になる。
王子が可哀そうだ。王族に相応しい相手を。
その思想が、貴族社会では「それなりに通る」ことを、彼女は知っていた。
むしろ、それが貴族の正義だと教えられて育った。
だが、現実の正義は違う。
現実は、戦場で死ぬ者の正義で動く。
領地で飢える者の正義で動く。失えば国が傾く者の正義で動く。
そして、聖女は「失えば国が傾く者」だった。
令嬢は、今ようやく、自分が何を壊したのかを薄く理解し始めていた。
理解したくなかった。理解すれば、自分の心が耐えられないのだから。
尋問官は、扉の方へ視線を投げる。
すぐに、外で待機していた者が動く気配がした。
「記録官を入れろ」
淡々とした命令が飛ぶ。
令嬢は、尋問官が「国王」につながっていることを理解した。
この部屋は孤立していない。この壁の向こうには、王の意志がある。
扉が開き、別の男が入ってきた。
手には紙と筆。目を合わせない。空気の一部のように、壁際に座る。
尋問官は言った。
「今から、証言を正式な形にする。嘘をつけば、その嘘はお前を殺す」
「……私は……ただ……」
「お前の感情はどうでもいい。必要なのは、誰が王家の契約を破らせたかだ」
その言葉は、令嬢の中で、ようやく一本の線になる。
第二王子は愚かだった。だが、その愚かさを「使った」者がいる。使って、聖女を失脚させ、王家の契約を破り、国を揺らがせた者がいる。
その中心に、第二王妃の名前がある。
令嬢は、震える唇で問うた。
「わたしは……どうなるのですか……?」
尋問官は、少しだけ考えるように間を置く。
そして、答えた。
「お前が知る必要はない」
窓のない部屋は、時間を殺す。
そして今、令嬢の希望や価値すら殺した。
扉の向こうで、足音が増え始めている。
重い足音。急ぎの足音。命令が飛び交う気配。
令嬢の涙が、静かに床へ落ちた。




