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名もなき花は春に咲く  作者: 初音の歌


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03 第一王子


 侯爵領の朝は、王都の朝より早く、そして重い。


 空は同じように白み、鳥は同じように鳴くのに、起きた瞬間から「今日の仕事」が肩に乗っている。王都でなら儀礼の一部で済むことが、この土地では、そのまま人の命に繋がる。冬の薪、井戸の衛生、塩の在庫、パンを焼く粉の値。誰か一人が誤れば、誰か一人が死ぬ。


 その重さを、次期国王候補である第一王子は、いま学んでいる最中だった。

 王子の名は、侯爵領内ではあえて大げさに呼ばれない。侯爵の計らいで、必要以上の威光を避けている。畏れが先に立てば、学びは嘘になる。彼が見るべきは、計算で測れない現実。数字の背後にいる、顔のある人間の生活だ。


 だから第一王子は、朝一番に市場へ出る日もある。

 肉の匂い。魚の塩気。野菜の土。薬草の苦み。そういうものを嗅ぎ分けながら、交易税の適正を考える。領地は生き物で、税は血だ。抜きすぎれば死ぬ。足りなければ動かない。その匙加減を、王子は紙の上ではなく人の声で掴もうとしていた。

 侯爵は、その姿を遠くから眺めるだけで、腹の奥が温かくなるのを感じた。


 この国の王は、厳しい。


『領地のひとつさえ見通せない者に、王座に座る資格はない』


 国王の言葉は、王子にとって鎖でもあり、支えでもある。だから王子は鎧や剣だけでなく、税制や衛生、治安、魔物討伐の配分まで、逃げずに向き合う。


 侯爵は教える側だが、教えながら彼自身も息が詰まる。

 教える内容は山のように多くあった。金の流れ、年貢、徴税の現場、監査、賄賂の芽の潰し方、災害時の備蓄、村と村の水争い、魔物出没の周期。どれも「上手くやれば褒められる」話ではない。「上手くやらねば骨身が削れる」話。


 それでも第一王子は、逃げない。

 午後、雨が降る日に、王子は侯爵と一緒に河の巡視に出た。王都では水が流れているだけでは誰も気にしないが、地方領地では水は政治だ。河が詰まれば水が腐る。水が腐れば税は死ぬ。税が死ねば兵站が死ぬ。兵站が死ねば国境が死ぬ。そういう連鎖を、この土地の者は知っている。

 王子はしゃがみ込み、泥を掬い、手が汚れるのも構わずに言った。


「ここを繋げると、下流の村が助かる。だが上流の者は工期の間、畑に水が回りにくくなる。代替の案は――」


 侯爵は頷く。答えを先に言わない。侯爵は王子が、答えを自分の頭で作るのを待つ。

 王子は次々と条件を積み上げていった。利益が誰に流れ、損が誰に降るか。それを理解した上で、どう折り合いをつけるか。

 政治の骨格は、そこにある。


 そして侯爵には息子がいた。

 まだ若く、血気盛んで、領地の仕事を「父のもの」だとどこかで思っている年頃の少年。

 だが彼は王子を敬い、そして不思議な親しみを抱いていた。

 王子は息子より年上で、身分は天ほど違うのに、汗の匂いの中で同じ方向を向いてくれる。

 二人の関係は、兄弟のようだった。


 侯爵は口にしない。恐れ多すぎる。

 だが心の奥で、王子を「新しい息子」のように思う瞬間がある。

 自分が倒れたあとも、この領地の人間が生き延びる世界を、彼が作るなら——そう願ってしまう。




 その願いが、確かな形になりかけていた、ある日のこと。

 早馬が来た。




 馬の嘶きが聞こえる。蹄が石畳を打つ音が、執務室の空気を叩く。侯爵の執務室は、いつも紙と蝋と乾いたインクの匂いがする。その匂いに、焦りの匂いが混じった。

 伝令の兵は、息が上がったまま膝をつく。礼を整える余裕すらない。

 その時点で、知らせの重さは判った。


 伝令が震える手で封を切る。

 読み上げられた言葉は、短い。



 第二王子が、聖女との婚約を破棄した。

 理由は、愛想が無い。戦地にばかり行く。王族の婚約者に相応しくない。



 侯爵は、比喩抜きで頭痛を覚えた。

 目の奥がじわりと熱くなる。こめかみの血管が脈打つ。痛みは怒りだけではない。恐怖だ。国家の柱が、くだらない一言で折られる音が聞こえる。


 第一王子は、その隣で紙を受け取り、目を落としそしてゆっくりと顔を上げた。

 青白い。

 怒りで赤くなるのではない。

 血が引く。手の先まで冷える。理解が追いついていない。


「……馬鹿な」


 王子の呟きは小さいのに、途方もなく重かった。

 侯爵は、聖女のことを知っている。

 王子も知っている。

 彼女が戦地に赴くたび、負傷者が減る。死者が減る。兵站が保たれる。戦争の予算が削れる。

 それがどれほど異常なことか、領地を経営する者は骨身で知っている。

 彼女の結界が、どれほど多くの民を救ってきたのかも。


 そして侯爵は、彼女が王家を好いていないことも知っている。

 当然だ、とすら思う。

 国王は冷酷だった。

 聖女に命じた。国のために力を振るい、国のために死ね、と。

 家族の安全の保証は、裏を返せば人質だ。あらゆる贅沢と身分と安全を与える代わりに、彼女の自由を奪った。


 侯爵はそれを「必要な残酷」だと理解していた。

 同情はある。憐れみもある。

 だが檻を壊すつもりはなかった。檻を壊せば、国が壊れるからだ。


 だから祈った。

 侯爵領で神に祈るとき、彼は必ず聖女の安寧も祈った。

 赦しを請うのではない。彼女が自分たちを好きになる未来など望めない。望む資格もない。

 だがせめて、彼女の心が少しでも安らぐ瞬間が訪れるように、と。


 第一王子もまた同じだった。

 王都のぬるま湯で生きる者には見えない血の値段を、彼はここで学んでいる。

 だからこそ、この知らせがどれほどの地獄を呼ぶか、理解できてしまう。


 婚約破棄は、社交の揉め事ではない――契約の破綻だ。

 王家が、国家として結んだ、冷たいが確かな信用の破壊だ。

 そして何より、聖女に「守る理由が消えた」と宣告してしまう行為だ。


 侯爵は紙を机に置く。

 指が震えている。怒りで拳を握れば、余計な音が出る。音が出れば、部屋の外にいる者たちが察する。察すれば噂が走る。噂が走れば、国が走る。走った国は止まらない。止まらないものの最終形は、下手をすれば戦争だ。


 だから侯爵は、怒りを飲み込む。

 飲み込むには、胃が足りなすぎる怒りだったが。


 第一王子は、目を閉じる。

 閉じた瞼の裏に、王都が浮かんだのだろう。

 王宮の光。宴の音。香水の匂い。笑い声。そうしたものの上に、戦地の血が敷かれていることを、弟は知らない。弟だけではない。王都にいる多くの者が知らない。

 知らないまま、踏む。

 王子は、絞るように言った。


「弟は……そこまで、そこまで愚かだったのか」


 侯爵は答えない。答えられない。

 愚かさは個人の欠点で済むときもある。だが王族の愚かさは、国の欠陥になる。


 侯爵は立ち上がり、窓際へ歩き、領内を見下ろした。畑。川。小さな家々。そこに暮らす者たちは、今日も明日も働く。王都の宴がどうであれ、彼らは冬に備え、魔物に備え、病に備える。国が割れれば、最初に潰れるのは彼らだ。


 侯爵は振り返り、第一王子を見る。

 目の前にいるのは王子だ。だが同時に、この国の未来の背骨でもある。

 侯爵は、できる限り丁寧に言葉を選んだ。


「殿下。王都にお戻りください」


 第一王子は黙っていた。

 返事が遅れたのは迷いではなく、頭の中で必要な手順を組み直していたからだ。

 今ここで感情に任せて走れば、余計な混乱を生む。

 王子は領地で学んだ通りに、順序を整える。

 侯爵は続けた。


「このままでは、国が割れます。聖女は、檻から出れば二度と戻らない。いや、戻る必要がない。領地貴族が我先にと手を伸ばすでしょう……他国が嗅ぎつけるのも時間の問題です」


 第一王子は、唇を噛んだ。


「……準備を」


 王子が言うと、侯爵はすぐに頷いた。


「馬を、護衛を、道中の宿を手配します。領内の者には、殿下が王都へ戻る理由を――余計な噂が立たぬよう、病の視察とでも」


 王子は首を振った。


「嘘は最小限で。必要以上に隠せば疑いが生まれる。私は、国王の命により政務に戻る。そう言えばいい」


 侯爵は内心で息を呑む。

 王子の言葉は、正しい。正しすぎるほどだ。正しさは、時に刃になる。

 やはりまだ第一王子は若い。出来る事なら、もっと成長を見守りたかった。


 それでも王子は行く。

 王子は立ち上がり、部屋の外へ向かう。

 するとそこには――侯爵の息子が、扉の外で待っていた。

 事情を聞いたのだろう。顔は青ざめ、拳を握りしめている。

 少年は血気盛んだ。怒りが先に出る。

 それでも第一王子は、少年に目を向け、静かに言う。


「お前の父は、領地を守る。私は国を守る。役目が違うだけだ。ここは任せるぞ」


 少年は言葉を失い、やがて深く頭を下げた。

 兄弟のようだった関係がこの瞬間、別の形に変わる。

 男同士の友情が、臣下が王族に向ける忠義へと。


 準備は速い。

 侯爵領の者たちは、こういう時の動きが的確だ。

 疫病の時、魔物が出た時、飢饉の兆しが見えた時。

 彼らは、王都の者よりも「危機に対する手順」を知っている。

 荷は最小限。道中の補給は確保。護衛は少数精鋭。

 馬は替えを用意し、休ませる時間まで計算する。



 王子は、出発する前に一度だけ侯爵を見た。


「侯爵――ありがとうございました」


 侯爵は胸の奥が熱くなるのを感じたが……それを表に出さずに頭を下げる。

 表になど出せるわけがない。二人目の息子のように愛しているなどと。


「務めを果たされますように」


 だから静かに、臣下としての礼だけを返す。

 王子の馬が走り出した。蹄の音が、石畳を叩く。

 侯爵領の門をくぐり、街道へ出て、王都へ向かう。


 侯爵は、その背を静かに見守り続けていた。



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