02 国王
その日、国王は帰ってきた。
帰還の行列は華やかに見える。旗がなびき、騎馬が並び、笛が鳴る。だが、その行列の中心にいる国王だけは、祝福の音に顔色ひとつ変えなかった。馬の蹄が石畳を叩く音も、歓声も、まるで遠い。国王の周囲だけ、空気が固い。
国王が赴いたのは、隣国との会談だけが目的ではない。
国境の砦を見た。沿岸の要所を巡った。戦線の報告を受け、戦死者の名簿に目を通し、補給の遅れを叱り、兵站の詰まりをほどいてきた。王都に戻るまでの道程で、彼の頭の中にあるのは「次の一手」しかなかった。魔物は動く。戦は待ってくれない。彼はその前提だけで、何年も生きてきた。
だから、城門をくぐった瞬間に告げられた報告は、あまりに正気を疑った。
「……聖女殿が、家族を伴い王都を去りました」
伝令の声は震えている。震えているのは恐怖のためではない。彼自身が、言葉の意味を正しく理解することを拒んでいる。
国王は、馬から降りなかった。
最初の一呼吸で、問いが喉元まで上がる。
どこへ。誰が許した。なぜ止められない。誰の判断だ。
国王は短く言う。
「続けろ」
伝令は唾を飲み込み、続けた。
「……第二王子殿下が、大聖堂で婚約破棄を宣言しました。聖女殿は、その場で国家との契約が破られたと判断し……」
その瞬間、国王の手綱を握る指が、きしむほど締まった。馬が微かに鼻を鳴らし、後ろ足で地を踏む。暴れたのではない。王の内側の激情が、馬に伝わっただけ。
国王は、ゆっくりと馬を進める。
「謁見の間に呼べ。全員だ」
端的に用件だけを叩きつける。
そして城内へ。王の私室ではない。謁見の間へ向かう道。そこでは、誰もが逃げられない。
廊下に並ぶ侍従、衛兵、宮廷貴族、文官。彼らは国王の顔色を読もうとして、逆に読めないことに気づいて沈黙する。国王は表情を変えない。変わったのは、歩調だけだ。いつもよりほんの僅かに速い。だが、その僅かが、城全体を凍らせるほど恐ろしかった。
謁見の間には、官僚、王宮貴族、宮廷貴族の上層、そして居合わせた者が集められた。正しく言えば、逃げる暇がなかった。呼び出しが早すぎた。
そこに第二王子と令嬢が、入ってきた。
謁見の間の中央に立つ。王族の衣装は立派で、顔立ちは整っている。だがその立派さは、今や薄紙だ。彼の背後に立つ令嬢は、青ざめている。目尻に涙の跡があるが、泣いて鎮まる類の問題ではない。彼女は「美しさ」という武器しか持っていない。しかし、目の前の王は武器そのものが違う。
「父上――」
第二王子が言いかける――その瞬間。
国王は何も言わずに歩み寄り、拳を振るった。
拳は鎧ではない。剣でもない。儀礼の杖でもない。生身の拳だ。加減の概念が抜け落ちたような一撃が、第二王子の頬を打つ。音が遅れて響く。肉と骨がぶつかる音は、戦地で聞くそれに近い。
第二王子は言葉を失い、床に転がる。鼻血が赤く広がり、白い石床に汚れを作る。侍従が駆け寄りかけ――止まった。王の怒りの渦の中で動けば、侍従も巻き込まれる。
国王は、倒れた息子に目も向けない。
その姿が、余計に恐ろしい。怒りの対象を殴り、終わりではない。殴ることはただの起点。本質は、下す決断。
国王は、壇上の椅子に座るでもなく、謁見の間を見渡した。
「軍務卿」
呼ばれた男が、一歩前へ出る。
「はっ」
「聖女の行方を追え。王都の門、街道、宿場、河川の渡し、港、馬車の手配、貴族の別荘、教会。可能性を一つたりとも残すな」
「御意」
国王は次に、財務官へ視線を移す。
「追跡にかかる費用は即時に解放しろ。帳面の承認は後で良い。金で止まるようなら、この国はもう終わっている」
財務官が顔を引きつらせながら頷く。彼の頭には、予算ではなく、損害が浮かんでいる。聖女が抜けた戦線の損耗。兵の死者数。補給の破綻。領地の崩壊。数字が冷たく踊る。
国王は、さらに法務官へ。
「第二王子の廃嫡手続きをしろ。今すぐだ。コレを放置すれば、国が滅ぶ」
「……御意」
廃嫡という言葉が、謁見の間に落ちる。重い。重すぎて、誰も反応できない。王族籍から外す。つまり、王にとって息子は「国の道具として不適格」と断じられたのだ。
国王は、ここで初めて第二王子に目を向ける。
倒れた息子は、口元を押さえ、呻いている。自分が殴られた理由が理解できない。理解できないから恐ろしい。目の前の父が、いま何を考えているのかが読めない。
国王は言う。
「お前は、何を破棄した」
第二王子が、息を吐いて答えようとする。
「婚約を……」
「違う」
理解していない言葉が出た瞬間、国王の目が細くなる。
声が低い。怒鳴ってはいない。だが、怒気の籠らぬ声のほうが、遥かに恐ろしい。
「お前が破棄したのは、国家の契約だ」
第二王子が呆然とする。令嬢が小さく震える。
真っ当な貴族なら、この一言だけで理解する。
しかし王都育ちの王子には、理解が追いつかない。
国王は続けた。
「聖女が戦地に赴き、兵を護り、死者を減らし、結界を維持し、負傷者の数を十分の一にした。それは「善意」ではない。「契約」だ」
国王の声は淡々としている。淡々としているからこそ、そこに一切の逃げ道はない。
「俺は約束を守った。家族を護った。生活を保障した。王族籍を与えた。平民の出から王族に座らせる段取りを整えた。これは慈悲ではない。国の存続のための取引だ」
国王は、ほんの僅かに言葉を区切った。
「お前は、駄々でそれを踏み潰した」
その瞬間、第二王子の目に、初めて「自分が何か取り返しのつかないことをした」という影が落ちる。
だが遅い。遅すぎる。
国王は、倒れた息子から視線を外し、周囲の者たちへ向けた。
「そそのかした者を洗い出せ」
声がさらに冷えていた。
「この愚か者が、一人でここまで考えるわけがない。誰が言葉を与えた。誰が場を整えた。誰が大聖堂の壇上に立たせた。誰が「真実の愛」などという甘い札を握らせた」
その言葉の途中で、令嬢が息を飲んだ。彼女が「歯車」として見られていることを理解したのだ。彼女は主役だと思っていた。しかし王の視界には、主役など存在しない。存在するのは、国の構造を壊した原因だけ。
国王は令嬢を見る。
「お前は、何をした」
令嬢は震えながら膝を折りそうになった。
「わ、私は……ただ……」
言葉が出ない。出せない。ここで何を言っても、王の怒りは消えない。
国王は、問い詰めることをしない。彼女の言葉に、興味がないからだ。興味があるのは、背後にいる者。宮廷の誰が、聖女の失脚を望んだのか。平民が王族籍に座ることを「穢れ」と見なした者が誰か。あるいは、聖女の力を別の形で利用しようとした者が誰か。
国王は命じる。
「影の局を動かせ。教会の記録も押さえろ。大聖堂の人員配置、壇上の段取り、招待状の流れ、席順の決定者、第二王子と接触した者。すべて洗え」
国王は、ようやく椅子に座った。
座った瞬間、周囲が少しだけ安堵の息を漏らす。
だが、息をしただけだ。空気はまだ、冷え切ったまま。
王は、脳裏に地図を思い浮かべる。戦地の地図ではない。王都周辺の街道図。宿場の位置、川の渡し、関所、森への入り口、港町への道。聖女が家族を連れて去ったなら、最短でどこへ向かうか。安全な道。人目を避ける道。結界を張りながら進む道。
聖女の性格を、王は理解している。
彼女は逃げられた。最初から逃げられた。家族を結界で護り、王都を抜けることなど、どうということもない。だが彼女は逃げなかった。逃げなかったのは、王が契約を守ったからだ。
守られた家族。与えられた生活。
冷たい檻の中で、それでも契約は成立していた。
そこにあったのは情ではない。情はない。王も、聖女も持ち合わせていない。
あるのは、鉄の信用。
冷たい縄で縛った信用。
だからこそ、王は今、苦い感情を抱く。
第二王子に向ける感情は単純だ。唾棄。汚物。国の道具としての価値がない。教え直す意味すらない。むしろ、存在させることが危険。
だが、聖女に向ける感情は違う。
複雑な――煩悶。
何故、相談しなかった。
何故、知らせなかった。
何故、王国を捨てる決断をした。
何故、自分が帰るまで待てなかった。
そう問いかけたい。だが――その問い自体が傲慢だと理解している。
聖女は、王を信じていない。
好きでもない。
恨んでいる。そこまでは王も知っている。
聖女が契約を守ったのは、王が守ったからだ。王が守ったから、彼女も守った。血のように温かい信頼ではない。鉄のように冷たい信頼。
だから、相談などできるわけがない。
檻に入れた者に、相談を求めるのは滑稽でしかない。
王は、舌打ちを飲み込む。
「……馬鹿者め」
その言葉は、誰に向けたものか。王自身も、瞬間分からなくなる。
床で呻く息子に向ければ、唾棄の温度。
去った聖女に向ければ、煩悶の温度。
同じ言葉で、内側の熱が違う。そんなことがある。
「第二王子を部屋へ戻せ」
近衛が動く。
第二王子は顔を押さえながら呻いた。王はもう、目を向けない。
――これ以上見ていたら、殺しかねないから。
王は自分の中の殺意を、冷静に認識した。
王という生き物は、怒りの最中でも手順を組む。その手順が、人を殺す手順にもなる。
王は、側近たちに命じる。
「聖女を探せ。見つけ次第、報告。奪還の準備を整えろ」
奪還。その言葉が意味するところは、拉致。
拘束。再契約。鎖の作り直し。
側近が一瞬だけ目を伏せた。
王のやることが正しいかどうかではない。
正しくても、汚れる。
汚れたとしても、なさねばならない。それを理解している目。
王は続けた。
「他国へ行こうとするなら……止めろ。どんな手段でも。最終手段も含む」
その言葉は、ここにいる者たちに十分な意味を与えた。
王ははっきり「殺せ」とは言わない。しかし「含む」と命じた。
命じた時点で、王は既に心の中で一度、聖女の死を計算している。
聖女は護りの術に長ける。だからこそ家族を連れて王都を出ることができた。
あの聖女が本気になれば、その歩みを止められる者など誰もいないのだ。
だが、攻撃は不得手。家族は平民。結界で守っても、限界はある。
人間は人間だ。食糧を断てば死ぬ。病にかかれば死ぬ。寒さでも死ぬ。
殺す方法など、幾らでもある。
王の目が、一瞬だけ曇った。
罪悪感ではない。必要性の計算だ。国家を守るための、冷たい計算。
だが、それでも王は知っている。
それは本当に最後の手段なのだと。
最悪の最悪。国が救われるために、人を殺す。そんな未来を王は望まない。
望まないが、望まないからといって避けられる保証はない。王は、保証がないものを信用しない。
だから、まずは追う。捕まえる。国の中に留める。王都でなくていい。国境の要塞でも、辺境でもいい。国の領土内ならば、まだ「契約の縄」を結び直せる可能性がある。
そのために必要なのは――強制力。言葉。報酬。脅し。家族の保証。家族の人質。すべて。
王は、自分が非道で冷酷であることを理解している。理解した上で、それでも国のために選ぶ。王とはそういうものだ、と自分に言い聞かせて生きてきた。
だが、その言い聞かせが、今は少しだけ苦い。
国王は静かに言う。
「息子の教育を誤ったのか。宮廷の手綱を緩めたのか。あるいは――」
――あるいは、聖女を檻に入れたことが、すでに歪みだったのか。
答えは分からない。
分かるのはただ一つ。
安寧だったはずの平穏が、音もなくひび割れたこと。
そのひび割れの隙間から、国の崩れる音が王都へ入り込んできたことだけだった。




