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名もなき花は春に咲く  作者: 初音の歌


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01 第二王子


 王都の大聖堂は、やけに広かった。


 高い天井、磨き抜かれた床。香の匂いが、場の格式をそれらしく整えている――が、今日ここに集められた者たちは、その香で誤魔化せぬ種類の緊張を抱えている。

 魔物の被害報告が、途切れぬ国だ。

 国境の封鎖線、討伐隊の補充、衛生班の再編。軍務卿の眉間には常に皺が刻まれ、財務大臣の顔はいつも渋い。領地持ちの貴族たちは、王都の舞踏会より領地の冬籠り準備の方がよほど現実的な戦だと知っている。

 列席者の一人である、教会の司教ですら表情が硬い。

 国の政治とは無縁の彼でさえ、国の緊張は理解していた。


 そんな中で開かれる「婚約者披露の催し」。


 本来なら祝祭の色があるはずの場は、葬儀のように静かだった。誰もが、建前としての拍手を用意している。

 列席者の視線の先に、第二王子が立っていた。

 王子は若い。顔立ちは整い、衣装は豪奢で、纏う香水は高価だ。本人がそれを誇りだと思っているのが、遠目にも分かる。隣には、絹のように滑らかな髪を揺らす令嬢が寄り添っていた。笑みの角度、視線の伏せ方。どれも教本通り。美しさだけは、確かに完成されている。


 そして――その対面。

 聖女は、列席者の前に立っていた。


 法衣ではない。儀礼用の装いは最低限に整えられているが、飾りの少なさがむしろ異様に映った。戦地の外套の癖が、まだ残っている。髪は結い上げ、指先には薄い傷がある。

 彼女の名が告げられた瞬間、場の空気はひとつ息を止めた。


「……皆の者、聞け」


 第二王子の声はよく通った。よく通るように訓練された声だった。王都の室内で、破綻せずに響くように。戦場の喧騒を割って届く声とは、種類が違う。

 彼は、満を持したように胸を張り、聖女へ向き直る。



「聖女よ。お前との婚約を、ここに破棄する」



 言葉が落ちた。

 その瞬間、誰も声を上げなかった。驚きのどよめきすら、起きない。拍手はもちろんない。祝祭の場に似つかわしい音が、一切消えた。

 沈黙だけが増えた。まるで、床下に水が溜まるように。

 特に、聖女と交流のある司教の顔は、一目で分かるほど蒼褪めている。

 しかし、第二王子はそれを「驚き」と解釈したらしい。勢いを増したように、顔に喜色を浮かべる。


「お前はいつも仕事仕事と、愛想の欠片もない。王子妃に相応しいとは思えん。俺は――真実の愛を、この令嬢に見出した」


 令嬢が、細い腕を第二王子に絡めた。視線を上げ、涙を浮かべる。演技としては上等だ。だが、肝心の観客がその芝居に参加していない。

 第二王子は、その変化に気づかない。気づけない。彼は王都の空気だけで育ってきた。王都の危機は噂話で、戦争は報告書で、死者は慰霊碑の文字だ。

 第二王子はさらに追い込むように言う。


「それに、お前のような身分の者が王族の婚約者など烏滸がましい。聖女の地位も、今ここで返上しろ。即刻去れ」


 冷えた。

 寒気が通ったのは、聖女の周囲ではなく、第二王子の足元だった。

 領地貴族たちの視線が、王子に向いた。王都の宮廷貴族が浮かべる「困ったな」という曖昧な笑みではない。雪解け水のように冷たく、硬い眼差しだ。彼らは戦地の報告書を読み、村の焼け跡を見て、葬列を数えている。

 第二王子が言ったことが、どれほどの損失を生むかを即座に計算している。


 聖女は、答えない。

 ただ、ゆっくりと顔を上げた。

 その目に怒りはなかった。悲しみも薄い。あるのは、疲労の底に沈んだ静けさだった。人が、何度も同じ地獄を渡るうちに、感情を切り落として生きるしかなくなる――そんな静けさ。


「……確認いたします」


 声は小さい。

 だが不思議と、全員に届いた。第二王子の訓練された声よりも、よほど確実に。


「殿下は、王命を覆す権限をお持ちですか?」


 第二王子が一瞬、言葉に詰まった。

 そんな問いが来るとは思っていない顔。この芝居には、台本がある。反論は感情であって、法や契約ではない、と彼は信じていた。

 聖女は続ける。


「この身は、陛下直々に『国のために力を使え』と命じられました。『この力を遊ばせるな』と。『戦地へ赴き、兵を護り、国を護れ』と」


 彼女の言葉が進むごとに、貴族の表情が固くなる。軍務卿は、目を閉じた。財務大臣は、唇を噛む。

 聖女は淡々と、事務的に語る。


「その代わりに、陛下は約束されました。衣食住、家族の安全、住まい、医療。私の家族を王都に置き、冬を越えさせると。私に贅沢を許すと。美食も美酒も身分も、全て与えると」


 彼女は、ほんのわずかだけ目を伏せた。


「私は、望みませんでした。……本音を申せば、王族の籍など不要でした」


 その言葉に、空気がぴくりと動く。

 王家に対する不敬ではない。だが、王都の者が思っている「栄誉」の価値を、真っ向から否定する響きがあった。武門貴族たちは、むしろその言葉を「当然」と受け取った。戦地に栄誉は落ちていない。血と泥と、間に合わせの包帯だけがある。

 聖女は顔を上げた。


「陛下は冷酷でした。けれど、約束は守られました。……家族は不自由なく暮らしております」


 そして、最後に――声が、ほんの少しだけ低くなる。



「ですが――貴方が今、破りました」



 第二王子は眉を吊り上げる。反論が喉まで来ているのに、形にならない。なぜなら彼は、今この場が「恋愛の断罪劇」ではなく「国家契約の事故処理」に変わったことを理解していない。

 聖女は、冷たく言った。


「契約を破ったのは、そちらが先です。ならば――私がこの国に留まり、力を振るう理由はありません」


 彼女は一礼した。形式として完璧な礼だ。だからこそ、なおさら冷たい。


「本日、私は戦地から戻ったばかりです。負傷兵の処置を途中で切り上げ、時間を作って参りました。……これ以上、この国のために時間を割くつもりはありません」


 言い終えると、踵を返す。

 その動きは迷いがない。迷いがないということは、覚悟が固まっているということだ。覚悟が固まった者が動くとき、人は止められない。


 ――と、思った瞬間。

 複数の足音が重なる。

 領地貴族が、聖女の前へ出た。王都の床が、重みで鳴る。彼らは膝を折りはしない。だが、頭を下げる。頭を下げる価値が何にあるかを、彼らは知っている。


「我が領へ」

「どうか、我が領へ来ていただきたい」

「家族の身も、こちらで守る」

「食糧も住まいも、冬支度も、我々が整える」


 それは嘆願であり、同時に提案だった。彼らは情に訴えていない。現実を提示している。

 軍務卿も動いた。年季の入った鎧の音が微かに鳴る。彼は、第二王子に頭を下げることはしない。聖女へ向かってだけ、低く、短く言った。


「待ってくれ」


 財務大臣も駆け寄る。額に汗が滲んでいた。彼の汗は恐怖の汗だ。国庫の恐怖。戦死者の数字が跳ねる恐怖。


「国王が隣国より帰還するまで――陛下が戻られるまで待ってくれ。第二王子に、国家の契約を破棄させる権限は無い」


 その言葉は、露骨に場の正体を暴いた。

 いま聖女が去ることは、恋愛劇の破局ではない。防衛網の崩壊だ。

 誰も、第二王子を見ていない。

 宮廷貴族――王都に住まい、教会と宮廷の間で美しい言葉を操って生きてきた者たちは、視線を逸らした。自分たちの誰も、聖女の仕事量を引き受けられないと知っているからだ。


 そして、第二王子の隣の令嬢が、初めて表情を崩した。

 美しい仮面が、割れた。

 狼狽。蒼白。瞳孔が揺れる。彼女はようやく理解したのだ。自分が勝ち取ったのは「王子の隣」ではなく、「国の破綻の席」だと。


 第二王子は、場を見渡す。

 何故だ。

 何が悪い。

 不愛想で、王族の婚約者に相応しくない女を捨てただけだ。真実の愛を宣言しただけだ。

 拍手が起きるはずだった。賞賛が降るはずだった。ここで彼は美しい令嬢と共に、周囲を黙らせるはずだった。


 ――自分が主役になれる物語が、始まるはずだったのに。


 だが、現実は違う。

 現実は、戦地の死者数で動く。

 彼が破棄したのは婚約ではない。戦死者を最小に抑えていた「仕組み」だ。国の防壁だ。魔物を前にしたとき、最後に残る「生存の可能性」だ。

 ――国の契約を破棄したのだ。

 それを理解している者たちの目には、第二王子は王子ではなく……ただの不始末の原因にしか見えない。


 聖女は、立ち止まった。

 背を向けたまま、ひと息だけ吐く。疲労が、細い吐息になって漏れる。

 そして、振り返らずに言った。


「……私の家族を、迎えに行きます」


 それだけ。

 誰かが追いすがって言葉を重ねようとしたが、聖女は歩き出した。歩調は速くない。だが、止まらない。

 大聖堂に残されたのは、式典のために整えられた豪奢さと、取り返しのつかない沈黙と。




 何も知らない第二王子の、取り残された背中だけが残った。




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