09 花
――ある春の日。ある山の中で花が咲いていた。
冬が終わり、ようやく春が芽吹いた日だった。
雪はもう降らないと決めたように山肌から退き、凍りついていた小川が、細い声で流れ始める。枝先にはまだ冷たい風が残っているのに、陽光だけが妙に優しい。
山道は、人の足に踏まれないまま、土の匂いを濃くする。
獣の足跡が、湿った土にいくつも残る。鳥の鳴き声が遠い。たまに木々がざわめき、昨夜の雨の滴が、ひとつ、ふたつと落ちていく。
その山の、少しだけ奥。
崖に近い斜面の、太い根が地面を持ち上げて出来た小さな窪みがあった。
そこに、花が咲いていた。
小さな花。ひとつではなく、三輪。
派手な訳でも、目立つ訳でもない。
特別な訳でも、価値がある訳でもない。
ただの野花。名もなき野花。
けれど、それらは妙に誇らしげだった。
細い茎のくせに背筋が伸びていて、風に揺られても折れない。
花弁は小さく、淡い色で、陽に透けるたびに少しだけ違う表情を見せる。
まるで、誰かに見られることを前提にしていない自由さがそこにあった。
花が咲いていた。
――もう誰にも捕らわれることのない花が三つ。
自由を謳歌するように咲いていた。
この場所は、目印がない。
道から外れ、足場の悪い斜面を登り、岩をひとつ避け、さらに獣道を辿ってようやく辿り着くような場所。わざわざ来る理由がない。来る者がいるとすれば、迷った旅人か、追われる者か、あるいは――何かを探しに来た人間だけ。
その日、その何かを探しに来た者がいた。
山の麓の村で、薪を背負って暮らす老いた狩人。冬の間に仕掛けておいた罠が外れていないか確かめるために、山に入った者。
彼はこの山を知っている。雪の匂い、土の湿り具合、風の向きで獣の動きを読む。山が「ここに入るな」と言う場所には、昔から足を踏み入れない。
だが春は、山の境界を曖昧にする。
雪が消えると道が増えたように見える。足跡も流れ、匂いも変わる。いつもなら近づかない斜面に、ふと、誘われるように足が向いた。
狩人は立ち止まった。
花が咲いている。
それだけなら珍しくない。
春になれば、野花はどこにでも咲く。
だが……三輪、揃って咲いているのが妙だった。
この斜面は風が強い。
普通なら、花は散発的にしか咲かない。
ひとつ咲いても、次の年には消える。生き残る方が不思議な場所。
それなのに、三輪。
しかも、並びが整いすぎている。
誰かが意図して植えたと言われれば納得する。
だが、ここにそんな手を入れる人間は居ない。
居たとしても、わざわざ山奥の名もない斜面に、誰が花を植えるというのか。
狩人は慎重に近づき……そして、息を飲む。
足元の土に、古い痕跡があることに気づいた。
崩れた土の筋。小さな石が不自然に集まっている。何かを埋め戻したような歪み。
――ここで、誰かが倒れた。
狩人は直感した。
山で暮らす者は、死の匂いに敏い。血の匂いではない。終わりの匂いだ。
誰にも気づかれず、静かに「ここで終わった」という匂い。
狩人は帽子を取り、胸の前で握る。
「……そうか」
誰に向けた言葉でもない。
山に向けた言葉だ。
狩人は花を折らなかった。
触れもしなかった。水もやらない。祈りも捧げない。ただ、そこにあることを認めた。
花は花のままであるべきだと思ったからだ。人の手を入れた途端、花は「人のもの」になる。
――それは、ここで眠る者にとって、きっと良くない。
狩人は立ち上がり、ゆっくりとその場を離れる。
花は、花のままでいさせたかったのだ。
自由を謳歌するように咲いていた三輪の花は、やがて季節に従って散る。
花弁は風に乗り、どこかへ運ばれる。茎は枯れる。土に戻る。
だが、根は残る。
来年もまた、咲くかもしれない。
同じ三輪とは限らない。二輪かもしれないし、四輪かもしれない。あるいは、何も咲かない年もあるだろう。
それでいい。
咲くか咲かないかを決めるのは、王ではない。
国でもない。
契約でもない。
追手でもない。
山の土と、陽光と、雨と、風が決める。
――その自由が、ここにはある。
春の陽は、花弁を薄く透かす。
王の死も、国の行く末も、花の生き様に何も関与しない。
三輪の小さな花は、誰に見せるでもなく、誇らしげに咲き続ける。
まるで、ようやく手に入れた「終わり」を祝うように。
まるで、長い長い檻の時間が、今度こそ本当に終わったのだと、山そのものが静かに告げているように。
花が咲いていた。
名もなき野花が三つ。
自由に、背を伸ばすように咲いていた。
end




