表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
名もなき花は春に咲く  作者: 初音の歌


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/9

09 花


 ――ある春の日。ある山の中で花が咲いていた。


 冬が終わり、ようやく春が芽吹いた日だった。

 雪はもう降らないと決めたように山肌から退き、凍りついていた小川が、細い声で流れ始める。枝先にはまだ冷たい風が残っているのに、陽光だけが妙に優しい。


 山道は、人の足に踏まれないまま、土の匂いを濃くする。

 獣の足跡が、湿った土にいくつも残る。鳥の鳴き声が遠い。たまに木々がざわめき、昨夜の雨の滴が、ひとつ、ふたつと落ちていく。


 その山の、少しだけ奥。

 崖に近い斜面の、太い根が地面を持ち上げて出来た小さな窪みがあった。


 そこに、花が咲いていた。

 小さな花。ひとつではなく、三輪。


 派手な訳でも、目立つ訳でもない。

 特別な訳でも、価値がある訳でもない。


 ただの野花。名もなき野花。

 けれど、それらは妙に誇らしげだった。

 細い茎のくせに背筋が伸びていて、風に揺られても折れない。

 花弁は小さく、淡い色で、陽に透けるたびに少しだけ違う表情を見せる。

 まるで、誰かに見られることを前提にしていない自由さがそこにあった。




 花が咲いていた。

 ――もう誰にも捕らわれることのない花が三つ。

 自由を謳歌するように咲いていた。




 この場所は、目印がない。

 道から外れ、足場の悪い斜面を登り、岩をひとつ避け、さらに獣道を辿ってようやく辿り着くような場所。わざわざ来る理由がない。来る者がいるとすれば、迷った旅人か、追われる者か、あるいは――何かを探しに来た人間だけ。


 その日、その何かを探しに来た者がいた。

 山の麓の村で、薪を背負って暮らす老いた狩人。冬の間に仕掛けておいた罠が外れていないか確かめるために、山に入った者。

 彼はこの山を知っている。雪の匂い、土の湿り具合、風の向きで獣の動きを読む。山が「ここに入るな」と言う場所には、昔から足を踏み入れない。


 だが春は、山の境界を曖昧にする。

 雪が消えると道が増えたように見える。足跡も流れ、匂いも変わる。いつもなら近づかない斜面に、ふと、誘われるように足が向いた。


 狩人は立ち止まった。

 花が咲いている。

 それだけなら珍しくない。

 春になれば、野花はどこにでも咲く。


 だが……三輪、揃って咲いているのが妙だった。


 この斜面は風が強い。

 普通なら、花は散発的にしか咲かない。

 ひとつ咲いても、次の年には消える。生き残る方が不思議な場所。


 それなのに、三輪。


 しかも、並びが整いすぎている。

 誰かが意図して植えたと言われれば納得する。

 だが、ここにそんな手を入れる人間は居ない。

 居たとしても、わざわざ山奥の名もない斜面に、誰が花を植えるというのか。


 狩人は慎重に近づき……そして、息を飲む。

 足元の土に、古い痕跡があることに気づいた。

 崩れた土の筋。小さな石が不自然に集まっている。何かを埋め戻したような歪み。


 ――ここで、誰かが倒れた。


 狩人は直感した。

 山で暮らす者は、死の匂いに敏い。血の匂いではない。終わりの匂いだ。

 誰にも気づかれず、静かに「ここで終わった」という匂い。

 狩人は帽子を取り、胸の前で握る。


「……そうか」


 誰に向けた言葉でもない。

 山に向けた言葉だ。


 狩人は花を折らなかった。

 触れもしなかった。水もやらない。祈りも捧げない。ただ、そこにあることを認めた。

 花は花のままであるべきだと思ったからだ。人の手を入れた途端、花は「人のもの」になる。

 ――それは、ここで眠る者にとって、きっと良くない。


 狩人は立ち上がり、ゆっくりとその場を離れる。

 花は、花のままでいさせたかったのだ。


 自由を謳歌するように咲いていた三輪の花は、やがて季節に従って散る。

 花弁は風に乗り、どこかへ運ばれる。茎は枯れる。土に戻る。


 だが、根は残る。

 来年もまた、咲くかもしれない。

 同じ三輪とは限らない。二輪かもしれないし、四輪かもしれない。あるいは、何も咲かない年もあるだろう。


 それでいい。

 咲くか咲かないかを決めるのは、王ではない。

 国でもない。

 契約でもない。

 追手でもない。

 山の土と、陽光と、雨と、風が決める。


 ――その自由が、ここにはある。


 春の陽は、花弁を薄く透かす。

 王の死も、国の行く末も、花の生き様に何も関与しない。

 三輪の小さな花は、誰に見せるでもなく、誇らしげに咲き続ける。


 まるで、ようやく手に入れた「終わり」を祝うように。

 まるで、長い長い檻の時間が、今度こそ本当に終わったのだと、山そのものが静かに告げているように。





 花が咲いていた。

 名もなき野花が三つ。

 自由に、背を伸ばすように咲いていた。










end

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ