『今日は、わたしが客』
「お客さんは、もう来ませんよ」
そう言われて、わたしは下駄箱の鍵から手を離した。
三日前に閉店した銭湯で、まだ仕事をしている。
「分かってます」
振り返ると、経営者の福原さんが立っていた。
七十二歳。白髪が増えて、最近は少し腰も曲がった。
「鍵なんか、もう揃えんでいい」
「でも、曲がったままだと」
「明日、業者が全部外すんだ」
そうだった。
玄関に並ぶ木製の下駄箱。
男女の脱衣所にあるロッカー。
古い番台。
どれも、もう使わない。
銭湯『朝凪湯』は、先週の日曜日で営業を終えた。
わたしの仕事も、終わった。
◆
小野寺澄江。五十九歳。
朝凪湯で二十六年間、受付と脱衣所の管理をしてきた。
最初は週三日だった。
子どもが小さいころは、夕方だけ。
子どもが大きくなると、夜まで働くようになった。
ここ数年は、週五日。
午後四時に出勤して、片づけを終えるのは夜十一時近くだった。
仕事は、番台でお金を受け取るだけではない。
開店前に脱衣所の床を拭く。
ロッカーの鍵を確かめる。
椅子と脱衣籠を並べる。
忘れ物を日付ごとに分ける。
風呂上がりの人が滑らないよう、床に落ちた水を拭き取る。
小さい子が一人でうろうろしていれば親を探すし、長く出てこないお年寄りがいれば、声をかける。
冬は脱衣所が冷えすぎないようにする。
夏は扇風機を回す。
それでも、お客さんから見れば、わたしは番台のおばさんだった。
それでよかった。
「小野寺さん、いつもの」
そう言われれば、だいたい分かった。
石鹸を忘れたのか。
小銭が足りないのか。
いつもの場所の鍵が欲しいのか。
二十六年もいると、顔を見るだけで分かることが増える。
それが仕事だった。
◆
閉店が決まったのは、三か月前だった。
ボイラーが古くなった。
配管も傷んでいた。
直すには、まとまったお金がかかる。
燃料費も上がっている。
お客さんは、年々減っていた。
「もう、無理なんだ」
福原さんは、そう言った。
わたしは頷いた。
仕方がない。
分かっていた。
近所には新しい温浴施設もできた。
広い駐車場があり、食事もできる。
朝凪湯には、何もない。
浴槽が二つ。
洗い場が十二。
壁に描かれた古い山の絵。
夏になると、入口の風鈴が鳴る。
それだけだ。
閉店の日、お客さんが何人も来た。
久しぶりに顔を見せた人もいた。
「寂しくなるな」
「どこへ行けばいいんだ」
「また開けられないのか」
そのたびに、わたしは頭を下げた。
「長い間、ありがとうございました」
同じ言葉を何度も言った。
閉店時間。
最後のお客さんが出ていった。
暖簾を外す。
レジを締める。
鍵をかける。
福原さんが、
「小野寺さんも、長いことありがとうな」
と言った。
わたしは、
「お世話になりました」
と返した。
それで終わりだった。
勤めてきた二十六年が、思っていたより簡単にあっけなく終わってしまった。
◆
閉店後の片づけは、今週いっぱい。
そこまでは給料が出る。
だから、まだ出勤している。
けれど、明日で本当に最後になる。
「小野寺さん、もう帰っていいぞ」
福原さんが言った。
「あと少しだけ」
「何が残ってるの?」
「確認です」
「何の?」
答えられなかった。
床は拭いた。
忘れ物も整理した。
ロッカーに何も残っていないことも確かめた。
確かめ終わったところを、もう一度確かめている。
福原さんが小さく笑った。
「最後まで仕事熱心だな」
そう言って、事務室へ戻っていった。
褒められたはずなのに、嬉しくなかった。
◆
おかしな音に気づいたのは、その夕方だった。
誰もいない浴室から、
ことん。
と音がした。
洗面器を置くような音だった。
わたしは顔を上げた。
浴室の水は抜いてある。
洗面器も全部、倉庫へ片づけた。
誰もいない。
それでも、また聞こえた。
ことん。
わたしは脱衣所を通り、浴室の戸を開けた。
床のタイルが、夕方の光を薄く反射している。
湯気はない。
お湯の匂いもしない。
洗い場に椅子は一つも残っていなかった。
「……誰かいます?」
返事はなかった。
当たり前だ。
もうお客さんはいない。
浴室の奥へ進む。
床は乾いている。
排水口も清掃済み。
何もない。
戻ろうとしたとき、
ことん。
今度は背中のほうで鳴った。
振り返った。
誰もいない。
わたしは、しばらく動けなかった。
◆
神宝町には、変わった相談を受ける人がいる。
慈恩さんという拝み屋だ。
何年か前、常連のおばあさんが話していた。
困ったことがあったら、あそこへ行けばいい。
何でも直してくれるわけじゃないけど、話は聞いてくれる。
そういう人らしい。
わたしは怪談が好きではない。
幽霊も、あまり信じていない。
それでも、最後の日くらいは確かめておきたかった。
翌朝、神宝町の古いレンガのビルを訪ねた。
十階建て。
テナント案内の上に、慈恩・オフィスと書かれていた。
案内された部屋には、細い目をした男性がいた。
黒い服。
少しくたびれた感じ。
「どうも、慈恩です」
思ったより普通の人だった。
「銭湯で、変な音がするんです」
「はあ」
「もう営業していないんですけど」
「なるほど」
わたしが説明している間、慈恩さんはときどき頷くだけだった。
音のこと。
片づけのこと。
閉店したこと。
二十六年働いたこと。
気づけば、仕事の話ばかりしていた。
「お風呂の水は、もう抜いてあります?」
「はい」
「配管の水も?」
「業者さんが確認しています」
「そうですかぁ」
慈恩さんは、少し考えた。
「音は、どんな感じです?」
「洗面器を置くみたいな」
「誰かが使っている感じ?」
「……そうです」
答えてから気づいた。
わたしは、そう聞こえてほしかったのかもしれない。
「一度、建物も見てもらったほうがいいでしょうね。片づけ中なら危ないところもありますし」
「幽霊じゃないんですか」
「どうでしょうねえ」
ずいぶん、頼りない返事だった。
でも、いい加減に言っている感じはしなかった。
慈恩さんは、それ以上、音の正体を決めなかった。
かわりに訊いた。
「小野寺さんは、お風呂がお好きなんです?」
「え?」
「入るほうです」
わたしは少し考えた。
「仕事ですから」
「はい」
「好きとか、そういうのは」
「そうでしたか」
慈恩さんは頷いた。
それから、妙なことを訊いた。
「最後に、お客さんとしてお風呂に入ったのは、いつです?」
思い出せなかった。
◆
朝凪湯へ戻ると、福原さんが業者と話していた。
わたしは浴室の音を伝えた。
業者が設備を調べてくれた。
排水管。
古い金具。
壁の裏。
すぐに危険があるような問題は見つからなかったが、音の原因もはっきりしなかった。
福原さんは、
「建物も古いからな」
と言った。
わたしも、そう思うことにした。
いや。
そう思いたかった。
幽霊がいるより、古い建物の音であってほしい。
それなら、何も怖くない。
けれど、その日の夕方も、浴室から音がした。
ことん。
わたしは、もう見に行かなかった。
◆
午後五時。
福原さんと最後の確認を終えた。
片づけはすべて済んだ。
鍵も返した。
残っていた給料と書類を受け取る。
「これからどうする?」
福原さんに訊かれた。
「仕事、探します」
「そうか」
「はい」
「小野寺さんなら、どこでもやれるよ」
ありがたい言葉だった。
でも、本当にそうなのか分からない。
五十九歳。
二十六年間、銭湯の受付をしてきた。
パソコンは得意ではない。
資格もない。
立ち仕事ならできる。
掃除もできる。
お金の計算も、まだ間違えない。
けれど、それはほかの人にもできる。
面接で、
何ができますか、
と訊かれたら、何を答えればいいのだろう。
「まあ、無理せんようにな」
福原さんが言った。
「はい」
わたしは頭を下げた。
そして、朝凪湯を出た。
◆
帰り道。
商店街で声をかけられた。
「小野寺さん」
振り返ると、土屋さんがいた。
七十代の女性だ。
週に三回、朝凪湯へ来ていた。
いつも同じ時間。
いつも同じ下駄箱。
脱衣所では、わたしと少し話してから浴室へ入っていった。
「もう終わり?」
「はい。今日で全部」
「そう」
土屋さんは、しばらく黙った。
「困るねえ」
「すみません」
「なんであんたが謝るの」
「いえ、でも」
「お湯がなくなるのは困るよ。あたしゃ、あそこでみんなと喋るのが楽しみだったんだから」
土屋さんは、商店街のほうを見た。
「家の風呂じゃ、誰とも喋らないもの」
わたしは返事ができなかった。
銭湯がなくなれば、土屋さんは別のところへ行く。
そう考えていた。
お風呂なんて、どこにでもある。
でも、土屋さんが通っていたのは、朝凪湯という場所だったのだ。
「ほかのお風呂へは?」
わたしが訊くと、土屋さんは首を振った。
「一人じゃ、行きにくくてね」
「そうですか」
「新しいところは、機械で券を買うんでしょう」
「そうみたいですね」
「わたし、ああいうの苦手で」
わたしは頷いた。
実は、わたしも苦手だった。
「小野寺さん」
「はい」
「今度、一緒に行かない?」
思わず、顔を上げた。
「わたしが?」
「ほかに誰がいるの」
「でも、わたしは」
仕事ではない。
そう言いかけた。
仕事ではないから、付き添う理由がない。
そんなことを、言おうとしていた。
土屋さんが笑った。
「いつも、あんたばっかり番台に座ってたじゃない」
「はい」
「今度は、一緒に入りましょうよ」
わたしは、しばらく考えた。
考える必要なんて、なかったのかもしれない。
でも、二十六年間、考えたことがなかった。
お客さんと、同じ場所に座る。
お金を払う。
湯船に入る。
誰かと話す。
何かを頼まれても、仕事として動かなくていい。
それが、どういうことなのか。
わたしには、まだ分からなかった。
「……いいですね」
そう答えると、土屋さんは嬉しそうに笑った。
◆
次の火曜日。
土屋さんと待ち合わせた。
神宝町から少し離れた、大きな温浴施設。
入口には券売機が並んでいる。
わたしは財布を出した。
料金の表示を見る。
思ったより高い。
仕事を辞めたばかりなのだから、節約したほうがいい。
そう考えた。
土屋さんが横から覗いた。
「これを押せばいいのかね」
「たぶん」
「たぶんって。小野寺さん、お風呂屋さんだったんでしょう」
「うちは機械じゃなかったんですよ」
土屋さんが笑った。
わたしも笑った。
券売機の案内を読み、二人で一枚ずつ券を買う。
受付へ渡す。
若い女性が、
「いらっしゃいませ」
と言った。
思わず、
「はい」
と返してしまった。
土屋さんが横で笑っている。
「小野寺さん、返事がおかしいよ」
「すみません」
「謝らなくていいのに」
そうだった。
もう、謝る必要もない。
◆
脱衣所は広かった。
新しいロッカーが何列も並んでいる。
わたしは、つい鍵を確認した。
壊れていないか。
番号が飛んでいないか。
扉がきちんと閉まるか。
土屋さんに、
「また仕事してる」
と言われた。
わたしは手を引っ込めた。
「癖で」
「いい癖だね」
そう言われて、少しだけ困った。
いい癖。
二十六年かけて身についたものだ。
簡単にはなくならない。
なくならなくても、いいのかもしれない。
◆
浴室へ入った。
広い浴槽。
大きな窓。
湯気で白く曇ったガラス。
知らない人たちの声が、天井へ響いている。
土屋さんが先に湯へ入った。
「小野寺さん、こっち」
呼ばれる。
いつもは、わたしが呼ぶほうだった。
「忘れ物ですよ」
「足元、気をつけてくださいね」
「もう閉まりますよ」
そんな言葉ばかり、長いあいだ口にしてきた。
わたしは、ゆっくり湯船へ足を入れた。
熱かった。
思わず、
「あつっ」
と声が出た。
土屋さんが笑った。
「風呂屋さんなのに」
「入るのは久しぶりなんです」
「そうなの?」
「はい」
肩まで浸かった。
お湯の重さが、体にかかった。
背中が温まる。
膝が温まる。
足の先まで、少しずつ熱が届く。
土屋さんが、目を閉じていた。
わたしも、真似をした。
誰も、わたしを呼ばない。
誰も、鍵を失くさない。
釣り銭を求める人もいない。
床が濡れていても、今すぐわたしが拭く必要はない。
ただ、お風呂に入っている。
それだけだった。
「小野寺さん」
土屋さんが、目を閉じたまま言った。
「何でしょう」
「いいお湯だねえ」
わたしは、少し考えた。
朝凪湯のことが浮かんだ。
あの小さな浴槽。
古いタイル。
壁の山の絵。
いつも聞いていた水の音。
最後の日に聞こえた、あの小さな音。
ことん。
あれは、何だったのだろう。
今でも分からない。
いつか分かる日が来るのかもしれない。
来ないのかもしれない。
でも、今はいい。
「……そうですね」
わたしは答えた。
「いいお湯です」
◆
風呂上がり。
二人で休憩所に座った。
土屋さんは牛乳。
わたしは冷たいお茶を買った。
窓の外には、夕方の空が広がっていた。
「小野寺さん、次の仕事は?」
土屋さんが訊いた。
「まだ決まっていません」
「そう」
「探さないといけませんね」
「そうだね」
土屋さんは、それ以上、何も言わなかった。
わたしも、何も言わなかった。
仕事がなくなったことは、変わらない。
朝凪湯も、もう開かない。
明日から、また仕事を探さなければならない。
五十九歳で、新しい職場に慣れるのは大変だろう。
給料だって、以前より下がるかもしれない。
それでも。
土屋さんが、空になった牛乳瓶を置いた。
「また来ようね」
わたしは頷いた。
「はい」
今度は、仕事の返事ではなかった。
帰りに、受付の女性が言った。
「ありがとうございました。またお越しください」
わたしは、少し立ち止まった。
二十六年間、言ってきた言葉だった。
その言葉を、初めて自分が受け取ったような気がした。
「……また来ます」
そう答えた。
誰かに頼まれたからではない。
仕事だからでもない。
わたしが、そうしたかった。
外へ出る。
風が涼しかった。
隣を歩く土屋さんが、次は食事もして帰ろうと言った。
わたしは財布の中身を思い浮かべた。
少し高い。
でも、次までに考えればいい。
そのくらいの約束なら、してもいいと思った。
「そうですね。次は、お昼も一緒に」
土屋さんが笑った。
わたしも笑った。
番台のない帰り道だった。





