↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神宝町怪異相談 仕事のあとに残るもの ~仕事を失った人たちの、少し不思議な再出発~  作者: K3/KASANE
検品済

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
39/39

『今日は、わたしが客』


「お客さんは、もう来ませんよ」


そう言われて、わたしは下駄箱の鍵から手を離した。


三日前に閉店した銭湯で、まだ仕事をしている。


「分かってます」


振り返ると、経営者の福原さんが立っていた。


七十二歳。白髪が増えて、最近は少し腰も曲がった。


「鍵なんか、もう揃えんでいい」


「でも、曲がったままだと」


「明日、業者が全部外すんだ」


そうだった。


玄関に並ぶ木製の下駄箱。


男女の脱衣所にあるロッカー。


古い番台。


どれも、もう使わない。


銭湯『朝凪湯』は、先週の日曜日で営業を終えた。


わたしの仕事も、終わった。


◆


小野寺澄江。五十九歳。


朝凪湯で二十六年間、受付と脱衣所の管理をしてきた。


最初は週三日だった。


子どもが小さいころは、夕方だけ。


子どもが大きくなると、夜まで働くようになった。


ここ数年は、週五日。


午後四時に出勤して、片づけを終えるのは夜十一時近くだった。


仕事は、番台でお金を受け取るだけではない。


開店前に脱衣所の床を拭く。


ロッカーの鍵を確かめる。


椅子と脱衣籠を並べる。


忘れ物を日付ごとに分ける。


風呂上がりの人が滑らないよう、床に落ちた水を拭き取る。


小さい子が一人でうろうろしていれば親を探すし、長く出てこないお年寄りがいれば、声をかける。


冬は脱衣所が冷えすぎないようにする。


夏は扇風機を回す。


それでも、お客さんから見れば、わたしは番台のおばさんだった。


それでよかった。


「小野寺さん、いつもの」


そう言われれば、だいたい分かった。


石鹸を忘れたのか。


小銭が足りないのか。


いつもの場所の鍵が欲しいのか。


二十六年もいると、顔を見るだけで分かることが増える。


それが仕事だった。


◆


閉店が決まったのは、三か月前だった。


ボイラーが古くなった。


配管も傷んでいた。


直すには、まとまったお金がかかる。


燃料費も上がっている。


お客さんは、年々減っていた。


「もう、無理なんだ」


福原さんは、そう言った。


わたしは頷いた。


仕方がない。


分かっていた。


近所には新しい温浴施設もできた。


広い駐車場があり、食事もできる。


朝凪湯には、何もない。


浴槽が二つ。


洗い場が十二。


壁に描かれた古い山の絵。


夏になると、入口の風鈴が鳴る。


それだけだ。


閉店の日、お客さんが何人も来た。


久しぶりに顔を見せた人もいた。


「寂しくなるな」


「どこへ行けばいいんだ」


「また開けられないのか」


そのたびに、わたしは頭を下げた。


「長い間、ありがとうございました」


同じ言葉を何度も言った。


閉店時間。


最後のお客さんが出ていった。


暖簾を外す。


レジを締める。


鍵をかける。


福原さんが、


「小野寺さんも、長いことありがとうな」


と言った。


わたしは、


「お世話になりました」


と返した。


それで終わりだった。


勤めてきた二十六年が、思っていたより簡単にあっけなく終わってしまった。


◆


閉店後の片づけは、今週いっぱい。


そこまでは給料が出る。


だから、まだ出勤している。


けれど、明日で本当に最後になる。


「小野寺さん、もう帰っていいぞ」


福原さんが言った。


「あと少しだけ」


「何が残ってるの?」


「確認です」


「何の?」


答えられなかった。


床は拭いた。


忘れ物も整理した。


ロッカーに何も残っていないことも確かめた。


確かめ終わったところを、もう一度確かめている。


福原さんが小さく笑った。


「最後まで仕事熱心だな」


そう言って、事務室へ戻っていった。


褒められたはずなのに、嬉しくなかった。


◆


おかしな音に気づいたのは、その夕方だった。


誰もいない浴室から、


ことん。


と音がした。


洗面器を置くような音だった。


わたしは顔を上げた。


浴室の水は抜いてある。


洗面器も全部、倉庫へ片づけた。


誰もいない。


それでも、また聞こえた。


ことん。


わたしは脱衣所を通り、浴室の戸を開けた。


床のタイルが、夕方の光を薄く反射している。


湯気はない。


お湯の匂いもしない。


洗い場に椅子は一つも残っていなかった。


「……誰かいます?」


返事はなかった。


当たり前だ。


もうお客さんはいない。


浴室の奥へ進む。


床は乾いている。


排水口も清掃済み。


何もない。


戻ろうとしたとき、


ことん。


今度は背中のほうで鳴った。


振り返った。


誰もいない。


わたしは、しばらく動けなかった。


◆


神宝町には、変わった相談を受ける人がいる。


慈恩さんという拝み屋だ。


何年か前、常連のおばあさんが話していた。


困ったことがあったら、あそこへ行けばいい。


何でも直してくれるわけじゃないけど、話は聞いてくれる。


そういう人らしい。


わたしは怪談が好きではない。


幽霊も、あまり信じていない。


それでも、最後の日くらいは確かめておきたかった。


翌朝、神宝町の古いレンガのビルを訪ねた。


十階建て。


テナント案内の上に、慈恩・オフィスと書かれていた。


案内された部屋には、細い目をした男性がいた。


黒い服。


少しくたびれた感じ。


「どうも、慈恩です」


思ったより普通の人だった。


「銭湯で、変な音がするんです」


「はあ」


「もう営業していないんですけど」


「なるほど」


わたしが説明している間、慈恩さんはときどき頷くだけだった。


音のこと。


片づけのこと。


閉店したこと。


二十六年働いたこと。


気づけば、仕事の話ばかりしていた。


「お風呂の水は、もう抜いてあります?」


「はい」


「配管の水も?」


「業者さんが確認しています」


「そうですかぁ」


慈恩さんは、少し考えた。


「音は、どんな感じです?」


「洗面器を置くみたいな」


「誰かが使っている感じ?」


「……そうです」


答えてから気づいた。


わたしは、そう聞こえてほしかったのかもしれない。


「一度、建物も見てもらったほうがいいでしょうね。片づけ中なら危ないところもありますし」


「幽霊じゃないんですか」


「どうでしょうねえ」


ずいぶん、頼りない返事だった。


でも、いい加減に言っている感じはしなかった。


慈恩さんは、それ以上、音の正体を決めなかった。


かわりに訊いた。


「小野寺さんは、お風呂がお好きなんです?」


「え?」


「入るほうです」


わたしは少し考えた。


「仕事ですから」


「はい」


「好きとか、そういうのは」


「そうでしたか」


慈恩さんは頷いた。


それから、妙なことを訊いた。


「最後に、お客さんとしてお風呂に入ったのは、いつです?」


思い出せなかった。


◆


朝凪湯へ戻ると、福原さんが業者と話していた。


わたしは浴室の音を伝えた。


業者が設備を調べてくれた。


排水管。


古い金具。


壁の裏。


すぐに危険があるような問題は見つからなかったが、音の原因もはっきりしなかった。


福原さんは、


「建物も古いからな」


と言った。


わたしも、そう思うことにした。


いや。


そう思いたかった。


幽霊がいるより、古い建物の音であってほしい。


それなら、何も怖くない。


けれど、その日の夕方も、浴室から音がした。


ことん。


わたしは、もう見に行かなかった。


◆


午後五時。


福原さんと最後の確認を終えた。


片づけはすべて済んだ。


鍵も返した。


残っていた給料と書類を受け取る。


「これからどうする?」


福原さんに訊かれた。


「仕事、探します」


「そうか」


「はい」


「小野寺さんなら、どこでもやれるよ」


ありがたい言葉だった。


でも、本当にそうなのか分からない。


五十九歳。


二十六年間、銭湯の受付をしてきた。


パソコンは得意ではない。


資格もない。


立ち仕事ならできる。


掃除もできる。


お金の計算も、まだ間違えない。


けれど、それはほかの人にもできる。


面接で、


何ができますか、


と訊かれたら、何を答えればいいのだろう。


「まあ、無理せんようにな」


福原さんが言った。


「はい」


わたしは頭を下げた。


そして、朝凪湯を出た。


◆


帰り道。


商店街で声をかけられた。


「小野寺さん」


振り返ると、土屋さんがいた。


七十代の女性だ。


週に三回、朝凪湯へ来ていた。


いつも同じ時間。


いつも同じ下駄箱。


脱衣所では、わたしと少し話してから浴室へ入っていった。


「もう終わり?」


「はい。今日で全部」


「そう」


土屋さんは、しばらく黙った。


「困るねえ」


「すみません」


「なんであんたが謝るの」


「いえ、でも」


「お湯がなくなるのは困るよ。あたしゃ、あそこでみんなと喋るのが楽しみだったんだから」


土屋さんは、商店街のほうを見た。


「家の風呂じゃ、誰とも喋らないもの」


わたしは返事ができなかった。


銭湯がなくなれば、土屋さんは別のところへ行く。


そう考えていた。


お風呂なんて、どこにでもある。


でも、土屋さんが通っていたのは、朝凪湯という場所だったのだ。


「ほかのお風呂へは?」


わたしが訊くと、土屋さんは首を振った。


「一人じゃ、行きにくくてね」


「そうですか」


「新しいところは、機械で券を買うんでしょう」


「そうみたいですね」


「わたし、ああいうの苦手で」


わたしは頷いた。


実は、わたしも苦手だった。


「小野寺さん」


「はい」


「今度、一緒に行かない?」


思わず、顔を上げた。


「わたしが?」


「ほかに誰がいるの」


「でも、わたしは」


仕事ではない。


そう言いかけた。


仕事ではないから、付き添う理由がない。


そんなことを、言おうとしていた。


土屋さんが笑った。


「いつも、あんたばっかり番台に座ってたじゃない」


「はい」


「今度は、一緒に入りましょうよ」


わたしは、しばらく考えた。


考える必要なんて、なかったのかもしれない。


でも、二十六年間、考えたことがなかった。


お客さんと、同じ場所に座る。


お金を払う。


湯船に入る。


誰かと話す。


何かを頼まれても、仕事として動かなくていい。


それが、どういうことなのか。


わたしには、まだ分からなかった。


「……いいですね」


そう答えると、土屋さんは嬉しそうに笑った。


◆


次の火曜日。


土屋さんと待ち合わせた。


神宝町から少し離れた、大きな温浴施設。


入口には券売機が並んでいる。


わたしは財布を出した。


料金の表示を見る。


思ったより高い。


仕事を辞めたばかりなのだから、節約したほうがいい。


そう考えた。


土屋さんが横から覗いた。


「これを押せばいいのかね」


「たぶん」


「たぶんって。小野寺さん、お風呂屋さんだったんでしょう」


「うちは機械じゃなかったんですよ」


土屋さんが笑った。


わたしも笑った。


券売機の案内を読み、二人で一枚ずつ券を買う。


受付へ渡す。


若い女性が、


「いらっしゃいませ」


と言った。


思わず、


「はい」


と返してしまった。


土屋さんが横で笑っている。


「小野寺さん、返事がおかしいよ」


「すみません」


「謝らなくていいのに」


そうだった。


もう、謝る必要もない。


◆


脱衣所は広かった。


新しいロッカーが何列も並んでいる。


わたしは、つい鍵を確認した。


壊れていないか。


番号が飛んでいないか。


扉がきちんと閉まるか。


土屋さんに、


「また仕事してる」


と言われた。


わたしは手を引っ込めた。


「癖で」


「いい癖だね」


そう言われて、少しだけ困った。


いい癖。


二十六年かけて身についたものだ。


簡単にはなくならない。


なくならなくても、いいのかもしれない。


◆


浴室へ入った。


広い浴槽。


大きな窓。


湯気で白く曇ったガラス。


知らない人たちの声が、天井へ響いている。


土屋さんが先に湯へ入った。


「小野寺さん、こっち」


呼ばれる。


いつもは、わたしが呼ぶほうだった。


「忘れ物ですよ」


「足元、気をつけてくださいね」


「もう閉まりますよ」


そんな言葉ばかり、長いあいだ口にしてきた。


わたしは、ゆっくり湯船へ足を入れた。


熱かった。


思わず、


「あつっ」


と声が出た。


土屋さんが笑った。


「風呂屋さんなのに」


「入るのは久しぶりなんです」


「そうなの?」


「はい」


肩まで浸かった。


お湯の重さが、体にかかった。


背中が温まる。


膝が温まる。


足の先まで、少しずつ熱が届く。


土屋さんが、目を閉じていた。


わたしも、真似をした。


誰も、わたしを呼ばない。


誰も、鍵を失くさない。


釣り銭を求める人もいない。


床が濡れていても、今すぐわたしが拭く必要はない。


ただ、お風呂に入っている。


それだけだった。


「小野寺さん」


土屋さんが、目を閉じたまま言った。


「何でしょう」


「いいお湯だねえ」


わたしは、少し考えた。


朝凪湯のことが浮かんだ。


あの小さな浴槽。


古いタイル。


壁の山の絵。


いつも聞いていた水の音。


最後の日に聞こえた、あの小さな音。


ことん。


あれは、何だったのだろう。


今でも分からない。


いつか分かる日が来るのかもしれない。


来ないのかもしれない。


でも、今はいい。


「……そうですね」


わたしは答えた。


「いいお湯です」


◆


風呂上がり。


二人で休憩所に座った。


土屋さんは牛乳。


わたしは冷たいお茶を買った。


窓の外には、夕方の空が広がっていた。


「小野寺さん、次の仕事は?」


土屋さんが訊いた。


「まだ決まっていません」


「そう」


「探さないといけませんね」


「そうだね」


土屋さんは、それ以上、何も言わなかった。


わたしも、何も言わなかった。


仕事がなくなったことは、変わらない。


朝凪湯も、もう開かない。


明日から、また仕事を探さなければならない。


五十九歳で、新しい職場に慣れるのは大変だろう。


給料だって、以前より下がるかもしれない。


それでも。


土屋さんが、空になった牛乳瓶を置いた。


「また来ようね」


わたしは頷いた。


「はい」


今度は、仕事の返事ではなかった。


帰りに、受付の女性が言った。


「ありがとうございました。またお越しください」


わたしは、少し立ち止まった。


二十六年間、言ってきた言葉だった。


その言葉を、初めて自分が受け取ったような気がした。


「……また来ます」


そう答えた。


誰かに頼まれたからではない。


仕事だからでもない。


わたしが、そうしたかった。


外へ出る。


風が涼しかった。


隣を歩く土屋さんが、次は食事もして帰ろうと言った。


わたしは財布の中身を思い浮かべた。


少し高い。


でも、次までに考えればいい。


そのくらいの約束なら、してもいいと思った。


「そうですね。次は、お昼も一緒に」


土屋さんが笑った。


わたしも笑った。


番台のない帰り道だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。