辺境の旋律2
微かな音が漏れ聞こえてくる。(床材の弾性限界付近で繰り返される、右足への偏った荷重移動。歩幅は正確に45センチメートル辺りで固定されており、これは重度の拘禁反応に見られる「常同歩行」の典型的なパターン。大脳基底核が同一の運動回路を無限ループさせている証拠であり、外部からの情報入力を拒絶し、自己の内面に閉じこもることで「失態の露呈」という耐え難い現実から逃避しようとする心理的防衛機制が、肉体的なピストン運動へと置換されている。さらに、踵の接地音が極端に抑制され、母指球にのみ過剰な圧力がかかっている点は、獲物を狙う捕食者ではなく、捕食者から身を隠そうとする被食者の「消音歩行」——すなわち、自らの存在そのものを世界から抹消したいという強烈な自己否定感の力学的証明に他ならない。また同時に聞こえる吸気と呼気の時間比率が1:1を切り、換気回数は毎分35回を突破。これは、前頭葉による理性的制御が完全に遮断され、脳幹網状体が「社会的抹殺」という抽象的脅威を「物理的な窒息」と誤認して起動した、重度のパニックディスオーダー(恐慌性障害)の音響波形。肺胞内での二酸化炭素排出が過剰になり、血中pHがアルカリ側に傾く「呼吸性アルカローシス」特有の……自律神経は当分、暴走を止めないわね)
「……中にいるわ。呼吸音が乱れている。過換気症候群の一歩手前だわ」
私が静かに告げると、アルバインは覚悟を決めたように、今度は「ドンドンドン!」と力強く扉を叩いた。
「ソラス! アルバインだ! 衛兵隊のアルバインだ! 開けてくれ、助っ人を連れてきたぞ!」
数秒の沈黙の後、内側からボルトの外れるガチャンという鈍い音が響いた。ゆっくりと開いた扉の隙間から、顔を覗かせたのは、無精髭を生やし、瞳の焦点が定まっていない青年男性――ソラスだった。
「ああ……アルバイン……。来てくれたのか! 良かった、本当に……。僕はもう、おしまいかと思っていたんだ……」
アルバインは申し訳なさそうに、重苦しい兜を脱いで脇に抱えた。
「……すまない、ソラス。君がそこまで、その、人生の瀬戸際に立たされているとは露知らず……。事情は、こちらの『王宮捜査官』の方から伺った。例の……依頼書の件だ」
「王宮……捜査官……?」
ソラスの視線が、アルバインの背後に立つ私たちに移動した。
泥一つ付いていない純白の魔導ローブを纏った私と、彫刻のような美貌に余裕たっぷりの微笑を浮かべたゼノ。
私は懐から金の紋章を取り出し、その冷徹な輝きをソラスの鼻先に突きつけた。
「王宮捜査官、リナリア・スクリクト。こちらは相棒のゼノ。あなたの『絶望』の真偽を確かめに来たわ」
横でゼノが、楽しげに右手の指先をこめかみに当て、それをひょいとソラスに向けて放つような仕草を見せた。
「やあ。君の描いた情熱の軌跡、ぜひ僕たちに追わせてほしいな。愛の重さは、足跡に現れるものだからね」
「王宮捜査官……! おお、なんという……! 天の恵みだ、シャラゼリスの導きだ! それに陛下は私を見捨てていなかったんだね!」
先ほどまでの沈鬱な表情はどこへやら、ソラスは感激に震えながら、私たちを招き入れるべく仰々しく扉を押し広げた。
「さあ、さあ中へ! こんな掃き溜めのような家ですが、知性の光が差し込むのを待っていました!」
家の中は、外見通り至って「普通」だった。
磨き上げられた木の床、使い込まれた食卓、壁に掛けられた弦の切れたリュート。暖炉の上には、かつて吟遊詩人として栄光を掴んでいた頃のものだろうか、色褪せたメダルが飾られている。
ソラスは、まるで救世主を迎える信徒のように、上機嫌に語り始めた。
「いやあ、王宮捜査官がいらしたのなら、もう千人力だ! 私がこの村で積み上げてきた名声も、これで守られる! あんな恐ろしい事件、解決できるのはあなた方しかいない!」
私は、ソラスの「依頼書」の悲壮感と、目の前の「根拠のない全幅の信頼」という極端な振れ幅に、密かにこめかみを押さえた。情緒不安定にも程がある、と……。




