第五章(4)
「ううん、なんでもないわ。エマ、今日は付き合ってくれてありがとう」
「王弟殿下もお元気そうでしたね。学生の時よりも髪が伸びたような気がします」
「そうね」
エマが言うように、結婚式で再会したアーヴィンは髪が伸びていて、洗練された所作にもどこか野性味を帯びていたような感じもする。
「……奥様は、どちらが好きですか?」
エマの質問の意味を確認するように小首を傾げれば「髪の短い王弟殿下と、長い王弟殿下です」
「何よ、その意地悪な質問」
「それは、奥様が先に私に意地悪な質問をしたからですよ」
ふふふ、と笑ったエマが、私の前にお茶を置いた。白い湯気が立ち上り、部屋にはハーブティーの爽やかな香りが広がっていく。
「なぁんだ。意地悪だってわかっていたってことは、そういうことね」
私もエマに負けじと微笑み返し、白磁のカップに手を伸ばす。
「奥様。私は隣の部屋におりますので、何かございましたらお呼びください」
エマはドレスの手入れをするために隣の部屋へと向かったが、それはきっと、私が一人になりたいというのを察してくれたからだろう。
エマとのおしゃべりは楽しいし気分転換にもなるけれど、今のようなときは気疲れしているのは事実。エマは敏感にもそれを読み取ってくれたらしい。
差し込む太陽の光は部屋の奥へ、奥へと向かおうとしており、アーヴィンと笑い合った時間が嘘のように、今は静かである。
両腕を伸ばしてソファに寄りかかって目を閉じると、手の甲を瞼に押し当てた。
疲れた。
相変わらずリンダとはどう接したらいいかわからないし、シオドアには何かを期待するだけ無駄。
それなのに、対外的には仲の良い夫婦を演じる必要があり、近くは三日後、義父と付き合いのある侯爵家で開かれる夜会に、夫婦で誘われている。ポーレット公爵は、私とシオドアを連れて歩きたがり、そのたびに私はシオドアと仲睦まじい夫婦にならなければならない。
結婚してまだ一か月。互いに愛人を持つ夫婦であっても、それを周囲に知られていい時期ではない。
何よりも、私とアーヴィンは誰にも知られずにゆっくり愛を育む必要がある。とはいえ、それをどうやって実現させるかが、当分の課題だ。
一人になればなったで、こうやってとめどなく次から次へと思考があふれてきてしまう。
何をするわけでもなく、私はただソファに座っていた。カップの半分ほど残っているハーブティーはぬるくなっているし、部屋に差し込む光も弱々しくなっている。
どれくらいの時間、ぼんやりしていたかはわからない。このままではダメだと気持ちを奮い立たせ、冷めたハーブティーを一気に飲み干すと、舌の上に少しだけ苦みが残る。あたたかいうちは気にならないが、冷めたお茶は渋みを感じてしまう。
ビシッと気合いを入れた私は、執務室へと向かい、ヘルナントを呼びつけた。
「奥様、お呼びでしょうか」
「えぇ。旦那様は体調がすぐれないでしょう? だから、子爵領のことも私のほうでできるところをやっておこうと思って。帳簿を出してもらえないかしら?」
帳簿の管理はヘルナントが行っている。ポーレット公爵がロンペル子爵領の領主でもあったが、ヘルナントは領主代理として帳簿を管理していたのだ。私はまだ金庫の開け方を教えてもらっていないし、本来であれば帳簿の確認はシオドアの仕事。
だから私が帳簿を見たいときはヘルナントに頼むしかなかった。
ちなみにシオドアもまだ、金庫の開け方は教えてもらっておらず、それだけヘルナントはシオドアを信用していない。
「本当に奥様がこちらに来てくださって……」
今にも泣き出すんじゃないかと、感極まった声のヘルナントは、金庫から取り出した帳簿を私の前に置いた。
「ヘルナント、これは昨年の帳簿よね?」
「はい」
「他にもあるかしら? 一昨年とその前と……できれば、ここ五年くらいを確認したいのだけれど」
ヘルナントが微かに首をひねってから、眉間にしわを刻んだ。
「今年の収支の予測を立てるなら、過去データは多いに越したことはないわ。昨年はたまたま不作だった、もしくはその逆で今までになく利益が出たとかであれば、それをベースに計算しても信頼性には欠けるもの」
「左様でございますね」
ヘルナントは小さく頷いた。




