ダットサイトの忘却曲線 1
乾いた銃声が、森の中に響いた。
鉛の弾は、さっきまで笑っていた男の胸へ、吸い込まれていった。当たると同時に砕けて、小さな破片になって、臓器を裂きながら進んでいく。心臓は、外れた。だから、即死ではない。それが良かったのかどうかは、分からない。即死なら、苦しまずに済んだ。苦しんでいる今なら、助かる可能性が、まだ少しはある。
男は胸に手を当てて跪き、声にならない声をあげている。吐血混じりに咳き込みながら、胸を押さえた左手の指の隙間から、体液が重力に惹かれる様に地面へ滴り落ちた。苦しみの気配を、私に向けてきた。息が尖る様に、震えて縋る様に。それから、その呻きが、段々と掠れていく。まるで、夜の森に一人で迷い込んだ子供の様な、まるで雨降る夜に悪夢を見た子供の様な、路地裏で悪魔に出会ったかの様な、そんな声に変わっていった。
私は、その苦しみが薄れていくのを、ただ黙って聞いていた。声にならない呻きが、次第に間隔を空けていく。指の隙間から滴る音も、一滴、また一滴と、遠のいていく。森は、その一部始終に、何の関心も示さなかった。風が木々を撫で、遠くで名も知らぬ鳥が間の抜けた声で鳴いている。それだけだった。
この鉛の粒を主人様が私に持たせた時のことを、時々、思い出す。狩りには使うな、人にしか向けるな、と低い声で言われた。いつも優しい主人様があんなに硬い声を出したのは、後にも先にも、あの一度きりだった。人を殺めるための道具を、こんな子供に握らせる。そのことの重さを、あの人はきっと、誰よりも深く分かっていた。分かった上で、それでも、この世界で生き延びる術を私に一つでも多く残そうとしてくれた。
背中の方で、しおりさんが息を止めていた。ことはの心臓の音が、さっきより速い。二人とも、動いていない。声も、出さない。
いつもなら、ここで背を向けて立ち去ればよかった。放っておいても、この男はもう長くない。詠唱の一つも紡げず、痛みに飲まれて、じきに息を止める。それで、私の仕事は終わりだった。それなのに、私の左手は勝手に、胸元の冷たいものへ伸びていく。まるで飢えた獣が最後の一口を求める様に、まるで決められた道をなぞるだけの、糸の切れかけた人形の様に。私は、この男の目に映る最期の景色が、見たかった。見たくて、たまらなかった。その欲望にまだ名前をつけられずにいるのに、指の動きだけは、いつも迷わない。
私は、小さな声で、一言「ジャム」と呟いた。
視界が荒れた。少しずつ、ゆっくりと、その荒れが晴れていく。
苦しみ、悶え、死にゆく者の見つめている視界と繋がっていく。
歪んだ視界。霞んだ視界。その視線の先に、私がいた。
その悪魔は、間違いなく、私だった。子供の背丈に、子供の顔。それなのに、その顔に浮かんでいるのは、幼さとは似ても似つかない薄気味の悪い笑みだった。他人の目に映った自分の姿を、私は、こうしてしか知ることができない。鏡の前でみのりさんに撫でつけてもらった髪の少女ではなく、引き金を引いて笑うこの化け物を。人を殺す、その一番醜い瞬間の顔だけを。
男の目に映る森は、色に満ちていた。空の切れ端まで、色があった。その色の上を、いつもの様に細い線が這っている。人の体を巡る線は、一つの中心から放射状に伸びて、整っている。乱れがない。その整った線が、傷口の端から一本ずつ解けて、空気に溶けていく。命が抜けていくとは、こういうことなのかと、他人の視界越しにいつも思い知らされる。
呻き声が聞こえる。苦しむ声が聞こえる。助けを呼ぶ声も、許しを乞う声も、全てが自分の頭の中に入ってくる。
醜い、醜い。
その声を聞きながら、視線の先の悪魔は、遂に堪えきれずに微笑んだ。残り少ない命の最後に視界を奪われて、何も見えず、何もできないことに怯えている。その姿が堪らなく醜くて、悪魔は微笑み続けた。
その笑いが自分のものだということに、私はもう、慣れていた。慣れてしまった、と言った方が正しいのかもしれない。人が一人、私の指のほんの少しの動きだけで、光を奪われ、命を落としていく。その一部始終を、胸のどこも痛ませずに聞いていられる自分が、いる。痛まないどころか、口の端を吊り上げて笑っている自分が、いる。優しい声に囲まれて、温かい家で暮らしていても、この笑い声だけは消えない。鍵をかけて閉じ込めた奥の方から、こうして時々、隙間を縫って漏れ出してくる。消えてくれたらと願う私と、消えないでくれと願う私が、同じ胸の中に並んで座っていた。
視界が、一色ずつ抜け落ちていく。世界がゆっくりと、一秒を刻む。一分にも、一時間にも感じるほどの、その一秒を。段々と、声が聞こえなくなる。ゆっくりと、静かに、視界が閉じていった。
視界の中心には、鉄の出っ張りがあった。その先に、地面へ伏せた、もう動かないものを真っ直ぐ捉えていた。その事実から目を背ける様に、視界は少しずつ、下へ落ちていった。
何の感情もなく、私はダットサイトから目を外した。
銃を下ろすと、左手にじんわりとした疲労が残っていた。撃つ瞬間だけ、私の体は自分のものではなくなる。引き金にかけた指先だけが冷たく研ぎ澄まされて、それ以外の全部が、遠くへ退いてしまう。撃ち終えて、こうしてゆっくりと自分の体が戻ってくる感覚を、私は嫌いではなかった。指を開くと、固く握り込んでいた関節が、ぱきりと小さく鳴った。反動の名残が、まだ肘の辺りに鈍く痺れている。この痺れが引く頃には、たった今この手で何をしたのかを、私はもう半分忘れている。
忘却曲線、という言葉を、いつか主人様が教えてくれた。人は覚えたことを、時間と共に、決まった形で忘れていく。急な坂を転がり落ちる様に、はじめは一気に、それからゆっくりと、記憶は薄れていく。忘却曲線とは、その形につけられた名前だと、主人様は言った。私の忘却は、たぶん、その曲線よりもずっと急だった。撃った瞬間から、もう忘れ始めている。男の声も、この森の場所も、握った砂が指の間を落ちていく様に、あっという間に遠くへ流れ去っていく。覚えていられたらと思う夜も、たまにはある。けれど、殺した人間の声を、最期の呼吸を、一つ残らず抱えて生きていたら、私はきっと、とうの昔にその重さで潰れていた。だから、忘れる。忘れることだけが、私をあの家の朝まで、無事に運んでくれる。
森の中に、静寂が響いていた。風が木々を揺らす音。動植物の息遣い。その静寂の中に、不釣り合いな笑い声が混ざる。少しずつ、少しずつ、その声は大きくなっていった。
私の声だ。
喉の奥から込み上げてくるその笑いを、私は止めようとも思わなかった。止められる類のものではないと、もう知っていたからだ。笑い声は森の静寂に染み込み、木々に吸い込まれ、それでもなお、途切れることなく私の口から零れ続けた。
笑いながら、私は、少しだけ泣いていた。笑っているのか、泣いているのか、自分でも分からない。ただ、目の奥が熱くて、頬がいつの間にか濡れていた。悲しいわけではない。悔しいわけでもない。寂しいのとも、少し違う。名前のつけられない何かが、笑い声と一緒になって、体の底の底から、こんこんと湧き上がってくる。それを堰き止める術を、私は持っていなかった。持っていたとしても、たぶん、使わなかった。
最初に殺したのは誰だろう。もう覚えていない。
私は、売り飛ばされた。人を殺めてしまったから。それも、多くの人を殺めてしまったから。本来なら殺されていてもおかしくないのに、何故か売りに出された。いっそ殺してくれれば良かったのに、と思いながら、今の暮らしを私はとても気に入っている。私の場合は、人を殺めても、それが悪いことだと、倫理的に良くないことだと、理解できなかったから。それに加えて、他人の視界を強制的に奪って自分のものにできる。普通の人間からすれば、恐怖の対象でしかない。
他人の視界を奪って、他人の命を奪って、私は今日も呼吸をする。世界を救うヒーローにはなれないし、誰かに救われるヒロインにもなれない。私は、ただの化け物なのだ。子供の皮を被った、非力な少女を装った、化け物なのだ。
化け物は狂った様に笑いながら、魔術師だったモノの方へ顔を向けた。血の様な涙を流しながら、静寂に包まれた森の中で、笑い続けた。
笑い声が細くなった、その隙間で。
二つの心拍が、聞こえた。すぐ後ろにあった。しおりさんの、速い心拍。ことはの、もっと速い心拍。一度も遠ざかっていない。逃げていない。ずっとそこにいて、ずっと、聞いていた。
笑いが、喉の途中で止まった。




