ダットサイトの忘却曲線 2
木々が生い茂る森の中に、静寂が戻ってきた。
化け物の笑い声も、人が苦しみながら死ぬ音も、何もかもが無かったことの様に、森の中は静寂に包まれていた。
笑い終えて、一呼吸置いた。殺した魔術師のことなんか忘れて、次の行動について考えを巡らせていた。ジャムの代償だろうか、こめかみの奥が鈍く脈を打っている。奪い取った視界の残像も、殺した男の呻き声も、指の隙間から零れ落ちていく砂の様に、私の中から少しずつ抜け落ちていく。後に残るのは、これからどうするのか、という答えの出ない問いだけだった。
魔術師一人を殺したところで、状況は好転しない。こいつ一人で戦況は変わらない。何度考えても、この状況を変えるには全員を殺すか、逃げるかしかない。逃げるということは、住み慣れたこの森と家を捨てて、放浪の旅に出るということだ。それはあまりにも危ない。そもそも、何処に逃げるというのだろう。受け入れ先もない、目的もない旅は、地獄を散歩するより辛い。それに、私の一存では決められない。それなら、家の周りと岩場にいる鎧たちを全員殺してしまえば、短くても、私達の平穏は帰ってくるのではないだろうか。鎧を相手にするのは骨が折れそうだが、それでも、できないことではない。
考えが熱を持って、まとまりを失っていく。俯いて、手を口に当てて、ぶつぶつと独り言を呟いていた。その時だった。
「ここを離れて、お兄ちゃん達と合流しよう」
静寂を切り裂く様に、凛とした声が響いた。ぐるぐると同じ場所を回り続けていた私の考えが、一瞬で断ち切られた。
顔を上げると、ことはの気配が、真っ直ぐこちらへ向いていた。
「ジャーニーマンが何なのかは分からないけど、こんな辺鄙な場所でそう呼ばれるとすれば、お兄ちゃんしかいないからね」
少し怖い声だった。眉間に皺を寄せているのが、声の硬さで分かる。
「そうだね。師匠達と合流できれば、少なくとも今より悪い状況にはならないしね」
しおりさんが、それに乗った。真面目な声だった。
「それに、お姉ちゃんが暴走する確率も減るだろうし」
ことはが、声をより一層硬くして、気配で釘を打ちつけてくる。
私の取った行動は、あまりにも感情的すぎた。ジャーニーマンという知らない言葉を聞いて、それが誰を指しているのかが、すぐに繋がってしまった。だから咄嗟に、あの魔術師だったモノに敵対行動を取れてしまった。本来なら、もう少し情報を引き出さなければいけなかった。くだらない世間話を続けなければいけなかった。それなのに、私は排除してしまった。自分を抑えられなかった。どうしても、何が何でも殺したかった。主人様への忠誠でも、信仰でもない。私の中にある黒い部分、モヤモヤした部分、衝動的な部分だった。
ことはの声は高くて幼い。それなのに、口から出てくる言葉はいつも大人みたいに冷静で、隙がなかった。ここに来るまでの人生で、感情的になっては生きていけないと知っているから。勝てないなら逃げればいい。勝てるにしても、こちらの被害は最小限にしなければ、その後の予定に響く。そんな当たり前のことを、この狂った様な空間でもきちんと分かって、冷静に動ける。
同じ屋根の下で、同じご飯を食べて、同じ様に育ってきたはずだった。それなのに、いざという時になると、こうも差が出る。ことはは、目の前が真っ暗になる様な状況でも、その暗闇の中にちゃんと一本の道を見つけ出す。私はというと、心の方まで真っ暗な場所で、ただ立ち尽くしてしまう。
私は俯いた。私にも一応、姉としての矜持がないわけではない。それでも、この状況では明らかにことはの方が上だ。しおりさんよりも、上だ。顔が熱くなって、また俯いた。
殺すか、逃げるか。その二つしか思いつけなかった私と、殺した後のことまで見据えて「合流しよう」と言い切ったことは。並べてみるまでも、なかった。私はいつも、目の前の一手で精一杯で、その先の盤面がまるで読めていない。妹がこんなにしっかりしているのに、なんて軽率なことをしてしまったのだろう。考えれば考えるほど、自分の取った行動の意味の無さが際立っていく。穴があったら入りたい。
そんな私に、ことはが歩み寄ってきた。チーから降りる音。絵の具の匂いが近づいてくる。
「終わったことに後悔をするな。諦めぐせの塊みたいなお姉ちゃんが、諦めなかっただけで僥倖」
右手の人差し指が、私の額にぐりぐりと押しつけられた。
「それに、どの道を選んでも、アイツは殺さなきゃ先に進めなかったんだ」
ぐりぐりは、止まらない。
「それが早いか遅いかの違いだけ。それに、きっとアイツは大した情報も持ってなかったよ」
私はあわあわしながら、両手でことはの右手を掴んだ。もう、どっちが姉か妹か分からない。何なら、母に叱られる子供の様だ。額に押しつけられたことはの指は、絵の具の匂いがして、少しだけざらついていた。怒っている様で、その実、慰めてくれている。叱っている様で、その実、庇ってくれている。姉のくせに、妹の指の温もりに、こんなにも救われている。情けなかった。けれど、その情けなさが、今は少しだけ温かかった。
しおりさんが、クスッと笑った。
ことはが私の額から指を離した。それから、私達を交互に見て。
「サクッと合流したいから、強引に森を走るよ。しおりんは、ちゃんと着いて来てね」
声が、笑っていた。さっきの私と同じ形に口角を上げているのが、聞いていて分かった。しおりさんが少し固まって、それから、同じ形に笑い返した。
「ことはこそ、ちゃんと付いてこないと置いてっちゃうからね」
さっきまでの私と同じで、入ってはいけないスイッチが、二人の中で入ってしまった気がした。冷静で、利口で、頭の回転が速い子だけれど、それ以上に、やるべきことに関しては物凄くシビアな子だ。そんな子が、不敵に笑って、楽しそうにしている。これほど怖いものは、他にはない。この森にいる鎧を着た騎士達より、さっき対峙した魔術師より、今のことはの方がよっぽど恐ろしく感じた。
それでも、私は、この子が好きだった。恐ろしくて、頼もしくて、危なっかしくて、耳が離せない。さっきまで震えていたはずの子が、次の瞬間には、こうして一番前で笑っている。
ことはが手招きをして、チーを呼んだ。背中に跨る音。チーは何も言われずとも私の足元まで歩いてきて、私が乗りやすい様に体を屈めた。
跨った背中は、いつもと同じ、温かくて硬いチーの背中だった。それなのに、今日はどこか遠く感じた。妹に諭され、額をぐりぐりと押されて、姉であるはずの私が、また子供の様にあやされている。強くなりたい、と思う。せめて、二人の足を引っ張らない程度には。けれど、そう思うそばから、きっと私には無理だ、という声が胸の底で静かに響いた。
しおりさんがハルバードを鉄の棒に戻して、腰にぶら下げた。
助けたのは、私のはずだった。幻術を見破って、レンズで本物の道を示して、二人をあの繰り返す森から連れ出した。それなのに、今、救われた気持ちになっているのは私の方だった。額に押しつけられた、ことはの指の温もりに。しおりさんの、こんな時でも変わらない軽口に。二人がここにいてくれるという、ただそれだけのことに。守るつもりが、守られている。支えるつもりが、支えられている。いつも、いつも、逆さまだった。
焦ったところで、何一つ好転はしない。それでも、自分では分からない何かが、私の心を必要以上に煽っている様に感じる。目に見えない何かが、私の肩にもたれかかる様に、私の肩で一休みする小鳥の様に、何かが止まっている。それが何かは分からない。でも、気分のいいものではなかった。初めての感覚では、なかった。あの森で引き金を引く時にも、時折、こうして肩のあたりに重さともつかない何かが寄り添っていることがあった。振り返っても、そこには何もない。何もないのに、確かに、いる。その気配だけが、今日はやけにはっきりとしていた。
急に大人びてしまった妹の背中と、さっきまでのおどおどした様子を払拭した姉の気配。その間で、私は置いて行かれてしまった様な寂しさを感じていた。劣等感、と呼ぶには少し違っていた。ことはが頼もしくなればなるほど、しおりさんが強くなればなるほど、私一人だけが同じ場所に取り残されていく様な。二人の背中がどんどん遠くなって、手を伸ばしても、もう届かなくなっていく様な。そういう寂しさだった。私も、二人の隣にちゃんと並んで立ちたい。並んで立てる私になりたい。けれど、その願いはいつも、口に出すより先に喉の奥で溶けて消えてしまう。
「お姉ちゃん、こっちの方角であってるんだよね?」
ことはが指差した先が、私が確認した方向と同じだと、声の向きで分かった。
「うん」
短く、弱く呟いて、チーの頭を撫でた。温かかった。この子だけは、私が強くても弱くても、賢くても愚かでも、何も変わらずに、こうして黙って背中を貸してくれる。私はその温もりに、そっと額を寄せた。せめて、しがみつくくらいは、ちゃんとやろう。振り落とされない様に。二人の足を、これ以上引っ張らない様に。それが、今の私にできるたった一つのことだった。
ことはが「行くよ」と呟いた。チーが歩き出して、すぐに風の様に走り始める。並走する様に、しおりさんも走り出した。私は劣等感に苛まれながら、静寂に包まれた森の中で、振り落とされない様に、風にしがみついた。




