フォレストフレーバー 2
三日目の朝だった。
鳥の声で目が覚めた。明るくて、短くて、繰り返す声。あの家の朝と同じ鳥が、ここにもいた。体が痛い。地面で寝ると、右側が痺れる。首が回らない。服が朝露で湿って、冷たい布が肌に張りついている。よくは、眠れなかった。
しおりさんが川から戻ってきた。水の匂い。顔を洗ってきた。
「おはよ。今日は少し暖かいね」
少しだけ、元気が戻っていた。二日歩いて、二晩眠って。体は疲れている。それでも、立ち上がる人だった。ことはがチーの背で目を擦っている。見張りを交代してから眠ったので、起きるのが遅い。渋々起き上がって、キノコを齧った。昨日と同じ味。固くて、薄くて、温かい。三日目になると、慣れた。慣れたくはなかったけれど、慣れた。慣れていく自分が、少しだけ、嫌だった。
歩いた。三日間、ずっと南へ向かって。川の音を頼りに、木の苔の向きを頼りに。ことはが「苔は北側に生えやすい」と言って、主人様の受け売りだと笑った。主人様の姿は、見つからなかった。耳を澄ませても、足音は聞こえない。みのりさんの絹の声も。追ってくる気配もなかった。騎士の揃った足音も、幻術の圧も。森は、ただの森だった。
三日目の昼過ぎ。ことはが「止まって」と言った。チーの足が止まる。しおりさんが振り返った。
「どうしたの」
「……木」
考えている声だった。
「この木、おかしい。昨日ここ通ってない。この道は初めてなのに、この木、見たことある」
しおりさんが黙った。私は耳を澄ませた。森の音。鳥の声。虫の音。風。いつもと同じ。本物の音だった。幻術ではない。それでも、ことはが言うなら、何かある。ことはの目は、信用できる。
「お姉ちゃん、周りに誰かいる?」
耳を澄ませた。深く。足音はない。呼吸音もない。心臓の音も、聞こえない。でも、匂いがあった。焦げた布と、新しいインクと、舌の奥が痺れる様な甘い薬品。どれも、森の中にあるべきではない、知らない匂いだった。
「誰か、いる」
声を落とした。しおりさんの手がハルバードにかかる。金属が鳴る、小さな音。ことはがチーから降りて、鞄に手を入れた。あの、爆発する石を握っている。チーが唸った。毛が逆立って、尻尾が地面に張りついている。
「出てきちゃいなよ」
ことはが、木に向かって言った。硬い声。それでも、震えていなかった。
「昨日までなかった木が生えてたら、誰だっておかしいと思うでしょ」
沈黙。長い沈黙。森の音だけが鳴っていた。やがて、木の裏から、足音がした。ゆっくりとした足音。両手を上げて、洗い立てのローブの匂いをさせて。
「よく気づいたね。すごい観察眼だ」
高い声。若い男の声。笑っている。余裕のある声だった。近づくにつれて、さっきの三つの匂いが濃くなった。焦げた布は袖から、インクは指先から、甘い薬品は首のあたりから。三つとも、この森の匂いを一つも吸っていない匂いだった。わざとらしい拍手が、パチパチと鳴る。しおりさんのハルバードが、鉄の鳴る音を立てて構えられた。それでも男は、声のトーンを変えなかった。子供三人を相手に、脅威を感じていない声だった。
「手投げの爆弾もいい威力だね。風の力を閉じ込めたお手製かな。だとしたら、いい腕をしてる」
答えなかった。石を握ったまま、男を見据えている。
「こんなど田舎に連れてこられた時は、退屈すぎてどうなるかと思ったけど。こんな面白い子たちがいるなんてね」
男の笑い方が、変わった。楽しんでいる笑いから、狂気の混じった笑いへ。まるで沼の底へ引きずり込まれる様に、まるで濡れた毛布を頭から被せられる様に、まるで甘ったるい霧が肺の奥まで満ちていく様に、呼吸が、重くなった。しおりさんが一歩前に出て、私とことはの前に、壁になる様に立った。
「わざわざこんなど田舎に、魔術師様が騎士を引き連れて、何のご用件で?」
低くて、冷たくて、嫌味を込めた声。男が、また笑った。今度は長く。笑い声の中に、壊れた音が混じっている。可笑しくて笑っているのではない。狂気が、溢れている。ことはの足が震えていた。それでも、石を握る手だけは、震えていなかった。
「そんなの、一つしかないだろ」
笑いが、止まった。低い声に変わる。さっきまでの高い声とは、別人の様に。
「ジャーニーマン」
一言。知らない言葉だった。それでも、誰を指しているのかは、分かった。主人様だ。こいつらは、主人様を追ってきた。家を燃やし、騎士を送り込み、幻術を張り、この森まで追いかけてきた。全部、主人様のために。
男は、まだ喋っていた。まだ笑っていた。
「あんなボロ小屋を焼くくらいじゃ、何も面白くないからね」
ボロ小屋。あの家を、ボロ小屋と、呼んだ。
私の中で、何かが動いた。胸の奥。いつも閉じている、鍵のかかった場所。その鍵が、軋んだ。苛立ちではない。怒りでもない。もっと冷たくて、もっと暗くて、もっと静かなもの。あの家は、ボロ小屋なんかじゃなかった。私の手の高さに合わせて削られた手すりが、至る所にあった。捻れば安全な水の出る蛇口があった。テラスから薪割り場まで、真っ直ぐに伸びる歩道があった。みのりさんが冷たい手で私の髪を撫でてくれる台所があった。あの家の中でだけ、私は迷わずに歩けた。あの家の中でだけ、私は、家族というものを持てた。それを、この男たちはボロ小屋と呼んで、燃やした。面白くないから、というただそれだけの理由で。
心臓が、変わらなかった。速くもならず、遅くもならず、いつも通りに打っている。それが、怖かった。まともに怒ることすら、私にはできない。こういう時にいつも、それを思い知らされる。
左手が、ポケットの中の鉄に触れた。冷たい。指先に、金属の感触が広がる。グリップに巻いた布の凹凸。引き金の位置が、指に馴染む。主人様が持たせてくれた鉄。使いたくなかった。使うべきではない。それでも、手が、離れなかった。
男は、まだ喋っている。まだ笑っている。子供三人を前にして、恐れるものは何もないと思っている。余裕のある人間は、隙が多い。主人様が、そう教えてくれた。小動物を狩る時でも全力を尽くさなければ、思いもよらない反撃が待っている、と。こいつは、全力を尽くしていない。私達を、舐めている。
ことはが、私の方を見た。気配で分かった。気配が、私の左手の方へ、まっすぐ向いているのが分かった。何も、言わなかった。しおりさんがハルバードを構え直した。男の注意は、しおりさんに向いている。一番、脅威な相手に。誰も、私を見ていなかった。小さな体。非力な体。脅威になるはずがない。だから、見ない。それは、いつものことだった。この目のせいで、私はいつも、勘定に入れられない。庇われて、守られて、後ろに置かれる。悔しいと思ったことは、あまりなかった。守られることに、慣れていた。けれど、今この瞬間だけは、その見られなさが、たった一つの武器になる。誰の目にも留まらない私だけが、この男のがら空きの正面を撃てる。
いつもの私なら、ここで固まっていた。怖くて動けなくて、動かない方がましだと俯いていた。けれど私は、ポケットの中で銃を握り直した。使うべきではない、と、まだ頭の隅で声がする。それでも、この指を止めるのは、私だ。撃つと決めるのも、私だ。
こいつは、死ぬ。私が、殺す。
左手の人差し指が、引き金に触れた。鉄は、冷たかった。誰にも見られていない小さな殺し屋の指先で、その冷たさだけが、これから起こることの全部を、静かに、知っていた。




