フォレストフレーバー 1
その日は南へ向かって歩けるだけ歩いて、日が暮れる前に、森の奥で足を止めた。
しおりさんが先頭。ことはとチーが真ん中。私が最後。手すりはない。足元の土が、知らない柔らかさをしている。木の根を踏まない様に、爪先で土を確かめながら歩いた。靴底に小石が挟まって、一歩ごとにジャリッと鳴る。川の音が、左から聞こえていた。川は山から海へ流れる。海は南にある。主人様が、そう教えてくれた。だから、川の音を左に聞きながら歩けば、南へ向かえる。レンズはもう、ほとんど使えなかった。家の周りに設置されたレンズの範囲を、とうに出ている。音と匂いだけが、頼りだった。
「休もう」
しおりさんの声。短かった。疲れていた。足音の間隔が、どんどん広がっていた。走って、戦って、また走って。しおりさんの体は頑丈だ。それでも、限界のない体なんて、この世にない。
木の根元に座った。土が冷たい。背中に樹皮が当たって、苔が少しだけ柔らかかった。ことはがチーの背から降りる。チーが横になって、舌を出して、荒い息をつく。ことはがその腹を撫でた。
「お水、あとどれくらい?」
「半分くらい、かな」
「節約しないと。明日の分も要るし」
落ち着いた声だった。怖いはずだった。森の中で、夜が近づいていて、追ってくる相手がいて。それでも、ことはの声は落ち着いていた。考えている時の声だった。この子はどうして、こんな時に、こんなに冷静でいられるのだろう。私はというと、口を開けば余計なことを言ってしまいそうで、さっきから黙っていることしかできずにいた。
「しおりん、この辺、食べられるキノコあったよね。前にお兄ちゃんに教えてもらった」
「あー……あの白いやつ? たぶんこの辺にもあるよ。明るいうちに探そう」
しおりさんが立ち上がった。まだ疲れている。それでも、立ち上がった。疲れていても立ち上がる。この人はいつもそうやって、一番しんどい役目を当たり前の顔で拾っていく。
「お姉ちゃんは、ここにいて。チーと一緒に」
ことはの声。優しかった。「ここにいて」が、心配ではなく、信頼だった。ここで待っていてくれたら、私達が戻ってくるから。そういう「ここにいて」だった。
「……うん」
二人の足音が、遠ざかっていった。チーの呼吸だけが、隣に残った。
森は、静かだった。鳥が鳴いている。虫が鳴いている。本物の音。作られた音ではない。夕日の匂いがした。空気が冷えていく匂い。
怖かった。一人は、怖かった。チーがいる。それでも、チーは喋れない。声がないというのは、そこにいないのと、少しだけ似ている。二人の足音が聞こえなくなると、森は、いっそう静かになった。木々の間を、風がゆっくりと通っていく。遠くの川の音。頭の上のどこかで、鳥が一度だけ鳴いて、また黙った。もし、二人が戻ってこなかったら。ふと、そんな考えが胸をよぎって、慌てて打ち消した。戻ってくる。ことはが「ここにいて」と言った。あれは、戻ってくるという約束だった。だから、待つ。今の私にできるのは、ここで静かに待つことだけだった。
その時、チーが体を押しつけてきた。硬い毛の下から、大きな体の熱が伝わってくる。心臓が、規則正しく打っている。ゆっくりと、安定した鼓動。チーは、私のそばにいる。喋れなくても。私は、その頭を撫でた。耳の後ろの、柔らかいところ。尻尾が、少しだけ揺れた。花の匂いがした。チーの尻尾から、いつも漂う、甘い花の匂い。名前は知らない。それでも、知っている匂いだった。あの家にいた頃から、ずっと、この子と一緒にあった匂い。ことはが拾ってきた日も、みのりさんが名前をつけた日も、この匂いはあった。匂いは、私の中に残る。だから私は、この匂いだけは、絶対に忘れたくないと思った。
「……ありがとう」
二人が戻ってきた。キノコと土の匂い。それに、川で水筒を満たしてきたばかりの濃い水の匂いがした。ことはが火を起こす。石を打ち合わせる音。三度目で、火種ができた。乾いた木の皮に火が移って、細い煙が立ち上る。キノコを焼くと、匂いが変わった。生の匂いから、香ばしい匂いへ。主人様の料理には、程遠い。それでも、温かかった。
齧った。固かった。味は薄い。土の味が、少しした。歯の間で繊維が裂けて、噛むたびに苦い汁が出る。飲み込むと、空っぽだった胃が、それを受け取った。体の芯が、少しだけ温まる。しおりさんがキノコを三つ一気に食べて、「もうちょいあったかな」と、もう一本枝に刺す。食べ方が雑だった。いつものしおりさんだった。みのりさんがいたら、「もう少しゆっくり食べなさい」と言うのだろう。みのりさんは、いない。だから、誰も言わなかった。その沈黙が、胸の奥を、しんと冷やした。
夜になった。火を消した。ことはが、煙で居場所を知られるかもしれないと言って、しおりさんが折れた。暗闇の中で、三人と一匹が、木の根元に固まっていた。しおりさんの広い背中が、壁になっている。左にことはの、小さな肩が触れている。膝の上に、チーの頭の重み。寒かった。地面から冷気が上がってくる。吐く息が頬に返ってくる。それでも、背中にしおりさんがいて、左にことはがいて、膝にチーがいた。三人と一匹分の体温が、暗闇の中に、あった。
「ねぇ」
ことはの声。囁く様に小さい。
「お兄ちゃんに会ったら、最初に何言う?」
しおりさんが、少し笑った。
「『遅くなってごめんなさい』……かな」
「しおりんらしい。お姉ちゃんは?」
「……『おかえりなさい』は、おかしいかな」
「おかしくないよ。私は『お腹空いた』って言う」
しおりさんが、声に出して笑った。チーが「ワフ」と小さく鳴いて、同意するみたいだった。三人で、笑った。暗くて、寒くて、お腹が空いていて、それでも、笑えた。この三人なら、こんな夜でも、少しだけ心強かった。
笑い声が止むと、また静寂が戻ってきた。虫の音。葉擦れ。遠くの川の音。しおりさんの呼吸が深くなっていく。戦いの疲れが、やっと体を引きずり込んだ。ことはの呼吸は、浅いまま。まだ起きている。見張っている。「私が一番起きてられるから」と、自分から買って出た。チーの心臓が、膝の下で、規則正しく鳴っていた。
眠れなかった。今夜の暗闇だけは、重かった。音のない暗闇。匂いのない暗闇。知らない場所の、暗闇。
うとうととして、体が半分、夢に落ちた頃。
右手が、勝手に、宙へ伸びた。
いつもの高さに、いつものものを探して。廊下の手すり。私の手の高さに合わせて、主人様が削ってくれた、丸い木の感触。指がそれを掴もうとして。何も、なかった。空気しか、なかった。指が空を掻いて、掴むものがどこにもなくて、そのまま力なく落ちた。半分眠っていた頭より先に、伸ばした手の方が、理解していた。あの手すりは、もう、ない。手すりを探した手だけが、暗闇の中で行き場をなくして、宙に浮いていた。
帰りたい。帰りたかった。でも、帰る場所が、燃えた。
胸の奥が、痛かった。涙は、出なかった。もう、出尽くしていた。私は行き場をなくした右手を、チーの背中の上にそっと降ろした。花の匂いのする、温かい背中の上に。チーの心臓が、規則正しく鳴っている。ゆっくりと。ずっと。私はその鼓動だけを指の先で数えながら、掴むもののなくなった手のひらに代わりにチーの温もりを握りしめて、まだ来ない朝を、まだ遠い誰かの声を、まだ燃え残っているかもしれない家の匂いを、暗闇の中で一つずつ数える様にして、ただ、待っていた。




