転機はいつも気まぐれに 3
森を抜けた先の草原で、待った。
ことはがチーの背で、周囲を見張っている。私は胸元のレンズを握って、森の中に散らばったレンズの視界を、一つずつ借りていった。木々の間には、誰もいない。広場の端に、倒れた鎧が転がって、動かない。岩場の近くでは、騎士が二人、警戒しながら歩いている。しおりさんの姿は、まだどのレンズにもなかった。
四つ目のレンズに、切り替えた。
長い柄の武器を地面に突き刺して、それに背を預ける様にしゃがみ込んでいる人影が、映った。金色の髪。返り血で、その金色が、ところどころ黒く固まっている。しおりさんだった。
「見つけた」
「どこ?」
「広場。座ってる。生きてる」
ことはの息が、短く漏れた。安堵の息だ。それも、すぐに引っ込んだ。
「怪我は?」
借りた視界を、じっと見つめる。しおりさんの周りに、倒れた騎士が四人。動かない。しおりさんは地面を見つめたまま、動かないでいた。返り血はついているのに、自分の血が流れている気配は、なさそうだった。胸が、上下している。呼吸だけは、レンズ越しにも見えた。
「たぶん、怪我はしてない。でも、動いてない」
「迎えに行く」
ことはが手綱を叩いた。
「待って。まだ騎士がいる。岩場に、二人」
「二人なら、チーで抜けられるよ」
迷いのない声だった。ことはは、こういう時に頭が回る。怖いはずなのに、震えていたはずなのに、決めたら速い。私がまだ、しおりさんの無事に胸を撫で下ろしている間に、この子はもう次の一手を打っている。私はいつも、この子の速さに、半歩遅れる。
チーが森へ戻った。幻術の圧は、もうない。追ってきたものが、いつの間にか消えていた。私がレンズで道を示して、ことはが手綱を引いて、チーが駆ける。組手の時と、同じだった。私が見て、ことはが決めて、動く。ただ一つ、しおりさんがいない。三人と一匹ではなく、二人と一匹。その一人分の隙間が、風の吹き込む穴みたいに横で口を開けていた。走るあいだじゅう、塞がらなかった。
岩場の騎士を避けて、回り込む。チーが爪を引っ込めて、肉球だけで地面を踏んだ。音を立てない走り方を、この子は知っている。広場が近づくのは、レンズより先に、音で分かった。空気が開けて、木の匂いが薄れて、土と血の匂いが濃くなる。ことはがチーを止めた。木の影から広場の中央へ、ゆっくり歩き出す。
空気が、重かった。
しおりさんの気配が、いつもと違う。組手の時の殺気とも違う。もっと冷たくて、もっと深い。近づくだけで、息が浅くなる。真冬の湖の底に立たされた様に、抜き身の刃のすぐ横で呼吸をしている様に、剥き出しの神経に息を吹きかけられた様に、肌が、ひとりでに粟立った。チーの足が止まる。低く唸った。怯えではない。しおりさんの、その気配に対する警戒だった。
十歩。八歩。五歩。
後ろで、金属が鳴った。鎧の関節。鞘を擦る刃。考えるより先に、ことはがチーの手綱を叩いた。チーが横へ跳ぶ。風が、頭のすぐ上を通り過ぎていく。振り下ろされた刃が、さっきまで私達のいた場所を、薙いでいた。
次の瞬間だった。
風切り音。重くて、速い。遠くから飛んでくる。座っていたはずの場所から、しおりさんが地面の武器を抜いて、投げていた。鎧を貫く、鈍い音。騎士が後ろへ倒れて、動かなくなった。
しおりさんが、立ち上がっていた。さっきまで座り込んでいた人の呼吸じゃない。平坦で、心拍が、遅い。戦場に立っている人の、心拍だった。
一拍、間があった。
しおりさんが、こちらを向いた。鼻を啜る音。喉の奥が詰まった様な、震える息。
「二人とも、無事でよかった」
声が、揺れていた。さっきの冷たい気配が、一瞬で溶けて消える。いつもの、子犬みたいな声。泣きそうな声。本当は、ずっと怖かった人の声だった。しおりさんが、その場に座り込む。ハルバードが地面に落ちて、重い音を立てた。
「しおりん!」
ことはがチーから飛び降りて、走った。
「怪我は」
「大丈夫。頑丈なのだけが取り柄だからね。……でも」
声が、小さくなる。
「すごく、怖かった」
しおりさんの心臓が、今になって速くなる。安心した分だけ、怖さが遅れて追いついてきた。ことはが、隣に座った。何も言わずに、ただ座った。チーがしおりさんの足元に鼻を押しつける。しおりさんが、その頭を撫でた。撫でる手が、震えていた。
私も、何か言いたかった。大丈夫ですか、とか。ありがとうございます、とか。ことはみたいに、黙って隣に座るのでも、よかった。それなのに、足が動かない。口も動かない。組手の時は、あんなに自分から前に出られたのに。本物の死の匂いを浴びたしおりさんを前にすると、私はまた、いつもの何もできない私に戻ってしまう。しおりさんから、濃い血の匂いがした。返り血だ。私とことはを守るために、この人が流させて浴びた血だった。
三つの音を聞いた。しおりさんの、まだ乱れている心拍。ことはの、静かな呼吸。チーの、低い鼻息。三つの音の隙間に、いなくなった二人分の音の空白があった。その空白が、耳に痛かった。
「……しおりさん。主人様は」
聞かなければならなかった。聞きたくなかった。それでも、聞いた。
しおりさんが、黙った。長い沈黙だった。
「分からない。広場に来る途中で騎士に見つかって、そのまま戦って。師匠の姿は、見てないんだ」
見てない。会えなかった。主人様も、みのりさんも。
「変なんだよね。あいつら、騎士の鎧を着てるのに、動きが素人なの。剣は大振りだし、槍を突く位置もめちゃくちゃ。連携もない。一人一人が弱すぎて、拍子抜けするくらい。しかもね、何を聞いても無言なの。騎士って普通、名乗りたがるでしょ。なのに、何も言わない。名乗りもしないで、不意打ちばっかり。……あれ、何なんだろうね」
怒りと困惑の混じった声だった。答えは、誰も持っていない。騎士なのに、素人。名乗らない、揃った足音。三日前から聞こえていた、あの足音。全部がうまく噛み合わないまま、胸の底に、小さな棘みたいに刺さっていた。
ことはが立ち上がった。
「行こう。ここにいても、しょうがないよ。南に行けば、森を抜けられる」
硬い声。でも、もう震えてはいなかった。しおりさんが、血のついたままのハルバードを拾い上げる。拭かなかった。
「行こう」
声が、戻っていた。低くて、強い。さっき泣きそうだった人と、同じ喉から出ているとは思えない声だった。三人と一匹が、南へ歩き出す。しおりさんが先頭を歩いた。ハルバードを鉄の棒に戻して、腰に差して。足音が、いつもより重い。疲れきった体を引きずる様な、鉛みたいに重い足音だった。それでも、止まらなかった。南に何があるのかは、分からない。この草原の先が森なのか街なのか、それとも何もないのか。誰も知らない。ただ、主人様が「南の森を抜けなさい」と言った。その言葉だけを、私達は握りしめていた。
しおりさんが、歩きながら、小さく言った。
「師匠なら、大丈夫。あの人が、こんなことで死ぬわけないよ」
自分に言い聞かせる声だった。心拍が乱れていない。本当にそう信じている声だった。私は、その言葉に縋りたかった。縋っていいのかは、分からなかった。それでも、しおりさんがそう言うなら、きっとそうだと思うことにした。ことはは、何も言わなかった。チーの頭を撫でていた。チーの尻尾が、少しだけ揺れた。
二つの足音と、一つの爪音が、草の上を進んでいく。しおりさんの足音が一番重くて、私の足音が一番軽い。ことはの足音は、チーの背中の上にあって、聞こえない。私は、その音の隙間に耳を澄ませて、しおりさんの心拍を何度も確かめた。もう乱れていない。今の私に確かなものは、その心拍だけだった。煙の匂いが、少しずつ薄れていく。名残惜しくて、心細かった。それでも振り返ってはいけない気がして、私は一度だけ来た道の方へそっと耳を向けてから、前を向いて歩いた。




