転機はいつも気まぐれに 2
チーの背中で揺られながら、南の森を走っていた。
チーの硬い毛が、太腿の内側に擦れる。温かい背中。前にことはがいて、手綱を握っている。その背が揺れるたびに、絵の具の匂いがした。チーの爪が地面を蹴る音、枝の折れる音、葉が顔に当たる音。全部が、速かった。後ろから、もう金属の音は聞こえない。遠くなった。煙の匂いも薄れていた。それでも、消えてはいない。服にもチーの毛にも、家が燃えた匂いが染みついて、まだ体の上に重たく乗っていた。
ことはが手綱を引いた。チーの速度が、落ちる。
「お姉ちゃん、泣いてる場合じゃないよ」
硬い声だった。怒ってはいない。叱っていた。
「……うん」
頬を袖で拭う。涙の跡が、ざらついていた。袖が煙くさい。鼻の奥が、まだ痛い。泣いている場合じゃない。分かっているのに、目の方が勝手に溢れてしまう。姉なのに。しっかりしなきゃいけないのに。ことはの背中の方が、私よりずっと、まっすぐだった。
「まず南の森を抜ける。師匠がそう言った。道は分かる?」
「分かる」
この森は、遊び場だった。毎日歩いて、毎日走った。土の硬さ、木の根の位置、水の流れる方角。全部、足の裏が覚えている。
チーが走り出す。今度は、さっきより少しだけ遅い。ことはが速さを調整している。全力で走り続ければ、チーが先に潰れる。ことはが、そういう計算のできる子だった。木々の間を抜ける。苔の匂い、湿った土の匂い、腐った落ち葉の匂い。いつもの森の、いつもの匂いだった。
でも。
足の裏が覚えている道と、今踏んでいる地面が、合わない。
この道は知っている。この角度で曲がれば、大きな岩が左手にあるはずだった。何十回も通った道。手を伸ばす。空気しか、なかった。あるはずの場所に、何も、ない。指先が、空を掴んだ。
「ことは」
「うん。分かってる」
低い声。気づいている。ことはも、気づいている。
「同じ場所を歩いてる」
ことはが言った。違う。同じ場所じゃない。さっき通った場所と今いる場所は、同じ様で、違う。匂いが違う。さっきは苔の匂いが左から来ていた。今は右から来ている。地面の硬さも違う。さっきより、柔らかい。それなのに、足音は同じに聞こえる。木々の間隔も、同じに聞こえる。鳥の声も、虫の音も、同じ。同じ音が同じ間隔で鳴り続けている。それが、おかしかった。
「音がおかしい」
「え?」
「鳥も虫も、さっきから同じリズムで鳴いてる。森の音って、こんなに揃わないの。風が吹いたら虫は黙るし、鳥は同じ間隔で鳴き続けないし、水の音も近くなったり遠くなったりする。……これ、作られてる」
ことはが黙った。チーが足を止める。この子も、何かを感じている。毛が逆立って、鼻が動いている。それでも、何も見つけられずにいた。
「幻術」
ことはが呟いた。景色を変える。音を変える。方角を狂わせる。匂いだけは、変わっていなかった。苔の匂い、土の匂い、腐った葉の匂い。全部、本物だった。塗り替えられた絵の隅に元の色が残っている様に、匂いだけが、この森の本当をこっそり教えてくれていた。足が覚えている道を歩いているつもりで、まったく違う場所に、いる。
「誰かが、ずっとこっちを見てる」
ことはの声が、初めて震えた。その一瞬に、耳と鼻が勝手に働いた。木々の間隔が詰まる音。チーの息が浅くなる音。鼻先をかすめる新しい匂い、鉄でも煙でもない湿った獣に似た、この森のどれとも違う匂い。左の高み。右の低み。正面のずっと奥。同時にいくつもの気配が降ってきて、どれが本物か、束ねきれなかった。
分からない。
それでも、ことはが言うなら、見られている。ことはの勘は、いつも正しい。
「お姉ちゃん、目を使って!」
レンズ。この森にも、主人様が私のために置いてくれたレンズがある。ただ、この幻術の中でその位置が正しいかは分からない。私は胸元のレンズを握った。冷たい。
「ルック」
短く呟いた。視界が、一気に広がる。森の中に散らばったレンズの視界が、いくつも、いくつも流れ込んでくる。木漏れ日の角度、地面の色、苔の形。全部が一度に押し寄せて、吐き気がした。いつものことだった。こめかみの奥が、脈を打つ。それでも、見えた。レンズが映している景色と、私が足で感じている地面が、一致しない。レンズの映す森と、今いる森が、ずれている。木の間隔が違う。地面の位置が違う。
「ことは、左。レンズの方に行って」
「レンズ、見えてるの?」
「見えてる。そっちが、本物の道」
ことはが手綱を左へ引いた。景色が、変わった。変わっていないのに、変わった。足の裏の地面が変わる。硬さが戻る。根の位置が戻る。さっきまで右にあった苔の匂いが、左へ戻った。肌が覚えている湿度に、戻った。正しい道に、出た。
それでも、まだ見られている。視線を感じる。森の奥から、高い場所から低い場所からあらゆる方向から。レンズの視界が、頭の奥をぎりぎりと締めつけてくる。それでも、糸を手放すわけにはいかない。手放した瞬間に、私達はまた、あの繰り返す森に飲まれてしまう。奥歯を噛む。木漏れ日の角度。苔の生えた向き。倒木の位置。一枚、また一枚、本物の道の欠片を震える指で拾い集める様に、レンズの光だけを頭の中に並べ続けた。
「右。次は真っ直ぐ。その先を、左」
声を出す。小さな声。ことはが、その声で手綱を引いた。チーが方向を変える。背後の空気の圧が、少しだけ、遠ざかった。ほんの少しだけ。でも、消えなかった。まだ、見られている。チーの背が、汗で滑る。ことはの手綱を引く手が、白くなっている。誰も、口を開かなかった。喋れば、この張り詰めた糸が切れてしまいそうだった。風だけが、耳の横を切っていく。走って、曲がって、また走って。膝が笑い始めても、止まらなかった。止まった瞬間に、追いつかれる。そういう予感だけが、背中の産毛を、逆立てていた。
どれくらい走ったか、分からない。
森が、開けた。木が減った。空気が変わる。湿った空気から、乾いた空気へ。土の匂いから、草の匂いへ。頭の上が広くなって、音の響き方が変わった。木々の壁がなくなって、声が遠くまで飛んでいく感覚。風が、正面から吹いてきた。森を、抜けた。
ことはがチーを止めた。荒い息。チーの心臓が、背中越しに伝わってくる。速い。走りすぎた。振り返ると、森が静かだった。追ってくる気配が、森の縁で止まっている。出てこなかった。森の匂いが変わっていた。作られた匂いではない。本物の森の匂い。風が葉を揺らして、鳥が、不規則に鳴いている。
草原には、遮るもののない風が吹いていた。丈の低い草が、一斉に同じ方向へ倒れて、また起き上がる。その音が、どこまでも遠くまで、さざ波の様に続いていた。森の中の、閉じた湿った空気とは違う。開けた、乾いた、どこまでも広がっていく空気。チーが、荒い息のまま、その場に伏せた。脇腹が大きく上下している。ことはが、その首筋に顔をうずめて、しばらく動かなかった。私も、膝から力が抜けて、その場に座り込んだ。草の匂いが、鼻の先で濃くなる。土の匂いとも、あの家の匂いとも違う、知らない草原の匂いだった。
ことはが、長い息を吐いた。震えていた。
「……お姉ちゃん」
「うん」
「しおりん、まだ来ない」
振り返った。しおりさんの足音は、聞こえなかった。森の向こうに、まだ煙の匂いが残っている。薄く、遠く。家が燃えた匂い。チーが、短く鳴いた。不安な声。しおりさんがいない。主人様がいない。みのりさんがいない。森を抜けた先には、誰もいなかった。
風が吹いた。乾いた、草の匂いのする風。知らない場所の匂いだった。私はその風を頬に受けながら、あの家のどこにも似ていない匂いの中に、たった二人と一匹で立っているのを体の芯でようやく理解した。喉の奥が、また熱くなる。それでも泣くまいと奥歯を噛みしめながらしおりさんの足音を探し、まだ煙のくすぶる森の方へいつまでも、いつまでも耳を澄まし続けていた。




