転機はいつも気まぐれに 1
次の日も、その次の日も、組手は続いた。
毎日、少しずつ長く逃げられる様になった。昨日は七分、今日は八分。主人様が「上達したね」と笑って、しおりさんが「やった!」と跳ねて、ことはが「当たり前」と胸を張る。いつもの夕方。いつもの帰り道。私も、少しずつ、自分から作戦を口にすることを覚え始めていた。姉らしいことの、たった一つでも。
何日目かの、組手の最中だった。
池のほとりまで逃げ延びていた。背丈ほどの草が、身を隠すのにちょうどいい。連日の雨で池が増水して、足元がぬかるんでいる。私はレンズを覗いて、上空を飛ぶ鳥の視界を借りた。広場が見える。岩場が見える。主人様の姿は、どこにもない。足音も聞こえない。静かだった。静かすぎた。
その時、風が変わった。
煙の匂いがした。木が燃える匂いだった。
組手で、主人様が火を使うことはない。この匂いは、違う。もっと大きな火の、もっと遠くから流れてくる匂いだった。家の、方角から。
レンズの視界を、上空へ移す。鳥の目で、遠くを見た。黒い煙が上がっていた。家の方角。森の向こう。太い煙が空へ伸びて、その下に、赤い光。火。大きな火が、揺れていた。
心臓が、止まった。止まった心臓が、次の瞬間に、暴れ出した。
「家が」
声が、出なかった。口が動いているのに、音にならない。しおりさんの手が、私の肩を掴んだ。
「さゆり、何が見える?」
いつもの声では、なかった。
「家が……燃えてます」
三人が、動けなかった。一秒、二秒。草の擦れる音だけが、していた。
走った。森の中を、枝が顔を叩くのも構わず、走った。主人様が前を走っている。足音が速い。普段の主人様は、音を立てない人だった。それが今は、立てている。急いでいる。みのりさんが、その隣を走っている。いつもの絹の足音ではなく、地面を強く蹴る足音で。しおりさんが横につく。ことはがチーの背で、手綱を引いて、私達に速さを合わせている。チーの唸りが、低い。この子も、分かっている。何かがおかしいと。
煙の匂いが、一歩ごとに濃くなる。喉の奥がひりつく。目の奥が痛い。木が焦げる匂い、草が焼ける匂い、油の匂い。そして、鉄の匂い。研いだばかりの、新しい鉄の匂い。使い込んだ武器ではない。全員が、同じ匂いをまとっている。揃いの、支給品の匂いだった。
森を抜ける手前で、主人様が止まった。全員が止まる。呼吸だけが、残った。
聞こえた。
足音。等間隔の、同じ重さの、同じ靴底の足音。揃えることを叩き込まれた人間の、歩き方。十人以上のそれが、家の周りから聞こえている。
その音を、私は、知っていた。
三日前から、ずっと聞いていた音だった。北の遠くで日ごとに一つずつ増えていた、あの足音。忘れることにしていた、あの音。遠いからと数えるのをやめた、あの音。増えていたのではない。近づいて、いた。ずっと、この家に向かって、まっすぐに。それを、私は風に流されるまま、忘れてしまった。もっと早く、みんなに言えていたら。喉まで出かかった言葉を、確かではないからと飲み込んでしまわなければ。冷たいものが背筋を、つうっと滑り落ちていく。
レンズを覗く。上空から、家を見下ろした。炎が屋根を舐めている。熱で空気が歪んで、レンズ越しにも、景色が陽炎の様に揺れていた。朝食を食べたテラスが燃えていた。ことはのアトリエが、私としおりさんの部屋が、主人様の書斎が。全部、燃えていた。歩道も、納屋も、手すりも。私の手の高さに合わせて主人様が削ってくれた、あの手すりが、燃えていた。その周りに、鋼鉄の鎧を着た人間が、何人も立っていた。剣と、盾と、胸に刻まれた国の紋章。傭兵ではない。盗賊でもない。王国の、騎士だった。
見ていられなくて、レンズから目を離した。
主人様の気配が、みのりさんの方を向いた。衣擦れが、小さく揺れて、それに応えた。声は聞こえない。それでも、二人の間で、何かが決まった。主人様が、こちらを向く。
「さゆり、ことは、しおり」
三人の名前を、呼んだ。
「逃げなさい」
優しい声だった。柔らかい声だった。それでいて、震えは、一切なかった。
しおりさんが動いた。ハルバードを抜く。鉄が鳴って、光って、矛に変わる。
「師匠、三人は私が守ります」
子犬の声では、なかった。組手の最後に聞く、あの、殺気の混じった声。けれど、今のしおりさんの声は、あの時よりもっと冷たかった。主人様が「うん」と言った。短かった。それだけで、しおりさんに、任せた。
みのりさんが、私の頭を撫でた。畑で冷えた、冷たい手。今朝と同じ手。けれど、もう、土の匂いはしなかった。
「さゆり、畑の水やりは、朝と夕方。土が乾いてからよ。忘れないでね」
絹の声だった。いつもと、何も変わらない声。畑の話を、今、この人はしていた。私には、その意味が、分からなかった。ただ、頷いた。頷くことしか、できなかった。
主人様が、私の前に膝をついた。大きな手が、頬に触れる。
「勝たなくていいから、帰っておいで」
いつもの言葉だった。組手の前にも狩りの前にも、毎日この言葉で送り出してくれた、あの合言葉。勝たなくていい。逃げていい。ただ、帰っておいで。
けれど、今日の主人様の声は、いつもと違った。
帰る場所は、もう燃えている。それでも、帰っておいで、と主人様は言った。どこへ、とは、言わなかった。私の頬に触れた指が、ほんの少しだけ、震えていた。組手の最中に遠くを聴いて足を止めた、あの日の主人様の気配を、私は思い出していた。主人様は、ずっと前から、この足音に気づいていた。気づいていて、それでも、私達には渡そうとしてくれていた。いつもの朝を、いつもの夕方を、一日でも長く。
言いたいことが、たくさんあった。行かないで、とか。一緒に来て、とか。組手で覚えたはずなのに、自分から口を開くのが、こういう時こそできなくなる。口下手な私の喉は、大事な言葉ほど、外へ通してくれない。姉のくせに。一番、言わなければいけない時に、いつもこうだ。だから私は、主人様の頬に触れた手の温もりだけを、必死で覚えようとした。指の大きさも、掌の熱も、その少しの震えも。忘れない様に。いつかまた会えた時に、ちゃんと、思い出せる様に。
「……はい」
それしか、言えなかった。
ことはが、私の手を掴んだ。小さな手。絵の具でざらついた手。
「お姉ちゃん、行くよ」
震えていない声。背伸びではない、本当の、大人の声だった。チーが走り出す。ことはの指笛が鳴る。南の森へ向かって。
「しおりさん」
呼んだ。声が小さかった。しおりさんの背中に、吸い込まれていく。しおりさんは、振り返らなかった。足音だけが、返ってきた。
「大丈夫。すぐ追いつくから」
嘘だった。心拍が速い。怖くないわけが、なかった。怖いのに、それでも行く、という声だった。背後で、金属がぶつかる音がした。鉄と鉄。剣とハルバード。しおりさんが、一人で、戦っている。私達のために。振り返れなかった。
走った。ことはの手を握ったまま、チーの背に揺られながら。煙の匂いが離れているのに、走っているのに、風に乗って追いかけてくる。まるで焼けた家が私達を呼び戻そうとする様に、まるで忘れるなと叫んでいる様に、まるで最後の匂いを覚えておけと縋りついてくる様に、髪の先まで、まとわりついてくる。
涙が、止まらなかった。頬を伝って、風に攫われていく。それでも、後から後から、溢れてくる。私はことはの手だけを頼りに、まだ主人様の手の温もりが残る頬を煙に晒しながら、燃える家に背を向けた。ただ、南へ、南へと運ばれていった。




