一蓮托生の鬼ごっこ
朝食の後、主人様が言った。
「今日は天気がいいから、外でやろうか」
優しくて、柔らかくて、笑っている声。それなのに、その一言で、しおりさんの心臓が、とん、と跳ねた。ことはが「えー」と間延びした声を上げる。ことはの足元で、チーが鼻先をすり寄せ、きゅっと身を縮めた。私の腰より高いところから、獣の湿った息が下りてくる。外でやる。それだけで、何をやるのかは、分かってしまう。組手だ。主人様との、一度も勝てたことのない、鬼ごっこ。
家の裏の森を十分ほど歩くと、広場がある。しおりさんと主人様が二人がかりで木を伐り開いた、家がすっぽり入るくらいの場所。切り株の松脂の、甘い匂いがまだ残っている。歩きながら、しおりさんが小声で「今日は近間かなあ、遠間かなあ」と呟いていた。ことはが「しおりんが最初に潰されるのに賭ける」と返して、軽く小突かれている。二人の軽口は、これから始まる怖さを覆い隠す、薄い布一枚だった。私はその後ろを、しおりさんの足音だけを頼りに、歩いた。
広場に着くと、主人様が、ゆっくりと真ん中へ歩いていった。力の抜けた足音。普段と、何ひとつ変わらない足音。それが、怖かった。
普段と同じなのに、空気だけが違う。鳥が鳴きやみ、虫の音が遠のいていく。森じゅうの生き物が息をひそめた様に、世界がこの広場だけを切り取って別の場所へ持ち去った様に、時間そのものが足を止めた様に、主人様が中央に立っただけで、森が、しんと黙る。主人様は、どうしてこんなに本気で、私達を鍛えるのだろう。ただの遊びなら、ここまで森を黙らせる必要はない。逃げること、隠れること、生き延びること。それを、どうしてこんなに繰り返し教え込むのだろう。優しい声の奥に、優しさとは別の何かが、いつも一滴だけ滲んでいる気がした。
考えても、答えは出ない。私の頭は、あまり出来がよくないから。
主人様が、こちらを向いた。声の向きが変わって、笑っている。笑っているのに、心臓を大きな掌でそっと掴まれた様な、静かな圧が来る。
「生き残ることが最優先。死んでしまっては意味がないよ」
夢に出るくらい、聞いた言葉。主人様の右足が、一歩、前に出た。
三人が同時に、森へ飛び込んだ。
枝が頬を叩く。葉が腕を引っ掻く。木の根に躓きかけて、手を突いた。爪の間に、湿った土が入る。腐葉土の匂い。木の幹に背中を押し当てて、息を殺す。心臓が速い。自分の汗の匂いが、鼻をつく。恐怖の汗だった。胸元のレンズに触れる。冷たい。レンズの視界を借りると、主人様が、さっき立っていた場所にいない。足音もしない。枝の折れる音もない。いるのに、聞こえない。
左の後方で、木が軋んだ。地面が揺れて、足の裏に振動が伝わってくる。しおりさんの方だ。悲鳴ではない。息を呑む音。避けた。そう言いたいところだけれど。肝心の私はといえば、木の後ろで、ただ震えているだけだった。
ここにいれば捕まる。動けばもっと早く捕まる。動いても動かなくても同じなら、動かない方がまし。いつもの私なら、そう自分に言い聞かせて、そこで固まっていた。そうして毎回、一番はじめに捕まって、みんなの足を引っ張る。ことはに叱られて、俯いて、次もまた同じことを繰り返す。諦めぐせの塊。ことはがいつも言う、その通りだった。
でも、今日は。
レンズの視界を、切り替える。木々の間を抜けてくる主人様の姿。速い。ほんの少し、右へ寄って動いている。しおりさんの位置、ことはとチーの位置、追ってくる主人様の位置。全部が、頭の中で音と光の地図になって繋がっていく。この地図を、いつもの私は、ただ言葉にして二人へ渡すだけだった。右です、左です、と。それは、報告。私にできる、たった一つの仕事。けれど今日は、その地図の中に、主人様の狙いまでが透けた。逆さまに使えないだろうか。
「ことは」
声を落とした。喉が、からからに乾いていた。
「私を、囮にして」
ことはが、一瞬、黙った。
「主人様は、いつも一番弱いところから狙うでしょ。一番遅いのは、私。だから私が、わざと目立つところに出て、主人様を引きつける。来た瞬間に、しおりさんが横から仕掛けて、ことはが退路を塞ぐ。……それで、いけると思う」
言い終えて、心臓が跳ねた。自分からこんなことを言ったのは、初めてだった。位置を伝えるだけでなく、自分をその真ん中に、餌として置く。そんな役目は、私には似合わない。ずっと、そう思ってきた。
「……いいね、それ」
ことはの声が、笑った。
「お姉ちゃんが自分から囮になるなんて、明日は雪が降るかも。しおりん、聞いた?」
「聞いた。やろう」
しおりさんの声が、低くなる。さっきまで軽口を叩いていた声とは、別の声だった。組手の最後にだけ聞く、殺気の混じった声。
私は木の陰から、わざと足音を立てて、開けた場所へ出た。落ち葉を踏む。枝を鳴らす。ここにいます、と体で告げる様に。足が、震えていた。自分を餌にするというのは、思っていたよりずっと、怖いことだった。それでも、退かなかった。退いたら、この作戦は私の口から出た言葉ごと、嘘になってしまう。
主人様の気配が、まっすぐ、私に向いた。来る。レンズの中で、木の間を縫って、主人様がこちらへ。速い。もう、逃げられない距離。
その時だった。
主人様の足が、止まった。
私に手を伸ばすでもなく、しおりさんの伏兵を警戒するでもなく、ただ止まった。気配が、こちらではない方を向いている。森の、ずっと奥。北の、遠い方角へ。何かを、聴いている。組手の最中に、主人様がよそ見をするなんて、一度もなかったことだった。
ほんの一拍。
けれど、その一拍で、しおりさんが横から距離を詰めていた。鉄の棒が矛に変わる音。風が唸る。主人様が、我に返った様に身を翻し、しおりさんの一撃を紙一重で受け流す。金属と柄がぶつかる、重い音。それでも、いつもより、ほんの少しだけ遅かった。
「今日は、一本取られるかと思ったよ」
主人様が笑った。楽しそうな声だった。組手は、そこで終わった。勝てはしなかった。それでも、いつもよりずっと長く、三人で逃げ切れた。
「さゆりが、自分から囮になるって言ったの」
ことはが、胸を張って言った。
「作戦、当たったでしょ」
主人様が、私の頭に、大きな手を乗せた。
「うん。上手になったね」
その手が、温かかった。私は俯いた。俯いた顔が、勝手に緩んでいくのが、自分でも分かる。褒められて嬉しいのに、それを顔に出すのが恥ずかしくて、いつもこうして俯いてしまう。姉のくせに、褒められただけで、こんなに落ち着かなくなる。
帰り道、三人で森を歩いた。夕日の匂いがする。木漏れ日が冷えていく匂い。落ち葉を踏む音が三つ、重なっていた。しおりさんの足音が一番重くて、私の足音が一番軽い。ことはは、チーの背中でいつの間にか眠っていた。絵の具の匂いが、かすかにした。しおりさんが、主人様の鼻歌を歌っている。主人様よりも、もっとずれていた。
その鼻歌の下で、私は耳を澄ませていた。
あの足音が、今日もあった。北の、遠い方角。等間隔で、揃った足音。昨日よりも、少しだけ近い。数えれば、また一つ、増えているのだろう。組手の途中で、主人様が足を止めて聴いていた、あの方角と同じだった。主人様も、聴いていたのだろうか。あの遠い音を。聞こうとして、やめた。数えれば、夕日の匂いも、しおりさんのずれた鼻歌も、ことはの寝息も、遠くへ行ってしまう気がした。私は、まだ頭の上に残る主人様の手の温もりの方へ歩いた。増えていく足音に背を向ける様に、暮れていく森の道を、ゆっくりと家の方へ。




