閉ざされた世界に花束を 2
髪の先に、指を通した。
もう、森の匂いがしない。
昨夜はあんなに強く残っていたのに、今は寝床の匂いしかしなかった。匂いは、一晩でどこかに消えてしまうものだった。
代わりに、パンの匂いが忍び込んできていた。
小麦の焼ける匂い。溶けたバターの、焦げる手前の一番いい匂い。この匂いを寸分違わず嗅ぎ分けて、一番おいしい瞬間にいつも火を止めるのは、主人様だった。
布団を出た体は、もう台所の方を向いていた。食い意地だけは、寝起きでも仕事が早い。
階段を降りると、キッチンの扉の向こうから匂いが流れてきた。燻製の肉の匂いと、脂の弾ける小さな音。お腹が鳴りそうになって、慌てて口を閉じる。
「おはよう、さゆり。今日は久しぶりにいい天気だよ」
優しくて、柔らかくて、笑っている声。フライパンの中で、何かをひっくり返す音がした。主人様だった。
「……おはようございます」
挨拶ひとつ、どうしてこうも上手く言えないのだろう。パンの匂いに背中を押されて、やっとの思いで押し出した声だった。朝の台所の湯気に、すぐ溶けて消えた。主人様が笑ったのが、気配で分かった。呆れたのでも、からかったのでもない。毎朝この小さな声を聞いて、毎朝おはようと返してくれる、いつものあの笑い方だった。姉のくせに、この家で二番目に古株のくせに、と私は掌の中で言葉を握り潰す。
キッチンの横の扉が開いた。土と水、それに朝露の匂いが流れ込んでくる。手籠の中で、採れたての野菜がこつこつと触れ合う音がした。
「おはよう、さゆり」
絹の様な、と言うのだろうか。この声を聞くと、体の力が、するりと抜けていく。土の匂いのする手が、私の髪を撫でた。細くて、冷たい。畑で冷えた手。それでも、その冷たさが、私は好きだった。指先に土の感触が残っていて、髪に触れるたびに、かすかに土の匂いが移る。みのりさんだった。
「よく乾きそうだから、朝ごはんを食べたら、洗濯を手伝ってね」
「はい」
この返事だけは、いつも、ちゃんと言える。
*
朝食のあと、油絵の具の匂いを纏った足音が戻ってきて、私の袖を引いた。
「お姉ちゃん、昨日描いた絵が乾いたよ」
ことはだった。指先には、まだその甘い匂いが残っている。手を引かれて、階段の上に飾られた、乾いたばかりの絵の前に立った。
「これね、みんなの絵。お兄ちゃんと、みのりさんと、しおりんと、私と、お姉ちゃん」
私は、キャンバスの表面に、そっと指を這わせた。乾いた絵の具の、わずかな凹凸。盛り上がった場所、平らな場所。けれど、そこに描かれた「みんな」の顔は、私の指には伝わってこない。ことはの声だけが、そこに誰がいるのかを、一人ずつ教えてくれる。
「お姉ちゃんは、ここ。真ん中で、ちょっと困った顔してる」
困った顔。自分がどんな顔で笑うのか、どんな顔で困るのか。私は一度も見たことがない。鏡を覗いても、そこにいるのは、線の絡まった構造の塊だけ。それでも、ことはが私を真ん中に描いてくれたことだけは、ちゃんと分かった。
庭に出ると、日差しの匂いがした。乾いていく土と、朝露が蒸発していく匂い。その中に、ひとつ、知らない甘さが混じっていた。
「あ、花が咲いてる」
ことはの声が弾んで、洗濯物の籠を抱えたまま、庭の隅へ駆けていく足音が遠ざかった。「わ、ほんとだ。綺麗だねぇ」しおりさんの声も追いかけて、「昨日の雨で開いたのね」とみのりさんの声が続く。三人が、庭の同じ場所を見ている。綺麗、綺麗、と口々に言っている。
私も、花の方へ顔を向けた。匂いは、分かる。甘くて、少しだけ青い、雨の名残を含んだ匂い。虫が一匹、小さな羽音を立てて、その上を横切っていった。目を、開けてみる。細い線が絡まり合って、地面から立ち上がり、途中で幾つにも枝分かれしている。どこまでが花で、どこからが土なのか、切れ目がない。線の塊があるだけで、みんなが「綺麗」と呼んでいるものは、そこになかった。
みんなが見ているものを、私は、見られない。
見たい、と思った。
言わなかった。言ったところで、誰も悪くないのに、みんなの朝を少しだけ重くしてしまう。花の匂いをもう一度だけゆっくり吸い込んで、私は目を閉じた。閉じれば、また音と匂いだけの世界に戻る。そこでなら、私は、迷わずにいられた。
「さゆり、こっちの紐に掛けてくれる?」
みのりさんに言われて、籠から湿った布を取り、テラスの手すりへ手を伸ばす。この家には、至る所に手すりがある。私の手の高さに合わせて、主人様が森から木を切り出した。自分の手で削って、付けてくれた、手作りの手すりだった。手すりが途切れる場所では、私はいつも、少しだけ心細くなる。何も掴めない一瞬、この世界にひとりきりで放り出された様な気がして。乾いた布を紐に掛けながら、私はそっと、手すりの端を撫でた。木目の凹凸まで、指が覚えていた。
しっかりした足音が、庭を横切ってくる。しおりさんだ。
「よーし、私も手伝う!」
力任せに布を絞る音。びしゃ、と水が跳ねる。
「そんなに絞ったら傷むよ」と、みのりさんが笑う。
「えー、乾くの早い方がいいでしょ?」
「しおりちゃんの絞った服、いつもよれよれだよ」
「よれてないもん!」
大きな声が庭いっぱいに響いて、みのりさんが「はいはい、二人とも」と絹の声でまとめた。しおりさんの足音が、私のすぐ隣で止まる。
「さゆりは真面目に掛けてるね。えらいえらい」
布越しに、私の頭をぽんと撫でる手。乾いた、大きな手だった。私はその賑やかさを、干された洗濯物の隙間から聞いていた。この音の中に、自分がまだ混ざっていられるのが、時々うまく信じられなかった。
昼を過ぎて、日差しが少しだけ傾いた頃、主人様が私を呼んだ。
「さゆり、罠を見に行っておいでよ。昨日の雨で、たぶん何もかかってないだろうけどね」
「はい」
私が答えると、主人様は、いつもの言葉で送り出してくれた。
「勝たなくていいから、帰っておいで」
組手の前にも、狩りに出る前にも、主人様はいつも同じ言葉で私達を送り出す。この家の合言葉だった。私はその言葉を胸の内側でもう一度なぞってから、胸元のレンズを服の上から確かめて、森へ向かう小道に足を踏み出した。
森へ向かう道は、足の裏が覚えていた。どこで木の根が盛り上がり、どこで土がぬかるむのか。何度も歩いた道は、迷わない。時々、胸元のレンズを握って、森のあちこちに主人様が仕掛けてくれたレンズの視界を借りる。木漏れ日の角度、揺れる下草、遠くの梢。借りた景色は、いつも水の底から見上げた様に揺れている。それでも、この森の中でだけは、足の届かない遠くのことまで、私に分かった。
罠には、主人様の言った通り、何もかかっていなかった。私は紐の張りを指で確かめ直し、餌を置く位置を昨日より少しだけ奥の、高い方へずらした。雨のあと、獣は水を避けて高いところを回る。誰かに教わったわけではない。何度も空の罠を見て、自分で気づいたことだった。誰かに言われる前に、自分で決めて、自分の手で直した。そのことが、ほんの少しだけ、嬉しかった。
仕掛け直してから、森の入り口まで戻ってきたところで、私は足を止めた。
三日前からだった。同じ刻に、遠くで、聞き覚えのない足音がする。獣ではない。私達の誰でもない。この森の猟師でもない。歩幅も、重さも、いくつ鳴っても寸分変わらない。分かるのはそこまでで、その先は遠すぎて届かない。それでも、確かに、ある。風のいちばん底に、一定の間隔で、それは鳴っていた。
誰かに言おうとして、やめた。私の耳が拾っただけの音。しおりさんにもことはにも届かない、遠い、遠い音。口下手な私が、確かでもないことを口にして、みんなの穏やかな一日を曇らせてしまうのが怖かった。それに、こういう音は、いつも忘れてしまえば消える。今朝の花の匂いと同じで、掴もうとしなければ、風が勝手に運んでいってくれる。
今日も、あの足音がした。耳を澄ませて、数える。一つ。二つ。三つ。四つ。昨日は、三つだった。一昨日は、二つだった。日ごとに、一つずつ、増えている。私は胸元のレンズをそっと握った。増えた分の足音を、風の底へ置き去りにする様に。まだ夕日の匂いのしない午後の光の中を、手すりのある方へ歩き出した。帰っておいでと言ってくれた、あの声の方へ。




