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No Look Jamming〜私は見る事ができない〜  作者: 船木
プロローグ
1/35

閉ざされた世界に花束を 1

 乾いた銃声が、森の中に響いた。


 鳥が一斉に飛び立った。羽ばたきが幾重にも重なって、枝がしなり、葉と葉が擦れ合う音が、森の天井を一息に駆け抜けていく。それから、静寂が落ちてきた。銃声を吸い込んだ後の、水の底に沈められた様な、重たい静寂だった。


 火薬の匂い。焦げた鉄の匂い。その底に、血の匂いが、まだ薄く滲んでいる。薄い。けれど、すぐに濃くなる。もう何度も嗅いだ匂いだから、これから森の底に何が溜まっていくのか、私には手に取る様に分かってしまう。


 さっきまで、男は喋っていた。低い声で、空気を細かく震わせる様に、詠唱をしていた。その声を辿って、距離を測る。十二歩。ほんの少し右。風は左から流れていたから、風上に立てば匂いで気取られる。だから落ち葉を踏まない様に、枝に触れない様に、息を殺して風下へ回り込んで、声が途切れたその一拍の隙間に、引き金を引いた。


 膝から崩れる音がした。手が土を掻く音。湿った土が、こぼれた血を吸い込んでいく、小さな、小さな音。それでも、私の耳は、拾ってしまう。拾いたくないものほど、綺麗に拾ってしまう。


 呻き声が漏れている。声にならない声。喉の奥で何かが詰まって、吐き出せずにいる。吐血混じりの咳。胸を押さえた指の隙間から、温いものが、地面へ、一滴、また一滴と、滴り続けていた。心臓は、まだ動いている。速く、乱れて、それでも、少しずつ、遅くなっていく。


 胸に当たった。心臓は、外れた。だから、まだ生きている。


 左手の中で、銃が少しずつ冷えていく。撃った熱が、鉄からゆっくりと逃げていく。この銃は、私の手には大きすぎる。それでも、引き金にだけは、指がちゃんと届く。グリップに巻いた布が汗で湿って、指の腹には、火薬の粒が、ざらりと残っていた。


 私が放ったこの鉛の弾は、騎士の鎧を打ち抜けない。鋼の上をつるりと滑って、傷を付けるのが精一杯だ。けれど、その柔らかさが、鎧を着ない生身には、とてもよく効く。皮を破り、歪みながら肉を進み、削れて、最後に骨へ当たって砕け散る。破片は臓器の奥に残って、そこから毒が、時間をかけて回っていく。


 狩りには使えない。だって、破片が残るから。

 狩りには使えない。だって、毒を含んでいるから。


 これは、鎧を着ない魔術師のためだけに、主人様が私に持たせてくれた、対人の魔弾だった。当たりさえすればいい。当たれば、相手は痛みに飲まれて、詠唱の一つも紡げなくなる。


 風が吹いた。倒れた体の周りで、落ちた木の実がころころと転がって、腐りかけた甘い匂いが立つ。血の匂いと混ざって、森の底へ溜まっていく。腐った花の様な、その匂い。


 私は、小さな声で、一言「ジャム」と呟いた。


 視界が、荒れた。砂漠の砂嵐に放り込まれた様に、大波に足を掬われた様に、掻き回した絵の具の中へ突き落とされた様に、世界が丸ごと掻き乱される。頭の奥が軋んで、こめかみを内側から押される。目の裏が、じんと熱い。自分の呼吸が遠ざかって、風の音も、虫の音も、水の底へ沈んでいく様に薄れていく。代わりに、別のものが、流れ込んでくる。


 少しずつ、晴れていく。


 死にゆく者の目と、繋がっていく。


 歪んだ視界。霞んだ視界。涙で濡れて、痛みで揺れている。それでも、見えた。彼の目を通して、世界が見えた。木々の緑。土の茶色。木漏れ日の白。私自身の目では一度も捉えたことのない色が、くっきりと、鮮やかに、目の前に広がっている。


 そして、その色の上に、線が走っていた。細い、透明に近い線。幹に沿って伸びる線、地面を這う線、空気の中を漂う線。世界を覆う格子の様に、至る所に、張り巡らされている。男の体にも、線があった。胸の中心から放射状に伸びて、心臓を軸に全身へ広がる、淡い線の束。中心は一つ。拍動は一つ。整っていて、乱れがない。人の体とは、こういう形をしている。


 その線が、傷口の端から、糸を一本ずつ解く様に、空気へ溶け始めていた。


 そして、その目が見つめる先に、私がいた。


 小さな体。水に濡れて木漏れ日で艶めく、真っ黒な髪。大きな目。血の様に赤い瞳。私の体にも線はある。けれど、違った。中心が一つではない。線が多すぎる。絡み合い、捩れ、一つの体に収まりきらない量の線が、蠢いている。人の体は、こういう形をしていない。


 その化け物は、笑っていた。口角を吊り上げて、薄気味悪く微笑んでいた。左手に、不恰好な銃を構えたまま。


 呻き声が、直接、頭の中へ入ってくる。苦しむ声。助けを呼ぶ声。許しを乞う声。その全部を聞きながら、視線の先の悪魔は、堪えきれずに微笑んだ。命の最後に視界を奪われて、何も見えず、何もできず、ただ怯えている、その姿が堪らなく醜くて、悪魔は、笑い続けた。


 醜い。醜い。


 これが、取り繕った奥にいる、本当の私だった。どれだけ優しい人達に囲まれて、家族の一員の様な顔で暮らしていても、鍵をかけて閉じ込めた奥のこいつだけは、いつも、変わらない。人を殺めても、それが良くないことだと、胸のどこも痛まない。子供の皮を被って、非力な少女を装って、その下で笑っている、化け物だった。


 線が、一本ずつ消えていく。色を失い、薄くなり、空気へ溶けていく。視界が、一色ずつ暗くなる。世界がゆっくりと、一秒を刻む。一分にも、一時間にも感じるほど緩やかな、その一秒を。


 最後の線が消えて、静かに、視界が閉じた。


 鉄の出っ張りが、まだ視界の中心に残っていた。その先に、地面へ伏せた、もう動かないものがある。線の残骸が、うっすらと地面に散って、それもすぐに、消えた。


 視界が、その事実から目を背ける様に、ゆっくりと下へ落ちていく。朝露が葉の先から滴り落ちる様に、私は少しずつ、忘れていく。


 何の感情もなく、私はダットサイトから目を外した。


 森が、戻ってきた。風が木々を揺らし、さっき飛び立った鳥が、どこか遠くで鳴いている。虫の音。葉擦れ。水の流れ。銃声が奪っていった静寂を、森が、少しずつ取り戻していく。


 血の匂いが、濃くなっていた。甘くて、鉄くさくて、土に染み込んでいく匂い。森の匂いに血が混じると、独特の匂いになる。腐った花の様な、もう何度も嗅いだ、いつもの匂いだった。


 銃を腰の革袋へ仕舞う。布が擦れる音。金属が触れ合う小さな音。歩き出すと、背中の方で、羽音が集まり始めた。もう動かない体に、虫がたかっていく。


 振り返らなかった。


 森の道を歩く。木の根を跨ぐ。苔の匂いが足元から立ち上る。濡れた土を踏むたびに、靴底に泥が絡んだ。血の匂いが、一歩ごとに薄れて、森の匂いへ上書きされていく。殺した男の名前は知らない。声も、もう思い出せない。最初に殺した相手のことも殺した数も、指の間から零れる砂の様に、とうに抜け落ちていた。


 人を殺しても、私の心臓は、変わらない。速くも、遅くもならず、いつも通りに打っている。変わったことが、一度もない。それが、たまに少しだけ、怖い。怖い、と思える私が、まだ胸のどこかに残っている。


 その時、足音がした。


 遠い。木々の向こう、風のいちばん底。等間隔で、同じ重さの、揃った足音。一つ、二つ、三つ。数えて、四つ目で、やめた。私の足音でも、獣の足音でもない。けれど、遠すぎて、それが何なのかまでは分からない。三日前にも、同じ刻に、同じ音を聞いた。


 これも、忘れていく。いつもの様に。


 血の匂いも醜い笑い声もあの足音も、全部が森の匂いに塗り替えられていく。


   *


 パンの匂いがした。


 小麦が焼ける匂い。溶けたバターの、焦げる手前の一番いい匂い。窓の向こうで、鳥が鳴いている。朝の鳥だった。夜の森の鳥とは違う、明るくて短い、繰り返す声。


 遠くから、鼻歌が聞こえてくる。低くて、柔らかくて、少しだけ音程がずれている。主人様の鼻歌だった。いつも同じところで、ほんの少しだけずれる。そのずれ方が、私は好きだった。


 階段を、誰かが降りてくる。一段ごとに木が軋む、大きくて元気な足音。寝起きなのに元気な足音。しおりさんだった。


 布団の匂い。木の壁の匂い。窓から流れ込む朝の空気は冷たくて、けれど、刺さらない冷たさだった。


 血の匂いはしない。銃の冷たさもない。引き金を引いた指は、もう曲がっていない。掌は乾いている。ここには、パンの匂いと鼻歌と、足音だけがあった。


 さっきまで森の底で笑っていた化け物と、今この布団の中で朝の匂いを吸っている私が、同じ体だなんて。時々、うまく信じられない。信じられないまま、私はそのどちらでもある。たぶん、これからも、ずっと。


 私は手を伸ばして、いつもそこにある手すりの、丸みを帯びた端を探した。指先が、馴染んだ木の温度に触れる。掌にまだ残っている冷たさを、そこへ預ける様に、私はいつもの朝の中を降りていった。パンの匂いと鼻歌と、しおりさんの足音の方へ。髪の先には、まだ夜の森の匂いが残っていた。

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