コード・モールに色は射す 4
誰も、動かなかった。
市場の音が戻ってきた。売り声。荷車。子供の声。さっきまで遠かった音が、全部戻ってきた。シャルがいる間は後ろに下がっていた音が、一気に押し寄せてきた。シャルがいなくなって、世界が元に戻っていた。目を開けていた。まだ開けていた。シャルが曲がった角を見ていた。構造体が動いている。接続の海。シャルはもう、いない。でも目がまだ、さっきシャルがいた場所を、追っていた。構造体が一つ、その前を横切った。赤い光が脈打っている。人間だと分かっている。でも、さっきまでそこに、人が立っていた。人が。構造体じゃなくて。あの一瞬だけ、世界は、みんなが見ている世界の顔をしていた。それが、通り過ぎていく。
「さゆり」
しおりさんの声が静かだった。壁じゃなかった。いつもの声。でも、いつもより少しだけ低かった。
「あの人と、何を話してたの」
答えなければ。でも、何を話していたのか。シャルが自分の世界の話をした。流れの世界。血液と電気と空気の世界。人が人に見えない世界。私と逆で、同じ。どう言えばいい。しおりさんに、この世界をどう説明すればいい。しおりさんは人が人に見える。構造体も流れの塊も知らない。接続の海を歩いたことが、ない。
「……同じ、でした」
それしか、出なかった。
「同じ?」
「同じ……目を、持ってる人、でした」
しおりさんが黙った。考えている。しおりさんの沈黙には、いつも判断がある。何かを決めている時の沈黙。すぐに聞き返さない。すぐに否定しない。
「その人の言うことを、信じてるの?」
「……分かりません。でも、嘘は、なかったです」
しおりさんの呼吸が少しだけ変わった。私が「嘘がない」と言った。音で嘘を聞き分ける私が。声の震え、心臓の速さ、呼吸の乱れ。私が「嘘がない」と言ったら、それはただの感想じゃなかった。しおりさんはそれを、知っている。
「……分かった」
三度目だった。今日、しおりさんが「分かった」と言うのは、三度目だった。一度目は私が動かなかった時。二度目は私の手を離した時。三度目は、私が「嘘がない」と言った、今。一度目は驚き。二度目は受け入れ。三度目は、信頼だった。私の耳を、信じた。しおりさんは全部を受け入れたわけじゃない。シャルを信じたわけじゃない。でも、私を、信じた。それが、足音より確かに、伝わってきた。
「帰ろう」
しおりさんが歩き出した。足音がいつもに戻った。規則正しい。迷いがない。背筋が伸びている。
みいさんが、そっと隣に来た。何も言わなかった。何も聞かなかった。ただ、隣を歩いた。心拍がまだ速かった。怯えが残っている。でも、さっきからずっと、後ろにいてくれた。シャルがいた間も。しおりさんが腕を引いた時も。逃げたかったはずなのに。怖かったはずなのに。みいさんはそういう人だった。怯えているのに、逃げない。言葉が出なくても、いてくれる。
「……ありがとうございます」
小さく言った。何に対してか、自分でも分からなかった。逃げなかったことに。後ろにいてくれたことに。隣に来てくれたことに。全部に。みいさんが「い、いえ」と小さく返した。声が少しだけ震えていた。
ことはがチーの背中で黙っていた。帰り道も、ずっと黙っていた。脳の青い光が、目を開けたら見えるのだろう。忙しく瞬いているのだろう。何か考えている。ことはは、黙っている時、いつも何かを考えている。目は閉じていた。もう、開けなかった。開ける理由が、今はなかった。一番見たいものは、もう角を曲がって、消えてしまったから。
帰り道の路地裏を歩いた。四人の足音と、チーの足音。石畳の上を、五つの足音だけが響いている。いつもの音だった。いつもの距離だった。しおりさんが前。ことはがその前。みいさんが隣。私が真ん中。でも、何かが違っていた。同じ足音なのに。同じ距離なのに。私の中で何かが動いた後の、まだ収まっていない空気が、四人の間を、流れていた。甘い匂いがまだかすかに残っていた。服に。髪に。シャルの匂い。すれ違った構造体の匂いに紛れて、薄くなっていく。でも、覚えている。この匂いを、私の鼻は覚えている。街に入った日にすれ違った時の匂い。今日、目の前に立った時の匂い。同じ匂い。忘れない匂いに、なった。
路地裏の壁に、夕日の影が伸びていた。影の形は、見えなかった。目は閉じているのに、ではなくて、開けても、たぶん見えないものだった。見えるのは、しおりさんの足音と、みいさんの心拍と、ことはの沈黙だけだった。それでも、今日は、少しだけ足りていた。
宿に着いた。日が傾いていた。窓から差し込む西日が、頬に当たって熱かった。日が傾いた時の、あの深い熱だった。
夕飯の時。ことはが口を開いた。ずっと黙っていたことはが、やっと口を開いた。
「ねぇ、お姉ちゃん」
「……なに」
「あのお姉さんのこと。お姉ちゃん、ずっと目を開けてたよね」
心臓が跳ねた。ことはは、見ていた。私の目が開いていたことを。シャルを見ていたことを。ことはの目は普通の目だ。人が人に見える目。その目で、私を見ていた。私が目を開けて、シャルを見ていたことを、ずっと見ていた。
「気のせいかもだけど」
ことはの声は軽かった。でも、軽いままで、止めなかった。
「お姉ちゃんがあんなに誰かをじっと見てたの、初めて見たかも」
返す言葉が、なかった。ことはは、正しかった。じっと見ていた。目を逸らせなかった。閉じられなかった。しおりさんに引かれても、前を向いていた。初めてだった。全部、初めてだった。しおりさんが何も言わなかった。聞いているけど、何も言わなかった。箸を動かす音だけが続いていた。しおりさんはさっき手を離した。私が動かなかった時、手を離した。あの時のしおりさんの呼吸を、まだ覚えている。驚いていた。でも、怒っていなかった。
「チー、くだもの持ってきて」
ことはがそう言って、話を終わらせた。聞きたいことだけ聞いて、重くなる前に切った。ことはは、時々、こういうことをする。空気が沈みかけた時に、何でもない一言で戻す。計算なのか天然なのか、分からない。
夜。宿の部屋。みんな、寝ていた。しおりさんの寝息。規則正しい。軍人の呼吸。今日も変わらない。シャルと会ったことで何かが変わったのか、寝息だけでは分からなかった。ことはの寝息。小さい。たまに寝返りを打つ。チーがことはの足元で丸くなっている。尻尾の花の匂いがかすかにする。みいさんの寝息。不規則。今日は少しだけ速い。まだ残っている。シャルが目の前に立った時の恐怖が、まだ抜けきっていない。窓の外から、遠くの酒場の音がした。笑い声。歌声。この街は夜も、静かにならない。
目を開けた。夜の静けさが、深くなっていた。窓の外の空気が、冷えている。三つの構造体が横たわっていた。心臓の赤い光が、ゆっくり脈打っている。脳の青い光が、夢のリズムで瞬いている。四日前と同じだった。三日前と同じだった。昨日と同じだった。構造体が並んでいる。顔は見えない。表情は見えない。寝顔は、知らない。一ヶ月一緒にいて、毎晩隣で寝ていて、それでも、知らない。
でも。
今日、人を見た。自分の目で。ルックを使わずに。構造体じゃない人を見た。顔があった。目があった。穏やかな目を見た。笑った顔を見た。目が笑っていない顔も見た。首を傾けるのが見えた。手を振るのが見えた。指先が見えた。爪の形が見えた。全部、自分の目で、見た。
シャルも同じだと言った。私だけが人に見えると。流れの塊が歩いているだけの世界で、私だけが人だと。同じ世界にいた。同じ海を歩いていた。見えているものは逆なのに、見えないものだけが、同じだった。同類。シャルがそう言った。同類。その言葉が胸の中に、まだ残っていた。温かいまま。
この目は、壊れていると思っていた。人が人に見えない目。花が花に見えない目。世界が世界に見えない目。だから、閉じていた。見えないなら、閉じている方がいい。音と匂いの方が、ずっと分かるから。閉じていた方が、世界はずっと、優しかった。でも、今日、この目が人を見た。閉じていたら見えなかった。開けたから、開いていたから、見えた。
壊れていたんじゃ、なかった。一度も、走ったことが、なかっただけだった。
目を閉じた。しおりさんの寝息が聞こえた。ことはの寝返りが聞こえた。みいさんの小さな声が聞こえた。
音を聞けば、みんながいる。
目を開ければ、誰もいない。
でも、今日、いた。この街のどこかに。私と同じ目をした人が、たしかに、いた。
甘い匂いを、思い出した。その匂いを胸に抱えたまま、私は、いつもより少しだけ、浅く、目を、閉じた。




