コード・モールに色は射す 3
怖かった。でも、嫌じゃ、なかった。
シャルが目の前にいた。まだ、いた。市場の音が遠かった。売り声。荷車の音。値段を叫ぶ声。全部聞こえているのに、遠い。シャルの前にいると、他の音が全部、後ろに下がっていく。まるで世界が、シャルの周りだけ静かになっている様だった。目が、閉じられなかった。閉じたく、なかった。構造体の海の中で、この人だけが、人だった。髪が風に揺れていた。目がこっちを見ていた。金色の髪。赤い目。色がある。ルックを使っていないのに、色が見える。
「貴女の世界に、私はいるのかな?」
シャルの声が、まだ空気の中にあった。答えなければ。答えたい。いる。初めて、人がいる。言葉が、出なかった。喉の手前で、止まっていた。「いる」の二文字が、出せなかった。
シャルが待っていた。急かしていなかった。穏やかな目だった。穏やかなのが、見えた。目の形が変わっていないのに、穏やかだと分かった。自分の目で、目の前の人の表情を、読んでいた。生まれて初めてだった。今まで、人の表情は、音で読んでいた。声の震えで怒りを知った。息の詰まりで恐怖を知った。でも、シャルの穏やかさは、音じゃなかった。目で見て、分かった。目が細くなる角度。口元のわずかな緩み。
「答えなくていいよ」
シャルが言った。軽かった。でも、優しかった。
「顔見れば分かるもん」
分かった。シャルには、分かった。私の目が、シャルを見ている。逸らせない。閉じられない。それが答えだと、シャルは、顔を見て、分かっている。誰かに顔を読まれたことが、なかった。音でもなく、匂いでもなく、顔で。私はいつも、音と匂いで、他人を読んでいた。でも、自分が読まれる側になったことが、なかった。自分の顔が誰かにどう映っているか、考えたことも、なかった。映る顔を、持っていないと思っていた。私の顔は、他人の借りた目の中でしか、存在しなかった。それなのに、シャルには、映っている。私の顔が。私の表情が。
後ろで、みいさんが息を飲んだ。小さく。まだ怯えている。でも、逃げていなかった。さっきからずっと、後ろにいてくれている。
間があった。シャルが視線を外した。市場の方を見ていた。構造体が動いている。接続の海。いつもの風景。シャルは今、何を見ているのだろう。あの構造体の群れが、シャルにはどう映っているのだろう。私と同じ様に人が人に見えないなら、あの海は、シャルにとっても。
「ねぇ。一個だけ教えてあげる」
シャルの目が戻ってきた。私を見た。真っ直ぐに。
「私の世界もね、ろくなもんじゃないの」
軽い声だった。でも、匂いが変わった。甘い匂いの中に、冷たいものが混ざった。ほんの少しだけ。高い場所の匂い。乾いた空気の匂い。シャルの匂いの中にある、もう一つの匂い。
「血が流れてるのとか。神経の電気がぴりぴりしてるのとか。空気の筋が動いてるのとか。そういうのばっかり」
流れ。私の世界は、構造だった。接続。骨格。同期。止まっているもの。固まっているもの。骨と筋と臓器が繋がって、一つの形を作っている。動かない設計図の上に、心臓の赤と脳の青が、乗っている。シャルの世界は、流れだった。血液。電気。空気。動き続けているもの。止まらないもの。全部が流れている。全部が動いている。逆だった。見えているものが、全部、逆だった。私は止まっているものを見ている。シャルは動いているものを見ている。それなのに。
「人がさ、人に見えないんだよね」
心臓が跳ねた。同じだった。私がずっと思っていたことを、一度も言葉にできなかったことを、シャルが、軽い声で、言った。人が人に見えない。私の中でずっと閉じ込めていた言葉を、シャルは息をする様に、口にした。
「流れの塊が歩いてるだけ。顔とか、表情とか、さっぱり」
シャルが笑った。笑ったのが見えた。でも、さっきの笑い方と違った。口の端は上がっている。でも、目が笑っていなかった。笑っていないのが、見えた。自分の目で、笑顔の奥を見た。初めて見た。人の笑顔の奥にあるものを、自分の目で見た。ルックで借りた目では、見えなかったもの。他人の目を通すと、笑顔は笑顔のまま、完結する。でも、自分の目で見ると、奥が見えた。笑っているのに、笑っていない。その矛盾が、見えた。この人も、たくさん、笑ってきたのだろう。笑っていない目で。
「でもね」
シャルの声が変わった。軽さは同じ。でも、温度が乗った。冷たさが消えた。甘い匂いだけが、残った。
「あなただけ、人に見えるの」
息が止まった。同じだった。全部、同じだった。私の目にシャルだけが人に見える様に、シャルの目にも、私だけが人に見えている。同類。さっきの言葉の意味が、今、全部繋がった。同じ欠落。同じ孤独。同じものが見えなくて、同じものだけが見えている。見えている世界は逆なのに、見えないものだけが、同じだった。
ことはが黙っていた。チーの背中で、ずっと黙っていた。ことはが黙っている時間は、珍しかった。いつもなら何か言う。場を軽くする一言を入れる。でも今は、黙っていた。しおりさんの呼吸が、微かに乱れた。シャルの話を聞いている。「人が人に見えない」という言葉を、しおりさんも聞いた。私がずっと抱えていたものの正体を、今初めて、聞いた。
口が開いた。いつ開けたのか、分からなかった。目と同じだった。考える前に、身体が動いていた。
「……私も」
声が出た。小さかった。かすれていた。自分の声がこんなに小さいと、思わなかった。
「私も、シャルさんだけ……」
止まった。続きが、出てこなかった。「人に見えます」。それだけで、いい。六文字。でも、喉で詰まった。いつも、そうだった。言いたいことがあるのに、言葉が足りない。言葉が追いつかない。口が追いつかない。でも、口を開けた。自分から、開けた。初対面の相手に。名前を聞いてから、まだ何分も経っていない人に。自分から。それが、どれだけ普通じゃないことか。しおりさんに話しかけるのにも、最初は何日もかかった。ことはにだって、自分からはほとんど話しかけられない。みいさんとは、今でも言葉が足りない同士で、黙っていることの方が多い。
シャルが目を細めた。細めたのが、見えた。さっきの穏やかさとも、笑顔とも違った。何と呼べばいいのか分からない表情だった。でも、嫌な表情じゃ、なかった。
「……うん」
シャルが頷いた。小さく。それだけだった。私が何を言おうとしたか、全部言わなくても。途中で止まっても。シャルは聞き返さなかった。もう一度言ってとも、言わなかった。頷いた。それだけで。
腕を引かれた。しおりさんの手だった。私の左腕を掴んでいた。強くはない。でも、確かに引いていた。
「さゆり、行くよ」
低い声。壁の声。しおりさんはまだ、警戒を解いていなかった。シャルが何を言っても、何を見せても、しおりさんにとっては、まだ得体の知れない相手だった。
足が、動かなかった。しおりさんが引いている。いつもなら、すぐについていく。しおりさんの足音を追うのが、私の歩き方だった。一ヶ月、ずっとそうだった。しおりさんが歩けば歩く。しおりさんが止まれば止まる。しおりさんが行こうと言えば、行く。動かなかった。目がシャルから離れなかった。前を向いていた。引かれているのに、前を向いていた。生まれて初めて見つけた、私と同じ人を、まだ、見ていたかった。
しおりさんの手が、止まった。引く力が消えた。呼吸が変わった。さっきの戦う気配じゃなかった。驚いていた。私が動かないことに。私が、しおりさんに逆らったことに。手が、離れた。
「……分かった」
小さい声だった。壁が少しだけ、下がった。私が自分の意思で止まったのは、初めてだった。しおりさんはそれを分かっている。一ヶ月、隣にいたから。一度もなかった。しおりさんに引かれて動かなかったことは、一度も。ごめんなさい、と思った。でも、動けなかった。
シャルが見ていた。全部。しおりさんが引いたことも。私が動かなかったことも。しおりさんが手を離したことも。
「いいお姉さんだね」
軽い声だった。でも「こわ〜いお姉さん」の時とは違った。本当にそう思っている声だった。シャルが一歩下がった。もう一歩。匂いが少し遠くなった。でも、姿は変わらなかった。鮮明なまま。二歩下がっても、三歩下がっても、鮮明だった。
「またね」
シャルが手を振った。振ったのが見えた。軽い動作。力が入っていない。風の様だった。指先まで見えた。爪の形まで見えた。こんなに細かいものが、自分の目で見えている。背を向けた。歩き出した。軽い足音。地面を蹴らない。置く様に歩く。構造体の海の中を、シャルだけが人のまま、歩いていた。遠ざかっていく。小さくなっていく。でも、鮮明だった。構造体の群れの中で、一人だけ、ずっと人のまま。構造体にぶつからずに歩いている。構造体たちも、シャルにぶつからずに動いている。同じ海の中にいるのに、シャルだけが違うものとして、見えている。角を曲がった。見えなくなった。
人がいた場所に、構造体が通り過ぎていく。接続の海。いつもの風景に戻っていく。甘い匂いがかすかに残っていた。風の匂い。高い場所の匂い。少しずつ、市場の匂いに溶けていく。薄くなっていく。私は、その匂いが完全に消えるまで、そこに立っていた。
市場の音が、少しずつ戻ってきた。売り声。荷車の音。さっきまで遠かった音が、また近くにあった。




