コード・モールに色は射す 2
四日目の昼。市場を歩いていた。
目を開けていた。また、開けていた。この街に来てから、何度も、何度も、開けている。人が多い場所を歩くと、見たくなる。こんなにたくさんの構造体が、動いている。この中の一人くらい。いなかった。いつも通り。接続の海。構造体の群れ。目を閉じた。しおりさんの足音を、追った。
しおりさんが立ち止まった。情報屋のところだった。三日目から、毎日通っている。主人様の手がかりを、探している。
「何かあった?」
「……いや、まだだね」
しおりさんの声が、平らだった。平らに、していた。落胆を、消している。いつも、そうだった。しおりさんは、落胆を、人に見せない。
「焦ってもしょうがないし。もうちょっと、待ってみよう」
みいさんが何か言おうとした。息を吸う音がした。でも、言葉が出ないまま、吐いた。みいさんはそういう時、黙る。言いたいことがあるのに、言葉が追いつかない。私と、似ていた。ことはがチーの背中から「しおりん、お腹空いた」と言った。
「さっき食べたでしょ」
「さっきはさっき。今は今」
しおりさんが笑った。空気が少しだけ、軽くなった。ことはは、時々、こういうタイミングで声を出す。計算なのか、天然なのか、分からない。たぶん、両方だった。
市場の通りに戻った。匂いが、来た。
甘い匂い。花でも、香水でもない。嗅いだことが、ある匂い。どこで。街に入った日だった。誰かとすれ違った時に、一瞬だけ引っかかった、あの匂い。同じ匂い。今日は、一瞬じゃなかった。近づいてくる。匂いの中に、何かがあった。甘さの奥に、乾いた空気の匂い。高い場所の匂い。地面から離れた場所の匂い。嗅いだことがない種類の、匂いだった。
「ねぇ」
声がした。しおりさんの前で。しおりさんが立ち止まった。
「あなたが噂の、力自慢のお姉さん?」
声が軽かった。柔らかかった。でも、しおりさんの明るさとは、違った。しおりさんの声には、意思がある。この人の声には、風がある。力が入っていない。どこにも。声の出し方が、違った。喉の使い方が、街の人たちと違う。息の量が多い。でも、声は小さい。大きな声を出す必要がない人の、喋り方だった。聞かせたい相手にだけ届けばいい、という、声。
「……誰?」
しおりさんの声が低くなった。肩の気配が、変わった。
「ごめんね、いきなり。私、この街で傭兵やってるの。シャルっていうんだけど」
傭兵。しおりさんの足の重心が、微かに動いた。前に。半歩にも満たない。でも、分かった。しおりさんは、相手との距離を、測っている。
「噂聞いてさ。腕相撲で全勝したお姉さんがいるって。すごいなって思って。うちの団、人手足りなくてね。もしよかったら、一緒にどうかなって」
「断るよ」
速かった。
「えー、もう? 話くらい聞いてくれたっていいのに」
「私たちは旅の途中なの。どこかに所属する気は、ないよ」
「条件いいよ? ご飯付き。寝る場所も。お風呂もきれいだし」
「貴女と話すことは、ないよ」
しおりさんの声から、明るさが消えた。柔らかいけど、動かない。壁だった。しおりさんが壁になる時の、声。みいさんが私の後ろで、息を止めた。しおりさんがこの声を出す時、みいさんはいつも、固まる。森の中で何度か聞いた。しおりさんが本気で、誰かを拒む時の、声。
「えー、残念」
残念そうじゃなかった。声に、落胆がなかった。最初からこうなると分かっていた様な、軽い声。しおりさんが壁を出したのに、この人は、揺れなかった。声の拍子が、変わらなかった。心臓の音も、呼吸の音も。何も、変わらなかった。
甘い匂いが、動いた。しおりさんの前から、こっちに来た。足音が近づいてくる。軽い足音。地面を蹴っていない。置いている。足を地面に置く様に歩く人。私の前に、立った。
「でも」
匂いが近い。甘い。でも、甘いだけじゃない。何かが混ざっている。風の匂い。高い場所の空気の匂い。空の匂い。声が重なった。匂いが重なった。甘い匂いと風の匂いが、私の中で、何かに触れて。
「そこの貴女には、私と話してみたいこと、あるんじゃない?」
私に、言っている。
目が、開いていた。いつ開けたのか、分からない。閉じていたはずだった。自分で開けた覚えが、ない。匂いを嗅いで、声を聞いて、気づいた時には、開いていた。接続の海。いつも通り。構造体が動いている。しおりさんの構造体が左にいる。みいさんの構造体が後ろにいる。
目の前に。人が、いた。
人が、立っていた。構造体じゃ、なかった。顔があった。目があった。口があった。髪が風に揺れていた。接続の海の中で、一人だけ、鮮明に人間が立っていた。色があった。髪の色。肌の色。目の色。ルックを使っていないのに、色が見えた。構造の色じゃない。心臓の赤でも、脳の青でもない。人の、色。しおりさんより鮮明だった。ことはより。みいさんより。今まで見た誰よりも。
初めてだった。自分の目で、人を見たのは。
生まれてこの方、私の目には、誰も、人として映らなかった。主人様も、みのりさんも、しおりさんも、ことはも、家族の顔を、私は、一度も見たことがない。他人の目を借りた時だけ、世界に色がついて、人に顔がついた。それが、私の「見る」の、全部だった。それなのに、今、目の前に、借り物じゃない色をした人間が、一人、立っている。
「……あ」
声が漏れた。声にならない声。目が動いた。逸らせなかった。目を閉じようとした。閉じられなかった。見ていたかった。この人を、見ていたかった。もっと、もっと、見ていたかった。
シャルが笑った。笑ったのが、見えた。目が細くなったのが、見えた。口の端が上がったのが、見えた。
見えた。
「やっぱりね」
シャルが言った。優しい声だった。さっきしおりさんに話しかけていた時の軽さとは、少しだけ違った。軽いけど、柔らかさが、増していた。
「私、見えちゃうんだ。不思議なものが見えちゃうの。特に、化物じみた、おかしなものとかね」
化物じみた。私のことだ。普通の人には見えないものが見える。普通の人が見ているものが、見えない。それは、化物と、何が違うのか。ずっと、そう思ってきた。あの森で、他人の視界の中に自分を見るたびに、そこにいたのは、赤い瞳の、笑う化物だった。この人は、私を、化物じみた、と言った。それなのに、その声には、少しも私を恐れる響きがなかった。
「あんまりかしこまらないでよ。私もあなたも、同類みたいだし」
同類。その言葉が、胸のどこかに、落ちた。同類。同じ種類。同じ側。誰にも、言われたことが、なかった。しおりさんも、ことはも、みいさんも、私の目のことを、知っている。優しくしてくれる。守ってくれる。でも「同じ」とは、言わなかった。言えなかった。同じじゃ、ないから。みんなには、世界が、ちゃんと見えているから。この人は、同じだと、言った。
「あなたには、何が見えてるの……?」
聞いてきた。答えようとした。口が開いた。言葉を探した。接続。構造体。色のない世界。人が人に見えない。でも、どの言葉も、違った。どれも、足りなかった。いつも、そうだった。見えているものを、言葉にできない。喉の奥で、言葉が、渋滞する。
「なんて、得体の知れない奴に、手の内なんて晒さないでしょ?」
自分で、潰した。答えを、待たなかった。聞いておいて、答えを要求しなかった。口下手が言葉を探している間を、この人は、潰してくれた。優しさなのか。計算なのか。分からなかった。ただ、答えられずに固まる私を、恥をかかせないまま、そっと逃がしてくれた。それだけは、分かった。
「こわ〜いお姉さんが、そっちで睨んでるのも見えてるし」
しおりさんのことだ。呼吸が変わっていた。戦う時の気配だった。
「怯えてるのに警戒してるお姉さんも」
みいさんのことだ。小さくなっていた。でも、逃げていなかった。腰に手が伸びかけている。怯えているのに、構えている。
「全部見えてるよ」
シャルの声が軽かった。嘘がなかった。脅しでも、なかった。ただ見えているものを、言っているだけだった。しおりさんが警戒していることも。みいさんが怯えていることも。全部、見えている。私が音と匂いで世界を読む様に、この人は、目で全部を読んでいる。私とは、逆だった。私は、人の顔だけが見えない。この人は、たぶん、人の顔だけが、見えている。
「まぁ、今までのは、ただの挨拶」
シャルが一歩下がった。匂いが少し遠くなった。でも、シャルの姿は、変わらなかった。一歩下がっても、鮮明だった。構造体の海の中で、一人だけ、ずっと、人のまま。近づいても、離れても、この人だけが、消えない。
「ねぇ」
シャルが言った。
「貴女の世界に、私はいるのかな?」




