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No Look Jamming〜私は見る事ができない〜  作者: 船木
3534丁目のバーに足を向けろ
32/36

コード・モールに色は射す 1

 街で暮らす様になって、三日が経った。


 朝は、鐘の音で始まる。教会の鐘。低くて重い音が、街を渡っていく。それが終わると、扉が開く音。足音。荷車が石畳を転がる音。売り声。どこかで犬が吠えて、どこかで子供が叫んでいる。匂いが、重なっている。焼きたてのパンと、煙と、人の匂い。森と、違った。森は、静かだった。虫と、風と、木と、時々、動物の声。ヴェーブルクは、止まらない。朝から夜まで、音が、途切れない。目を閉じていれば、街は、よく分かった。目を開けると、分からなくなる。


 でも、開けてみたく、なる。人が多いから。こんなにたくさんの人の中を歩くのは、初めてだった。森にいた一ヶ月、すれ違う人は、ほとんどいなかった。リンデンフォードでさえ、人の数は、片手で足りた。ここは、違う。足音だけで、数えきれない。


 目を開けた。接続が見える。いつも通り。でも、ヴェーブルクの接続は、森と全然違った。密度が、違う。人が多い。物が多い。接続の線が、重なって、重なって、まるで海の様になっている。前より、見える様になっていた。海の中で、何かが動いている。たくさん。骨格の繋がり。筋肉の流れ。心臓から出ている赤い流れ。脳から出ている青い光。魔力の白い筋。全部が一つの形を作って、動いている。人だった。人の、はずだった。でも、人には、見えなかった。動いている、構造体。骨と、筋と、臓器の接続が、形を作って、歩いている。それが人間だと、頭では、分かっている。足音で分かる。声で分かる。匂いで分かる。でも、目で見ると、人じゃ、ない。目を閉じた。市場の方から、焼き栗の匂いがした。


   *


 しおりさんが「買い物行こう」と言った。四人で市場に出た。ことはがチーに乗って先に走っていった。みいさんがしおりさんの後ろを歩いている。私は目を閉じて歩いた。しおりさんの足音を追っていれば、迷わない。石畳の継ぎ目を、しおりさんの靴が叩く音。規則正しい。迷いがない。この街に来てから、しおりさんの足取りは、森の中と全然違った。背筋が伸びている。肩が開いている。街は、しおりさんの、場所だった。


 「しおりさん、主人様の手がかり」


 「まだないね。情報屋にも当たってるんだけど」


 しおりさんの声が、少しだけ曇った。一瞬だけ。すぐに戻った。


 「焦らないよ。この街は大きいから。きっと、何か出てくる」


 みいさんが頷く音がした。小さく。


 「あ、あっちに干し肉です。あれ」


 「買う?」


 「い、いえ。見てただけです」


 「買おうよ。旅用に持っておいて、損はないし」


 しおりさんが迷わず店に寄った。みいさんが小さくついていく。みいさんは、自分から「買いたい」とは、言えない。でも、しおりさんはそれを分かっていて、聞く前に、動く。一ヶ月の旅で出来上がった、二人の距離だった。


 市場は、音の嵐だった。売り声。値段交渉。鍋が鳴る。布がはためく。動物。子供。匂いが全部ぶつかり合って、一つの大きな塊になっている。目を開けた。見たかった。こんなにたくさんの人が、何をしているのか。構造体が動いていた。たくさんの構造体が、ぶつからずに、動いていた。心臓の赤い光が歩いている。脳の青い光が立ち止まっている。声を出している構造体がある。笑っている。たぶん、笑っている。口元の筋肉が、動いているから。でも、笑顔は、見えなかった。


 二つの構造体が、向かい合っていた。小さい方が、大きい方に、手を伸ばしている。大きい方がそれを掴んで、持ち上げた。子供を抱き上げたのだろう。声が聞こえた。笑い声。でも、私の目には、構造体が構造体を持ち上げているだけだった。目を閉じた。笑い声だけが、残った。あんなに幸せそうな笑い声なのに、それがどんな笑顔なのか、私には見えない。


 立ち止まった。老人の声が聞こえた。店先で誰かに話している。


 「猫がいなくなったんだ。三日前から。灰色の。ミュルっていうんだけど」


 猫探し。


 「……私、できます」


 声に出していた。口下手の口が、探し物の時だけ、動く。しおりさんが振り返った。声が柔らかくなっていた。


 「さゆり、お願いね」


 ルックを使った。老人の視界を、借りた。


 世界が、変わった。


 色が、あった。野菜の緑、果物の赤と黄色、空の青、石畳の灰色、建物の壁の白、屋根の茶色、人の肌の色、服の色。全部が、いっぺんに流れ込んできた。人の顔が、見えた。売り子のおじさんが笑っている。女の人が子供の手を引いている。男の人が荷物を運んでいる。みんな、顔がある。目があって、鼻があって、口があって、表情がある。さっきの親子が見えた。母親が子供を抱いていた。子供が笑っていた。歯が見えた。頬が丸かった。当たり前の、笑顔だった。さっき、構造体が構造体を持ち上げていたのは、これだった。当たり前の世界だった。みんなが毎日、見ている世界。花が花に見えて、人が人に見える、世界。綺麗だった。


 これが、見たかった。ずっと、見たかった。他人の目を借りなければ、この世界の色を、私は一秒だって見られない。借りた視界の中で、私は、いつも、迷子になる。こんなに綺麗な世界に、私だけが、入れてもらえない。


 猫を探した。老人の記憶の中にある、灰色の猫。接続を辿った。路地裏。木箱の下。丸くなって寝ている。温かい場所を見つけて、動かなくなっている。


 「……路地裏の、木箱の下に。寝てます」


 ルックを切った。接続の海に戻った。色は、ある。心臓の赤。脳の青。魔力の白。でもそれは、花の赤じゃない。空の青じゃない。構造の、色。さっきの親子が、まだ近くにいた。笑い声が聞こえた。でも、目で見ると、構造体が二つ、並んでいるだけだった。さっき見えた笑顔は、もう、なかった。老人が走っていった。路地裏に。しばらくして戻ってきた。腕に、あの猫を抱えていた。声が震えていた。


 「ありがとう。ありがとうよ」


 小さな礼をもらった。


 「さゆりさん、すごいです」


 みいさんが言った。


 「お姉ちゃん、探し物だけは早いよね」


 ことはが言った。だけは、が、少しだけ、引っかかった。でも、ことはに悪気はない。事実だから。私にできるのは、探し物だけ。


   *


 帰り道。路地裏を歩いた。人の声が遠くなった。足音が少なくなった。石畳の上を、四人の足音とチーの足音だけが、響いている。ことはがチーの背中で何かを食べていた。市場で買った焼き栗。殻を剥く音がした。


 「お姉ちゃん、食べる?」


 「……いい」


 「しおりん、食べる?」


 「もらう」


 しおりさんがことはの手から栗を受け取った。


 「みいさんも食べる?」


 「え、い、いいんですか」


 「いいよ。たくさんあるし」


 みいさんが小さな声で「ありがとう、ございます」と言った。ことはが「どういたしまして」と言った。大人みたいな言い方だった。焼き栗の匂いがした。甘い匂い。四人の足音の間を、その匂いが、埋めていた。


 目を開けた。何度目か、分からない。この街に来てから、何度も、開けている。人が多い場所を歩くと、開けてしまう。見たくなる。たくさんの人がいるなら、一人くらい、人に見えるかもしれない。そんな、叶わないことを、つい、期待してしまう。見えなかった。隣を歩いているしおりさん。構造体。心臓の赤い光が脈打っている。歩幅が広い。姿勢がいい。軍人の骨格。その前を歩いているのが、ことは。小さい構造体。チーの背中で揺れている。脳の青い光が忙しく瞬いている。何か考えている。いつも、何か考えている。後ろを歩いているのが、みいさん。少し離れている。いつも、少し離れている。心臓の赤い光が速い。人の多い場所に来ると、みいさんの心拍は、速くなる。三人とも、構造体だった。私の、目では。目を閉じた。しおりさんの足音が聞こえた。規則正しい。安心する足音。音で聞けば、しおりさんだった。


   *


 夜。宿の部屋。みんな、寝ていた。しおりさんの寝息。規則正しい。軍人の呼吸。ことはの寝息。小さい。たまに寝返りを打つ。毛布を蹴る音。チーがことはの足元で丸くなっている。尻尾の花の匂いが、かすかにする。新しい花。ヴェーブルクで買い替えた花。みいさんの寝息。不規則。夢を見ている。時々「ん……」と小さく声が漏れる。三人の呼吸が、重なっている。重なって、部屋の空気を、作っている。窓の外から、まだ音が聞こえた。遠くの酒場の音。酔った人の笑い声。この街は、夜も静かにならない。


 目を開けた。夜の空気が、冷たかった。深夜の静けさが、部屋に満ちている。三つの構造体が、横たわっている。心臓の赤い光が、ゆっくり脈打っている。脳の青い光が、夢のリズムで瞬いている。しおりさんだと、分かっている。隣はことはだと、分かっている。その隣はみいさんだと、分かっている。音で分かっている。匂いで分かっている。寝息の深さで、誰がどこにいるか、分かっている。でも、目では、分からなかった。構造体が並んでいる。それだけ。顔が見えない。表情が見えない。寝顔が見えない。しおりさんがどんな顔で寝ているのか、知らない。ことはが寝ている時にどんな顔をしているのか、見たことがない。みいさんが夢を見ている時の表情を、私は、知らない。一ヶ月、一緒にいた。毎晩、隣で寝ていた。それでも、知らない。


 目を閉じた。しおりさんの寝息が聞こえた。ことはの寝返りが聞こえた。みいさんの小さな声が聞こえた。三つの寝息が、暗い部屋の中で、静かに、重なっている。私はその三つの音を、一つずつ指の先で確かめる様に、そっと数えた。この音があれば、みんながここにいると、分かる。それで、いい。それで、いいはずだった。私は、三つの寝息を毛布代わりにして、夜の底のように静まり返った中で、ゆっくりと、目を、閉じ続けていた。

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