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No Look Jamming〜私は見る事ができない〜  作者: 船木
3534丁目のバーに足を向けろ
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ルームトーンに夢を見て 1

 翌朝だった。宿を出た時、空気が違っていた。


 いつもの朝の匂い。石畳の冷たさ。焼きたてのパンの匂い。馬の蹄。荷車の軋み。全部同じはずだった。でも、何かが混じっていた。木の匂い。新しい木材の匂い。削ったばかりの板。遠くで釘を打つ音が響いている。街のどこかで何かを組み立てている。昨日はなかった音だった。


 「なんか作ってるね」


 しおりさんが前を歩きながら言った。いつもの足音。いつもの声。昨日のことを引きずっていない様に聞こえた。でも、しおりさんは、引きずっていることを声に出さない人だった。


 「お祭り、かな」


 ことはがチーの背中で首を傾げた。匂いを嗅いでいる。ことはも匂いで考える子だった。


 「木の匂い、屋台っぽい。たぶん大きいやつ」


 街は動いていた。いつもより人が多かった。足音が多かった。声が多かった。何かに向かって準備している街の、空気。市場に着いた時だった。甘い匂い。昨日と同じ。花みたいに甘くて、花じゃない。蜜の様に纏わりつく匂い。体が覚えていた。頭より先に体が反応した。心臓が一拍だけ、跳ねた。


 「やっほー」


 軽い声。石畳を撫でる様な足音。正面から。隠れる気がない。昨日の人だった。


 「昨日さ、話そびれちゃったことがあって」


 昨日、しおりさんが「帰ろう」と言って、私たちの方が先に離れた。なのに翌朝、向こうから来ている。しおりさんの足音が止まった。体が半歩前に出た。私とあの人の間に、入る。


 「おはよう、くらいは言ったほうがいいんじゃない?」


 しおりさんの声。軽い。でも「おはよう」の音が、尖っていた。


 「あはは、おはよ。しおちゃん今日も元気だね」


 しおちゃん。しおりさんの息が一瞬止まった。呼ばれ慣れていない音だった。


 「ねぇ、ちょっと来てほしいところがあるの。近くのお店。うちの相棒もいるから、紹介したいなって」


 声が変わらない。軽いまま。同じ温度で、中身だけが違った。ことはがチーの背中で姿勢を変えた。考え始めている。


 「……行ってみない?」


 ことはが言った。小さい声。でも迷っていない声だった。しおりさんが少しだけ黙った。それから。


 「さゆりは?」


 聞かれた。しおりさんは時々こうする。自分で決められるのに、私に聞く。


 「……行きたい、です」


 声が小さかった。でも、出た。昨日の夜を思い出していた。目を開けて見た暗闇。三つの構造体。顔が見えない仲間。あの目で、あの人だけが人に見えた。理由が分からない。


 「よし」


 しおりさんが歩き出した。


   *


 市場から三本路地を入ったところに、その店はあった。木の看板が風に揺れている。軋む音。古い木。使い込まれた匂い。看板の文字は見えないけれど、その下を通る時、油と炭と香辛料の匂いが降ってきた。扉が開いた。匂いが押し寄せてきた。


 重い匂いが最初に来た。土。石。鉄。汗を拭いた革。使い込まれた武器の匂い。何年もかけて体に染み付いた匂い。しおりさんの匂いに似ていた。訓練された体の匂い。でも、もっと重かった。もっと古かった。もっと深かった。奥のテーブルの方から漂っている。その下に、甘い匂いが染み付いていた。昨日の人の匂い。この店に長くいることが、匂いで分かった。そして、もう一つ。知らない匂いだった。香水。鉄。汗。石鹸。全部が混じって、どれとも違う匂いになっている。甘くもない。重くもない。大きい匂い。匂い自体が大きいとしか言いようがなかった。


 客が何人かいた。昼前の時間帯。声が低い。笑い声が混じっている。でも、怒鳴り声も混じっている。誰も驚かない。喧嘩にならない怒鳴り合いができる場所。怒鳴っても殺されない信頼がある場所だった。椅子の軋みで体重が分かる。煙草の匂いが服と声に染み付いた人が二人。右奥の二人組、心拍が遅い。この店に長くいる人間の心拍だった。居場所がある人間の体は、ゆっくりしている。ここにいていい、と知っている人間の空気が、場全体に満ちていた。私の知らない種類の空気だった。誰も、ここにいることを、誰かに許されようとしていない。


 奥のカウンターから、声が降ってきた。


 「あら」


 低い声。でも柔らかかった。地面から這い上がる様な低さなのに、角がない。壁に反射する前に体に届く声だった。


 「この子たちが?」


 足音。重い。床板が一歩ごとに軋んだ。隠す必要がない重さ。大きいことを、何とも思っていない足音だった。近づいてきた。空気が動いた。体の前の空気が押されている。大きい。奥にいるもう一人よりさらに大きかった。声が降ってくる角度が、しおりさんの頭二つ分くらい上にある。心臓の音が聞こえた。遅い。深い。安定している。奥のテーブルにいる人の心臓よりもっとゆったりしていた。世界がどう動いても、この心拍は変わらないだろうと思った。


 みいさんが、動かなかった。後ろに下がらなかった。息を詰めなかった。大きいのに。こんなに大きいのに。チーが「ワフ」と鳴いた。短い。足元に寄っていく。尻尾が揺れている。チーは人を選ぶ。嫌いな人には近づかない。ことはがそう言っていた。そのチーが、寄っていく。


 「ママ。この子たちを連れてきたの」


 昨日の人の声。軽い。でも「ママ」と呼ぶ時の声に、いつもと違う音が混じっていた。甘えの、ほんの少し。


 ママ。


 「ふぅん。小さいのが四人と、可愛い子が一匹ね」


 ママの声が私たちに向いた。


 「あんたたちが手伝ってくれるの?」


 値踏みではなかった。確認だった。


 「シャルロット、ちゃんと紹介しなさいよ、あんた」


 ママの声が少しだけ変わった。叱っている声だった。でも、怒りではなかった。呆れの方が近い。


 「あはは。ごめんごめん」


 昨日の人が頭を掻いた。爪が髪を掻く小さな音。シャルロット。それが、この人の名前だった。


 「私はシャルロット、長いからシャルって呼んでね! あっちにいるのがえんや、私の相棒!」


 奥のテーブルから、椅子が軋んだ。もう一つの心臓の音が近づいてきた。遅い。深い。一拍一拍がしっかりしている。ママより速い。でも訓練された心臓。立ち上がった。声が高い位置から降ってきた。しおりさんより高い。頭一つ分。さっきの重い匂いが近づいてくる。


 「……初めまして。えんやだ。……いや、今シャルが言ったか」


 低い声だった。名乗ってから、自分で言い直して、少し困っている。えんやさん。足元の床板が震えた。えんやさんが一歩踏み出した。それだけで床が鳴った。重い。でも、荒くない。一つ一つの動きを制御している重さだった。近づいてくる。ママより低い。でも横幅が違う。筋肉の密度が違う。匂いが濃くなる。土と鉄と汗と石鹸。全部が古い。何年もかけて体に染み付いた匂いだった。しおりさんの匂いに似た部分がある。訓練された体の匂い。でも、深さが違う。古さが違う。何倍もの時間が入っている匂いだった。


 心拍の音が聞こえた。遅い。重い。一拍一拍がしっかりしていた。急かない。崩れない。何があっても乱れなさそうな心臓だった。私たちを確認していた。首の向き、体の角度で分かる。全員を順番に。確認の仕方が訓練されている。素人じゃない。何千回も繰り返した目の動きだった。しおりさんのところで、少しだけ止まった。一拍だけ。えんやさんの首が少しだけ傾いた気配がした。同じ匂いを嗅ぎ合う感覚があった。しおりさんの体から立つ匂いを、えんやさんが嗅いでいた。犬が犬を嗅ぐ様に。兵が兵を、見分ける様に。


 「えんやって見た目こわいけど、全然こわくないから!」


 シャルロットさんの声が横から飛んできた。軽い。前置きも脈絡もない。


 「余計なことを言うな。……こわくない、というのは、否定しないが」


 えんやさんの声が低くなった。短い。でも怒っていない。慣れている声だった。何度も言われている声だった。シャルロットさんが笑った。えんやさんは溜め息をついた。


 みいさんの心拍が跳ねた。半歩後ろに下がった。息を止めていた。壁に近い方へ、じりじりと体が寄っていく気配。えんやさんがみいさんの方を向いた。ただ向いただけだった。何もしていない。でも、みいさんの心拍がまた大きく跳ねた。大きいものが怖い。みいさんにとって、大きいということは、それだけで脅威だった。理由は分からない。でも、みいさんの体はそういう体だった。


 しおりさんが動かなかった。腕を組んでいるのが、衣擦れの音で分かった。えんやさんを見ている。同じ匂いを嗅いでいるから。訓練された体の匂い。しおりさんはそれを知っている。知っているから、余計に警戒していた。


 「でね」


 シャルロットさんが声の向きを変えた。


 「この街、もうすぐ大祭なの。知ってた?」


 大祭。さっき街で聞こえた、木を削る音。屋台を組む音。あれは祭りの準備だった。


 「一ヶ月くらい続くやつ。橋も開くし、人も増えるし、すっごいことになるの」


 橋。この街の橋。国境の大河にかかる、一本の橋。あの橋が、開く。


 「お祭りの間は休戦。昔っからの決まり。剣抜いたら怒られるやつ」


 シャルロットさんの声が軽い。でも情報の出し方が丁寧だった。聞いていて自然に頭に入る。


 「手が足りないの。この店、祭りの間えっぐいくらい忙しくなるから」


 ママが「そうねぇ」と相槌を打った。低い声。のんびりした声。


 「祭りの間、手伝ってくれない? 終わったら、情報あげる」


 間を取った。意図的な間。


 「ジャーニーマンのこと」


 しおりさんの心臓が跳ねた。一拍。たった一拍。次の瞬間にはもう戻っている。でも、聞こえた。ことはが口を開いた。


 「……ちょっと待って」


 声が大人びている。背伸びしている声。でも揺れていなかった。


 「情報の裏は取れるの。嘘だったら、ただ働きだよ」


 シャルロットさんが笑った。息が漏れる様な笑い方。


 「賢い子だね。嘘じゃないよ。半月前に直接聞いた話だから」


 半月前。直接。シャルロットさんがジャーニーマンに、半月前に会っている。しおりさんの指が動いた。腕を組んだまま、指先だけ。それだけで、本気で聞いていることが分かった。えんやさんが口を開いた。


 「シャルは嘘を言わない。それは、わたしが保証する」


 低い声だった。押しつける響きはないのに、重かった。何年分もの時間が入っている声だった。ママが「そうねぇ」とまた言った。同じ声。同じ温度。


 「あんたたち、お金はあるの?」


 四人が黙った。お金はなかった。宿代も日に日に減っている。


 「ないわよね。見れば分かるわ」


 ママの声が笑っていた。嫌な笑い方じゃなかった。


 「うちの二階、部屋が空いてるの。使いなさい。その代わり、ちゃんと働くこと」


 住み込み。宿代を払わなくていい。ご飯も出る。その代わり、祭りの間この店で働く。しおりさんが息を吐いた。長い息。判断する前の息。


 「さゆり」


 また聞かれた。心臓の音を思い出していた。シャルロットさんの心拍。嘘がなかった。えんやさんの心拍。裏がなかった。ママの心拍。安定していた。怖い。知らない場所で、知らない人と暮らす。それは怖い。でも。


 「……嘘は、ないです」


 私の答えは、いつもそれだった。音で聞いた嘘のなさだけが、私の判断だった。目で見て決められない私が、唯一、人に差し出せる判断だった。しおりさんが「うん」と言った。短かった。ママが「決まりね」と言った。大きな手がテーブルを叩いた。軽い音。力を抜いた音。


 「二階、案内してあげる。荷物持っておいで」


 シャルロットさんが笑った。えんやさんが小さく頷いた。チーがママの足元で尻尾を振っていた。


   *


 宿に荷物を取りに戻った。足音が四つ。チーの爪音が一つ。ことはが「ほんとに大丈夫かな」と言いながらチーの背中で揺れていた。しおりさんが「やってみないと分からない」と言った。それだけだった。怖い。知らない場所で、知らない人と暮らす。それは怖い。でも、行きたかった。あの場所に。あの空気に、もう一度入りたかった。整理できていない。でも、体がそっちを向いていた。


 二階の部屋に荷物を置いた。ベッドが並んでいた。窓から祭りの準備の音が聞こえる。木を打つ音。屋台を組む音。しおりさんが黙って入口に一番近いベッドを選んだ。何も言わなかった。でも、それがしおりさんの答えだった。入口に一番近い場所。一番先に何かを察知できる場所。ことはが「あたしここ!」と宣言していた。チーがベッドの匂いを丁寧に嗅いでいた。


 「じゃあ今日から!」


 荷物を置いたらすぐ声が飛んできた。シャルロットさんの声。軽い。当たり前の声。荷物を置いたら次の瞬間から仕事だった。


 昼過ぎから仕事が始まった。声が飛んでくる。「こっちビール」「焼いたやつある?」。注文の声が重なる。匂いが混ざる。足音が多すぎる。全員の心拍が別々のリズムで鳴っている。情報が多すぎた。


 「さゆ、三番」


 シャルロットさんの声が聞こえた。体が固まった。三番がどこか分かっている。でも、足が動かなかった。音が多すぎて、何を先に処理すればいいか分からなかった。


 「……え、あ」


 意味のない声が出た。しおりさんがすでに動いていた。私が固まっている間に、三番テーブルに向かっていた。場を読むのが体に入っている。初日から動けた。


 「さゆ、奥のテーブル水」


 また声が飛んできた。奥のテーブル。分かる。どこにあるか分かる。何人いるかも分かる。左端の人が水を欲しがっているのも分かる。でも。


 「……あ、え」


 また同じ声が出た。ことはが「お姉ちゃん私行くね」と言いながら水差しを持って奥に向かった。最初はしおりさんの後ろをついて動いていたのに、もう自分で判断している。


 「さゆ、四番空いた」


 また声が飛んできた。また体が固まった。何も変わらない。音は全部聞こえている。どのテーブルのどの客がどういう状態か、全部分かっている。でも、体が、動かない。


 「…………」


 今度は声も出なかった。みいさんが「あ、私行きます」と言いながら動いた。皿が一枚傾いた。反射で戻した。「すみません」が小さく出た。えんやさんが入口に立っていた。ただそれだけ。誰も暴れなかった。


 私は、ほとんど動けないまま初日が終わった。スペックは高い。音も匂いも全部分かる。でも、それが「動ける」とは別の話だった。世界を全部読めても、その中に自分の足を踏み出すことだけが、私にはできなかった。


 夜。部屋が暗い。体が重かった。緊張と仕事で二重に疲れていた。


 「……疲れた」


 ことはが言った。言ったと思ったら、もう眠っていた。声が消えるより先に意識が落ちた。しおりさんが笑った。短い笑いだった。一人ずつ、呼吸が変わっていった。眠っていく音。私は最後まで起きていた。聞いたことのない天井の音。知らない木の軋み。染み付いた匂いが違う。全部が知らない場所の音だった。でも、隣に呼吸がある。それだけで、少しだけ体の力が抜けた。知らない場所でも、この四つの呼吸だけは、いつもと同じ場所にあった。

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