The Quieter She Gets, The Louder It Ends ——ことはが黙ると後がうるさい
能力の話を、する。
旅の中で、能力は、道具になった。戦うためじゃない。生きるために、使っていた。あの家で組手をしていた頃は、能力は、いつか来る戦いのための備えだった。でも今は、もっと地味で、もっと近い場所で、私たちの毎日を支えている。
しおりさんが、道を塞いでいた岩をどかした。片手で。岩が軽くなっている。重力を操作している。しおりさんの体の中で、何かが流れる音がした。音というより、気配。空気が少しだけ、歪む感じ。岩が地面を離れた時、周囲の空気が、一瞬だけ、軽くなった。みいさんが「すごい」と言った。すごかった。でも、しおりさんは、息を吐いていた。小さく。誰にも聞こえないくらい、小さく。私には、聞こえた。しおりさんは能力を使った後、少しだけ、静かになる。一瞬だけ。すぐに、いつもの声に戻る。でも、その一瞬を、私は知っていた。この人が平気な顔の裏で、何かを少しずつすり減らしている、その音を。何が消耗しているのかは、分からなかった。ただ、ただでは使えない力なのだろう。
みいさんが川で、水を操っていた。洗い物をしている。水が、手の動きに合わせて、流れる。みいさんの水は、素直だった。穏やかで、言うことを聞く。まるで飼い慣らされた小川の様に、みいさんの手のひらの上で、大人しくしている。
「みいみい、水使うの上手いね」
ことはがチーの背中から、覗き込んでいた。
「え、これ、普通です」
「普通じゃないよ。私が水やると、暴れるもん」
「え、暴れる?」
「私の能力、水と相性悪いんだよね」
ことはが地面に、指で線を描いた。線が光って、小さな箱の形になった。水を入れてみた。箱が、ふにゃっと、歪んだ。水が漏れた。
「ほら」
「あ、ほんとだ」
「雨の日とか最悪。全部ふにゃふにゃになる」
ことはが「まあいいけど」と言った。まあいいけど、の声が、少しだけ、硬かった。
*
ことはは、毎晩、テントを描いていた。地面に線を引く。線が光る。形になる。壁ができて、天井ができて、入り口ができる。ことはの、設計型の能力。頭の中にある設計図を、線で、現実にする。でも、朝になると、消えている。ことはの能力は、持続しない。描いたものは、時間が経つと、消える。だから毎晩、描き直す。毎晩、同じテントを。同じ大きさで。同じ形で。文句は、言わなかった。当たり前の様に、描いていた。
私は目を開けて、ことはの線を、見ていた。最近、目を開ける時間が、増えていた。接続が見える。相変わらず、見える。でも、その奥に、ぼんやりと、形が見える時がある。人の輪郭。木の輪郭。接続の密度が高いところに、何かの形が、浮かび上がる。ことはの線は、接続の中でも、特殊だった。引いた瞬間に、周囲の接続が、集まってくる。線に沿って、世界の接続が、再配置される。まるで散らばった砂鉄が磁石に引き寄せられる様に、まるで水面の波紋が中心へ逆再生されていく様に、線に沿って、世界が、少しだけ、整う。それが、テントの形になる。綺麗だった。何が綺麗なのかは、説明できない。でも、ことはが線を引くたびに、世界の接続が、少しだけ整う。それを見るのが、好きだった。あの夜、私を吐きそうにさせた、ぐちゃぐちゃの線。同じ「線が見える目」で、私は今、ことはが世界を整えていくのを、見ている。誰にも、言えないけれど。
私は、使わなかった。ジャムも、ルックも。日常で使う場面が、なかった。同期をずらす能力は、平和な旅には、向いていない。探し物の依頼が来た時だけ、ルックを使う。それ以外は、みんなの能力を、見ているだけだった。見ているだけで、十分だった。みんなが、それぞれの力で、この旅を作っている。その中に、耳と、この時々見える目で、混ぜてもらっている。
*
雨が降ったのは、旅を始めて三週間目くらいだった。
「……まだ森ですね」
みいさんが言った。声が沈んでいた。もう何十回目か分からないこの言葉は、最近は、溜息に近くなっていた。夜になって、降り始めた。ことはがテントを描いた。いつも通りに。線を引いて、壁を作って、天井を作って。雨が強くなった。テントが、ふにゃっとした。壁が歪んだ。天井が垂れた。雨粒が線の隙間から入ってきた。ことはが描き足した。描き足した端から、歪む。雨が強くなるほど、ふにゃふにゃになる。
「ことは」
しおりさんが声をかけた。
「大丈夫。描き足せば……」
天井が、落ちた。水が頭から降ってきた。全員。ずぶ濡れ。チーが鳴いた。みいさんが「ひゃっ」と声を上げた。ことはが立ち尽くしていた。雨の中で。手が濡れて。描いた線が、全部、流れて。鍋を出した。あの鍋。粥を作って、肉を煮た鍋。今は、水受けになっている。雨水が鍋に溜まっていく音がした。しおりさんが木の下に移動した。全員で。枝葉が少しだけ、雨を防いだ。少しだけ。
ことはが、黙っていた。何も言わなかった。「大丈夫」も「ごめん」も、言わなかった。ただ、唇を噛んでいた。噛んでいたのは、見えなかった。でも、音で分かった。歯が何かに当たる、小さな音。悔しいのだろう、と思った。でも、ことはは、「悔しい」とは、言わなかった。大人ぶっているから。この子は、感情を見せることを、負けだと思っている。あの秘密基地で泣いた夜も、泣いた後に、謝った。
*
翌日から、ことはが、静かになった。あのことはが。木の実を仕込み、花を編み、小枝を刺し、トラップを仕掛け、しおりさんを転ばせた、あのことはが。黙った。朝起きると、もう歩いている。チーの背中に乗らない。自分の足で、歩いている。歩きながら、木を見ている。ずっと、木を見ている。時々立ち止まって、幹に指で、何かを描いている。描いて、首を振って、また歩く。昼の休憩で、地面に何かを描いている。線を引いて、消して、また引いて。ことはの気配が、違った。イタズラの時とも、策を練る時とも違う。何かを解こうとしている、気配。
みいさんが隣に座った。
「ことはちゃん、大丈夫?」
「うん」
それだけだった。みいさんが心配そうにしていた。ことはの「うん」には、いつもの色が、なかった。「うん、大丈夫だよ」でもなく、「うん、ちょっとね」でもなく。ただの、「うん」。しおりさんは、何も言わなかった。分かっていたのだろう。私も、何も言わなかった。分かっていた。この子が今、一人で、何かと、戦っていることを。手を出してはいけない戦いだということを。
三日目。散歩の途中で、見つけた。木の幹に、線が描いてあった。ことはの線。細くて、かすかに、光の残滓がある。描いてから、時間が経っている。線は、穴の形をしていた。小さな穴。人が入れる大きさの。でも、穴は開いていなかった。線があるだけで、幹は、そのままだった。失敗している。隣の木にも、描いてあった。こっちは、少し穴が開きかけていた。でも、途中で潰れている。線が、途中で歪んでいる。その隣の木にも。その隣にも。何本もの木に、描きかけの穴。開きかけて、潰れた穴。大きさが違う。深さが違う。線の太さが違う。角度が違う。全部、試している。全部、失敗している。ことはの線だった。何度も描いて、何度も、失敗している。誰も見ていない場所で、誰にも言わずに、この子はこんなにも、たくさんの失敗を積み上げていた。しおりさんにも、言わなかった。黙って、歩いた。
五日目。ことはの小枝が、私の髪に、まだ刺さっていた。あの小枝。抜かなかった小枝。ことはが刺してから、何日経ったのか、分からない。ことはも抜かない。私も抜かない。忘れているわけじゃない。たぶん。みいさんが「さゆりさん、まだ付いてます」と言った。
「知ってます」
「あ、はい」
みいさんは、それ以上、聞かなかった。この小枝を抜いてしまったら、あの、賑やかだった頃のことはが、少し、遠くなる気がして。だから私は、抜けずにいた。たぶん、ことはも、同じだった。
六日目の夜。焚き火の前で、しおりさんが言った。
「明日から天気崩れるって。村の人が言ってた」
ことはの肩が、動いた。小さく。一瞬だけ。しおりさんは見ていなかった。みいさんも見ていなかった。聞こえた。ことはの息が、一瞬だけ止まった音が。チーが寝ていた。尻尾の花の匂いが、薄くなっている。ことはが編み込んでから、もう何日も経っていた。
*
七日目。朝から空が暗かった。昼過ぎから降り始めた。小雨だった。夕方には本降りになった。夜になって、土砂降りになった。前回と同じだった。木の下に集まって、濡れながら夜を越す。それが当たり前になりかけていた。
ことはが、立ち上がった。雨の中に出た。走った。大きな木に向かって、走った。幹が太い。枝が広い。森の中で、一番大きい木。ことはが幹に手を当てた。指で線を引き始めた。雨が降っている。水と相性が悪い能力。前回は、これで全部、流れた。でも、ことはの手は、止まらなかった。線を引いた。太い線。前回より、太い。前回より、深い。雨で歪む前に、一気に、描き切った。穴の形。人が入れる大きさの、穴。線が、光った。
幹が、開いた。
穴が開いた。木の幹の中に、空間ができた。壁は、木の幹そのもの。天井も、木。床も、木。雨は、入ってこない。木が、屋根だから。テントじゃないから。ふにゃふにゃに、ならない。ことはが振り返った。雨の中で。ずぶ濡れで。
「見て!!」
叫んだ。
「見てみて!! これなら濡れないし、ふにゃふにゃにもならないし!!」
大人ぶりが、全部、吹っ飛んでいた。子供だった。勝った子供の、声だった。一週間の悔しさを、全部、叩きつけた声だった。みいさんが走ってきた。足音が、穴の前で止まった。
「すごい、すごいです。ことはちゃん!」
みいさんは、純粋だった。何が起きたかの全部は、分かっていない。でも、すごいことが起きたのは、分かっている。しおりさんが歩いてきた。足音が、穴の前で止まった。気配が、中へ差し込まれる感じがした。乾いている。広い。四人と一匹が、入れる。
「……ことは。一週間、ずっと木睨んでたもんね」
ことはの息が、止まった。バレていた。知っていた。しおりさんは、最初から、分かっていた。
「……悔しかったんだね」
私が言った。声に出した。口下手の口から、出た。考える前に、出ていた。ことはが振り返った。雨に濡れた息。泣いているのか、笑っているのか、分からない声。たぶん、両方。一週間の悔しさと、成功の嬉しさと、バレた恥ずかしさが、全部、混ざっている。
「あたりまえでしょ!!」
ことはが叫んだ。
「雨なんかに負けないよ!!」
子供の声だった。大人ぶりが完全に剥がれた、子供の勝利宣言。みいさんが拍手した。チーが尻尾を振った。しおりさんが笑った。木の穴の中に入った。全員で。乾いていた。温かかった。外で雨が降っている。でも中は、静かで、乾いている。ことはの能力が、雨に、勝った。
*
焚き火は無理だったので、毛布にくるまった。暗い木の穴の中。雨の音だけが、外から聞こえる。ことはが喋り始めた。
「あのね、最初は普通に穴を描いたんだけど、それだと木の繊維が邪魔して、線が通らなくて」
「うん」
しおりさんが相槌を打った。
「だから繊維に沿って描こうとしたの。でもそうすると、穴の形が歪むの。木の繊維って、真っ直ぐじゃないから」
「あ、そう、なんですね」
みいさんが相槌を打った。
「で、三日目くらいに気づいたんだけど、線を太くすると、繊維を無視できるの。でも太くすると能力の消費がすごくて、途中で切れちゃって」
「ふむ」
「だから一気に描く方法を考えたの。最初に形を全部決めて、線を途切れさせないで、一筆で描く。そうすると消費が均一になって、最後まで持つ」
「一筆って、あの大きさを?」
「うん! 何回も練習した! 最初は小さい穴で試して、段々大きくして、木の種類で硬さが違うから、全部試して」
止まらなかった。一週間の沈黙が嘘の様に、ことはが喋り続けていた。線の描き方。木の種類による違い。失敗した回数。成功した条件。全部。全部を、喋っていた。しおりさんが笑っていた。腕を組んで、壁に寄りかかって、笑っていた。みいさんが真剣に相槌を打っていた。半分も分かっていないと思う。でも、真剣だった。チーが寝ていた。ことはの声を子守唄にして、丸くなって、寝ていた。
黙っていた一週間、私は、静かなことはが少しだけ寂しかった。あの賑やかな声が消えた森は、木と土と空の、いつもの顔に戻ってしまって。だから、今、こうしてことはが喋り続けているのが、嬉しかった。嬉しかったのだが。喋り出したら、止まらない。木の穴の中に、ことはの声が、いつまでも、反響している。チーの寝息の上に、みいさんの相槌の上に、雨の音の上に、ことはの声が、どこまでも、重なっていく。静かなことはは、寂しい。でも、もう少しだけ、静かにしてほしい。




