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No Look Jamming〜私は見る事ができない〜  作者: 船木
閑話休題
28/36

Hawks Don't Hide ——能あるさゆりは爪を見せたい

 旅が始まった。森だった。ずっと、森だった。


 リンデンフォードを出て三日。匂いが、変わらない。木の匂いと、土の匂いと、また木の匂い。たまに岩の冷たさが混じって、すぐにまた木へ戻る。道と呼べるかどうか怪しい細い獣道を、四人と一匹で歩いている。みいさんが先頭を歩いている。槍を杖代わりにして。足取りは軽い。村を出た日よりも、二日目よりも、今日が一番軽い。怖くないのだろうか、と思った。怖くなさそうだった。首の向きが、しょっちゅう変わる。衣擦れの音が、左、右、上と順番に動いていく。木の隙間で光の当たり方が変わるたびに、足が止まりかける。鳥が鳴くと、そちらへ耳を傾ける気配がする。知らない花の匂いがすると、屈む音がした。


 「森、ですね」


 みいさんが振り返って言った。知っていた。


 「はい。森です」


 「……ずっと、森ですね」


 知っていた。ことはがチーの背中で、足をぶらぶらさせていた。


 「リンデンフォードも森だったよね」


 「あ、こっちの木のほうが大きい気がします」


 「気のせいじゃない?」


 「え、そう、ですか」


 みいさんの肩が、少し落ちた。みいさんは、何かを期待していた。村を出た日、荷物を背負ってみいさんが歩き出した、あの足取りが、それを語っていた。知らない街。感じたことのない空気。聞いたことのない音。旅に出れば、そういうものが、待っているはずだった。でも、現実は、木と、土と、鳥の声。リンデンフォードと、同じだった。声に出ていた。隠せていなかった。私にとっての旅は、音と匂いが変わっていくことだった。この森は、リンデンフォードと、匂いが少しずつ違う。でも、みいさんが期待していたのは、たぶん、そういう小さな違いでは、なかった。


 しおりさんが横に並んだ。


 「もうちょっと行くと川があるはずだよ。そこで休もう」


 「あ、はい。川」


 みいさんの足が、少しだけ速くなった。川は新しい。川は森じゃない。何でもいいから、変化が欲しいのだろう。川に着いた。森の中を流れている、小さな川。石がごろごろしていて、水が浅い。リンデンフォードの川辺と、よく似ていた。みいさんの気配が、川の方へ向いた。何も言わなかった。


   *


 夜。焚き火を囲んでいた。みいさんが火を起こしていた。手慣れている。自警団の訓練で覚えたらしい。木を組む手つきに、迷いがない。


 「みいみい、火起こすの上手いね」


 ことはが言った。みいさんの手が、止まった。


 「え、普通、です」


 「普通じゃないよ。私、もうちょっとかかるもん。しおりんはもっと遅いよ」


 「ことは」


 しおりさんの声に、棘はなかった。本当に、その通りだと思っているのだろう。みいさんが嬉しそうだった。声が少し、上ずっていた。褒められ慣れていない人間の、声。その声を、私は、知っている。自分の中に、同じものが、あるから。


 鍋が火にかかった。水が温まっていく音。みいさんが荷物の中から穀物を出した。鍋に入れた。粥だった。おいしかった。本当に、おいしかった。みいさんの粥は、リンデンフォードで食べた時から、変わっていない。穀物と、塩と、少しだけ、草の味。温かくて、体に染みる味。


 「おいしい」


 ことはが言った。


 「おいしいです」


 私が言った。


 「みいの粥、最高だね」


 しおりさんが言った。みいさんが「よかった」と言った。嬉しそうだった。


 二日目の夜も、粥だった。おいしかった。三日目の夜も、粥だった。おいしかった。おいしかったのだが。


 四日目の夜。みいさんが鍋に穀物を入れた。水を注いだ。匙を持った。粥だった。四日目も、粥だった。みいさんが嬉しそうに鍋をかき混ぜている。湯気が立っている。穀物の匂い。同じ匂い。昨日と同じ匂い。一昨日と同じ匂い。その前の日と、同じ匂い。おいしい。おいしいのは、知っている。でも。おいしいけど、昨日も食べた。おいしいけど、一昨日も食べた。おいしいけど。みいさんが嬉しそうに粥をよそっている。……四日目、だった。


 しおりさんが器を受け取った。声は明るかった。でも、笑う時の息の弾み方が、昨日より小さい。しおりさんは嘘がうまい。でも四日目ともなると、嘘の精度が落ちてくる。ことはの前では完璧に笑えるしおりさんが、粥の前では、少しだけ綻んでいた。ことはが器を受け取った。匙が、器の中で一度止まった。それから口に運んで、飲み込んで、器を置いた。


 「……またお粥?」


 来た。四日間、誰も言わなかった言葉を、ことはが言った。悪気はなかった。ことはの声には、悪気がなかった。ただ、この子の我慢の閾値が、ちょうど、四日だった。


 「ことは」


 しおりさんが言った。声に、力がなかった。本来なら「ことは」の一言で空気を締められるはずのしおりさんが、締められなかった。自分も、飽きているから。声の奥に「私も、そう思ってた」が、透けていた。みいさんが固まった。匙を持ったまま。鍋の前で。


 「え、あ……お粥、飽きた、ですか」


 「飽きたっていうか、三日も四日も」


 「ことは」


 しおりさんがもう一度言った。今度は少しだけ、力があった。でも、ことはは、止まらなかった。


 「だって毎日同じ」


 「え、あ、ごめんなさい。ごめん」


 みいさんの声が小さくなっていった。縮んでいく。リンデンフォードに入った時と、同じだった。肩が内側に入って、声が消えそうになる。止めなかった。止められなかった。ことはは、強い、と思った。正直に言えることが。私は四日間、一度も、言えなかった。みいさんが嬉しそうに粥をよそうたびに、おいしいと言った。本当だった。おいしかった。おいしかったのだが、昨日も、食べた。正直になれないのは、優しさなのか、ただの臆病なのか。たぶん、後者だった。ことはの正直さが、時々、私には、眩しかった。みいさんが黙って鍋を片付け始めた。しおりさんが「みい、おいしいよ。ただ……」と言いかけて、やめた。ことはが気まずそうに、チーの毛に顔を埋めた。焚き火の音だけが、残った。


 五日目の朝。みいさんが早起きしていた。荷物を漁っている音がした。何かを作ろうとしている。粥じゃないものを。昼に出てきたのは、木の実を砕いて穀物に混ぜたものだった。粥だった。木の実粥だった。ことはが器を覗き込んだ。


 「……これも粥じゃん」


 みいさんの息が、詰まった。


 「え、でも、木の実が」


 「入ってるけど粥じゃん」


 「あ、はい。粥、です」


 六日目。草粥が出てきた。草の味がする粥だった。


 「みいみい。粥に草入れても粥だよ」


 「あ、はい」


 みいさんが俯いた。粥しか、知らなかった。リンデンフォードで、みいさんが作っていたのは、粥だけだった。あの台所で、あの器で、あの鍋で。粥だけを、作ってきた。一人分の粥を。毎日。ずっと。粥しか知らない世界の狭さが、ここに、出ていた。それは、笑い事のはずだった。粥の話なのだから。それなのに、俯いたみいさんの背中を見ていると、少しも、笑えなかった。この人が、たった一人で毎日を過ごしてきたのか。粥の匂いが、その全部を、静かに、語っていた。


 七日目の朝。みいさんが何かを作ろうとした。穀物を直接、焼こうとした。焦げた。煙が出た。ことはが咳き込んだ。チーが逃げた。しおりさんが水をかけた。みいさんが焦げた何かを持ったまま、座り込んでいた。


 「……ごめん、なさい」


 泣きそうだった。しおりさんが隣に座った。


 「みい。粥、おいしいよ」


 「……でも、飽きた、って」


 「飽きたのは、事実。でも、おいしいのも、事実。肉があれば、変わるんじゃない?」


 「肉」


 「うん。今度、肉を手に入れよう。そしたら、みいの粥に入れてみよう」


 みいさんの声が、少しだけ上がった。


 「……肉粥」


 「それも粥じゃん」


 ことはが言った。しおりさんが笑った。みいさんが、泣きそうな声で笑った。


   *


 八日目。小さな村に着いた。道沿いの、本当に小さな村。人の気配が、数えられるほどしかない。家がいくつかと、畑と、井戸が一つ。みいさんが小さくなった。人がいる。知らない人がいる。リンデンフォードと、同じだった。人目があると、縮む。しおりさんが先頭に立った。いつもの大人の声で、村の人に挨拶した。水を分けてもらえないかと聞いた。村の人は、親切だった。水を分けてくれた。少しだけ、干し肉も売ってくれた。みいさんが「肉」と、小さく呟いた。


 村を出ようとした時、年配の男が声をかけてきた。


 「すまないが、もし時間があるなら」


 しおりさんが振り返った。


 「何かありましたか?」


 「猫を探しているんだ。うちの猫が、三日前から帰ってこない。灰色の、片耳が欠けた猫でね」


 しおりさんが私を見た。気配で、分かった。私は、考えた。ルック。他人の視界を借りて、探し物をする。あの崖の夜に、使った。あの時は、戦闘だった。線を見て、化け物を見た。あの後、私は、この目を、少しだけ、怖がっていた。でも、ルックの本質は、戦うことではなかった。他人の視界を借りて、自分では届かないところを見ること。それだけだった。猫を探す。誰かの視界を借りて、村の周辺を見る。猫がいれば、見える。これなら、誰も、傷つけない。


 「……私」


 声が出た。


 「……できる、かもしれません」


 しおりさんが少し驚いた気配がした。私が自分から何かを言うことは、少ない。


 「やってみる?」


 「……はい」


 村の男の視界を借りた。男の視界。村の入り口に立っている。視界が開けている。畑が見える。森の縁が見える。接続が見えた。男の視界を通して見る世界には、いつもの様に接続が重なって見えている。でも、その奥に、形がある。畑の形。木の形。道の形。猫を探した。灰色の猫。片耳が欠けている。男が首を回した。借りた視界が流れる。村の左側。家の裏。井戸の向こう。


 いた。森の縁。倒木の下。灰色の、小さい塊。丸くなっている。寝ている。


 「……いました」


 「え? もう?」


 「……森の縁。倒木の下に」


 男が走っていった。しおりさんが一緒に行った。見つかった。猫は、寝ていただけだった。怪我もしていない。ただ、倒木の下が気に入って、帰ってこなかっただけだった。


 「ありがとう! ありがとう!」


 男が猫を抱いて戻ってきた。猫が迷惑そうに鳴いた。


 「すごいな、あんた! どうやって見つけたんだ!」


 「……えっと」


 言葉が詰まった。説明できない。他人の視界を借りましたとは、言えない。


 「……勘、です」


 嘘だった。でも、他に言いようがなかった。


 「勘でか! すごいな!」


 褒められた。知らない人に。初めて。この、ずっと自分を怖がってきた目で。人を狂わせることにも、人を傷つけることにも使えるこの目が、今、迷い猫を一匹、見つけた。ただ、それだけのことで、知らない誰かが、こんなにも、喜んでいる。


 「お礼に何か」


 「い、いえ」


 「干し肉でよかったら。うちで燻製にしたやつだが」


 「……いただきます」


 干し肉を受け取った。みいさんが「肉」と、また呟いた。村を出た。歩き始めた。しおりさんが隣を歩いていた。


 「さゆり、すごかったね」


 「……たまたまです」


 「たまたまじゃないでしょ」


 「……はい」


 「もし次も探し物の依頼があったら、やってみる?」


 考えた。考える前に、口が、開いていた。


 「……私、できます」


 しおりさんが、少し、止まった。


 「やります」


 口下手の口が、勝手に動いていた。褒められた。役に立てた。その事実だけで、胸が熱かった。守られてばかりで、運ばれてばかりで、耳しか取り柄のなかった私が、初めて、自分の目で、誰かの役に立った。


 「……私、やれます。やります」


 二回、言った。しおりさんが小さく息を吐いた。ことはが鼻で、笑った。同じ音だった。二人とも。おかゆの時の、みいさんと、同じだ。褒められて、上ずって、二回言ってしまう。あの時、私は、みいさんを、微笑ましく見ていた。今、私が、同じことをしている。みいさんだけが気づいていなかった。自分も、同じことをしていたのに。恥ずかしくなって、俯いた。俯いたけれど、口の端は、緩んだままだった。


 歩いていた。森の道を。四人と一匹で。干し肉がある。明日の粥には、肉が、入る。みいさんが小さく笑った。


 「……肉粥、楽しみです」


 ことはが振り返った。


 「それも粥じゃん」


 しおりさんが笑った。次の村にも、きっと、探し物がある。迷い猫。迷子。なくしもの。私が、見つける。爪を隠す鷹の話を、いつか主人様がしてくれた。本当に強い者ほど、力を隠すものだ、と。でも、私は、たぶん、少しだけ、違った。隠していた爪を、初めて、誰かに褒められて、もっと見せたくなっている。……私、やれます。心の中で、もう一度、そう呟いた。

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