シンクロニシティ 3
朝が来た。煙の匂いが残っていた。昨日の納屋。まだ焦げた木の匂いが、村に漂っている。でも、火は、消えていた。みいさんの家の前に座っていた。いつもの場所。壁に背中を預けて。
村が動いている。足音が多い。声が多い。昨日の戦いの後、村中が起きて、動いている。片付けの音。板を運ぶ音。水を汲む音。誰も、泣いていなかった。死人は、出なかった。怪我人は何人かいた。でも、全員、生きている。あの家の時とは、違った。あの時の私は、燃える家に背を向けて逃げることしかできなかった。今度は、みんなの手で、守り切れた。
みいさんが出てきた。器を持っていた。
「……朝ごはん、です」
「……ありがとうございます」
粥だった。いつもの粥。いつもの味。昨日村を守った手で、今朝も粥を作っている。食べた。温かかった。しおりさんが歩いてきた。足音が軽い。怪我はない。
「おはよ。みい、村長さんとこ行ってくるね」
「あ、はい」
しおりさんが歩いていった。ことはがチーと一緒についていった。みいさんが隣に座った。しばらく、黙っていた。
「……さゆりさん。……昨日、三人目が転んだの、さゆりさんが、やったんですか」
知っていた。見ていたのか。気づいていたのか。分からない。でも、みいさんは、分かっていた。あの一秒が、偶然ではなかったことを。
「……はい」
「……ありがとう、ございます。……おばちゃんが助かったの、さゆりさんのおかげです」
声が震えていた。泣いてはいなかった。でも、近かった。いつも、そうだった。この人はいつも、泣きそうなところで、止まる。
「……みいさんが、立ってたから、です」
「……私、立ってただけ。弾いてただけです」
「……それが、すごいんだと、思います」
しおりさんと、同じことを言っていた。弾けるのがすごい。立っていたのがすごい。でも、しおりさんが言うのと、私が言うのでは、たぶん、意味が違う。しおりさんは、みいさんの能力を見ている。私は、怖がりながらそれでも立っていたことを、見ている。私には、みいさんの目の凄さは、見えない。見えるのは、震える手で槍を握って、おばちゃんを背中に庇った、あの背中だけだった。だから、私が「すごい」と言う時は、能力のことではなかった。みいさんが鼻を啜った。
「……さゆりさん。……私、行きたい」
小さかった。でも、昨日の「楽しそうなのに」より、少しだけ声が大きかった。
「……行きたいです。しおりさんと、ことはちゃんと、さゆりさんと」
また、四人分の名前を、言った。
「……こわいのは、変わらない、です。でも、昨日、一人じゃなかったから」
それだけだった。みいさんが出した答えは、それだけだった。強くなりたい、でもない。村を出たい、でもない。一人じゃ、なかったから。その一言に、この人が何年も、この小さな村で、たった一人で抱えてきたものが、全部、詰まっている気がした。
胸の奥で、何かが動いた。ジャムではなかった。もっと浅い場所。もっと軽いもの。誰かに何かを、渡したいと思う、その気持ちだった。
「……みいさん。……一緒に、行きましょう」
口下手の、精一杯だった。三回目。「それだけで、いいと思います」「分かります」の、次。今度は、一緒に、と言えた。喉の奥で握り潰さずに、ちゃんと外へ出せた。
みいさんが泣いた。声を出さずに。肩が震えていた。顔を膝に埋めていた。あの日、粥を褒めた時と、同じだった。同じ泣き方。声を出さないこと。振り返らないこと。でも今は、隣に人がいることを、この人は知っている。私は、何も言わなかった。ただ、隣に座っていた。みいさんが泣き終わるまで。あの日、みいさんが私の隣にいてくれた様に。今度は、私が、隣にいた。
*
昼前に、しおりさんとことはが戻ってきた。
「みい、村長さんが話したいって。お礼だって。昨日のこと」
「え、私、何も。弾いただけで」
「行こう」
しおりさんがみいさんの手を引いた。みいさんが引きずられていった。ことはが笑っていた。村長の家の前だった。私もゆっくり歩いていった。壁に手をついて。まだ長く歩くと、頭が少し痛む。村長の声が聞こえた。年配の男の声。落ち着いている。
「みいちゃん。昨日はありがとう。あんたのおかげで、おばちゃんたちが助かった」
「え、そんな。私は、しおりさんたちが」
「しおりさんたちにも感謝してる。でも、最初に走ったのは、あんただよ」
みいさんが黙った。
「それと、しおりさん。あんたたちにもお礼がしたい。村を守ってくれた」
「いえ。私たちの方がお世話になりました。みいの家に泊めてもらって、ご飯もいただいて」
「いやいや、そんなの当たり前だよ。何かできることがあったら言ってくれ」
しおりさんが黙った。一拍。
「……大丈夫です。十分いただきました」
断った。形式的に。でも、声は本気だった。本当に十分だと思っている声だった。この人は、いつも、そうだった。差し出されたものを、まっすぐには、受け取れない。おばちゃんの声がした。横から。
「しおりちゃん。若いんだから、わがままくらい、言っていいのよ」
温かかった。あの声。「また拾ってきたの?」と笑っていた声。「布は足りてる?」と聞いてくれた声。しおりさんが黙った。長い沈黙。しおりさんにしては、長かった。
「……じゃあ、わがまま、言っていいですか」
「いいよ」
「みいを、連れていきたいです」
静かだった。村長が息を呑んだ。みいさんが固まった。ことはがチーの首を撫でていた。
「旅に。一緒に。みいは、すごい子なので」
しおりさんの声が震えていた。一瞬だけ。すぐに戻した。でも、聞こえた。わがままを言い慣れていない人の、声だった。いつも明るくて、いつもみんなを引っ張って、いつも嘘をつく側にいた人が、初めて、本当のわがままを、言った。村長が黙った。おばちゃんが笑った。
「みいちゃん?」
みいさんが何か言おうとした。言葉にならなかった。
「行きたいです」
さっき私に言ったのと、同じ言葉だった。同じ声だった。でも今度は、みんなの前で、言った。
「行きたいです。しおりさんたちと」
村長が深く息を吐いた。
「……しょうがない子だね」
笑っていた。
「また拾ってきたのが、今度は、拾われる番か」
おばちゃんが笑った。村長が笑った。二人が向き合う気配がした。しおりさんが笑った。いつもの笑い。明るくて、眩しくて。でも、今のは、嘘じゃなかった。
「知ってたよ」
「え」
「みいが来てくれるの。なんとなく、知ってた。さゆりに聞いてみ」
みいさんが私を見た。
「……楽しそう、って」
「……はい。みいさんは、楽しそう、が先に出る人なので」
みいさんがまた泣きそうになった。堪えた。鼻を啜った。ことはがみいさんに抱きついた。
「みいみい、来るの!?」
「う、うん……たぶん」
「たぶんじゃないよ! 来るの!」
「う、うん。行く、行きます」
「やったー!」
ことはが跳ねた。チーが嬉しそうに鳴いた。しおりさんが私の方を見た。
「さゆり。ありがとね」
「……何も、してないです」
「してるよ」
それだけだった。しおりさんは、それ以上、言わなかった。私は、本当に、何もしていない。走れなかった。戦えなかった。ただ、みいさんの一番先に出た本音を、聞いただけ。それでも、しおりさんが「してるよ」と言ってくれるなら、耳しか取り柄のない私にも、この四人の中に、座っていていい場所があるのかもしれなかった。
*
翌朝。みいさんの家を出た。荷物は少なかった。みいさんの荷物は、もっと少なかった。着替えと、木の器と、干した木の実。
「……器、いらないかな。重いし」
「持ってきなよ。みいの粥は、みいの器で食べたい」
しおりさんが言った。みいさんが器をしまった。村の入り口まで歩いた。おばちゃんが立っていた。村長も。何人かの村人も。
「みいちゃん。行っといで。ご飯、ちゃんと食べるのよ。転ばない様にね」
「……が、がんばります」
おばちゃんが笑った。みいさんが頭を下げた。深く。長く。歩き始めた。チーの背中に、私が乗っている。しおりさんが先頭を歩いている。ことはが横を歩いている。みいさんが、しおりさんの隣を歩いている。四人と、一匹。
みいさんの足音が聞こえる。軽い。でも、不規則。ときどき何もないところで、つまずく。あの川辺の朝に聞いた足音と、同じだった。あの時は、先頭を歩いて、村まで案内してくれた。今は、同じ足音で村の外へ出ていく。振り返る音がした。みいさんが振り返った。たぶん。すぐに、前を向いた。歩いていく。
風が草を揺らしている。朝の匂い。露の匂い。あの日、ここに流れ着いた時と、同じ匂いだった。でも今は、足音が一つ、多い。あの時、二人と一匹で立ち尽くした知らない土地の匂いの中を、今は、四人と一匹で、歩いていく。一人じゃ、なかった。私も、みいさんも、誰も、もう、一人じゃ、なかった。




