シンクロニシティ 2
足音が戻ってきた。一つだけ。軽い。速い。ことはだった。チーの背中に乗っている。
「お姉ちゃん!」
入り口に飛び込んできた。息が荒い。
「……ことは」
「乗って。村まで行く」
「……でも」
「しおりんが先に行った。みいも走ってる。私とお姉ちゃんは後から。でも、行く」
迷わなかった。ことはの声に、迷いの色が一つもなかった。この子が「行く」と言った時は、もう、何を言っても変わらない。私はチーの背中に乗った。ことはが前に座っている。たてがみを握った。チーが走り出す。
「お姉ちゃん、村の地形、覚えてる?」
「……少しだけ」
「川はどっち側?」
「……東」
「畑は?」
「……西と南」
「家は何軒くらい?」
「……分からない。でも、少ない」
「おっけ」
ことはが考えている。チーの背中で、揺れながら。この子の頭の中では、今、まだ見てもいない村の地図が、一枚ずつ組み上がっているのだろう。私が渡せるのは、東西南北の、ぼんやりした断片だけ。それでも、この子はその断片を、ちゃんと拾い上げてくれる。
「お姉ちゃん、盗賊って何人くらいだと思う?」
「……遊撃隊が五人。本体は」
「遊撃隊が五人ってことは、本体はもっと多い。でも、全員が戦えるわけじゃない。実働は十人前後。村の人って、戦える?」
「……分からない。みいさんが槍を持ってたから、他にも、自警団みたいなのが、いるかも」
「おっけ。使えるものは、全部使う」
チーが村に近づいていく。煙の匂いがした。薄い。焚き火じゃない。何かが、燃えている。
「……煙」
「うん。見えてる」
ことはの声が変わった。子供の声じゃ、なくなっていた。村の入り口が見えた。ぼやけた輪郭。人影が動いている。走っている。チーが止まった。しおりさんの声が聞こえた。近い。
「ことは!」
「しおりん、状況!」
「納屋が一つ燃えてる。本体は西から入ってきた。十二人。うち三人は倒した。残り九人が、村の中に散ってる」
「村の人は?」
「逃げてる。東の方に。でも、何人か逃げ遅れてる」
「みいは?」
「家の方に走っていった。おばちゃんたちを探しに」
ことはがチーから降りた。地面に膝をついた。土に、指で、何かを描き始めた。
「しおりん、村の道は何本?」
「メインが一本。横道が二本」
「西の入り口から来たなら、メインの道を塞げば、散った連中は合流できない」
「どうやって?」
「チーと、あと……あの荷車。あれ動く?」
「動かせる」
「メインの道に横倒しにして。チーはその後ろに立たせて。馬がいたら盗賊は迂回する。迂回したら、横道に入る。横道に入ったら」
ことはが土に線を引いた。
「ここにロープ張る。足首の高さ。暗くなってきてるから、見えない。転んだところを、しおりんが叩く。二本目の横道は、潰す。荷物とか、桶とか、積めるもの全部積んで、通れなくする。通れない道は、存在しないのと、同じ」
しおりさんが黙った。一拍。
「……ことは、それ誰に教わったの」
「お兄ちゃん」
短かった。それだけで、私の胸の奥が、きゅっと縮んだ。今この子が、迷いなく村を守る策を組み立てているその全部が、あの家であの人から教わったものだった。組手も、鬼ごっこも、遊びの顔をして、本当はこういう日のための備えだった。主人様は、いつか、こういう日が来ることを、知っていたのだろうか。
「おっけ。やる」
しおりさんが走った。荷車に向かった。ことはが立ち上がった。
「お姉ちゃん、ここにいて。動かないで。でも」
ことはが振り返った。
「耳と鼻は、使って」
走っていった。一人になった。また。
村の中から声が聞こえる。叫び声。走る音。金属がぶつかる音。遠い。でも、聞こえる。荷車が動く音がした。しおりさんが押している。道の上に倒す音。重い。チーがその後ろに立った。爪が地面を掻く音。ことはが走り回っている。足音が速い。何かを運んでいる。桶。板。積んでいる。二本目の横道を、塞いでいる。
その時、ことはの能力が、見えた。一瞬だけ。ことはが何かに手を触れた。光ったわけではない。でも、空気が変わった。ことはが触れた板が、崩れない。普通なら崩れる積み方なのに、まるで見えない糸で縛られた様に、崩れないでいる。
足音が来た。横道から。走っている。盗賊。迂回してきた。ことはの、読み通り。ロープに引っかかる音。転ぶ音。二人分。しおりさんの足音が重くなった。身体強化。一人目を蹴り飛ばす音。二人目を押さえつける音。
「二人。残り七人。散ってる」
しおりさんの声。短い。冷たい。ことはの声が返ってきた。
「みいは?」
「まだ見えない」
村の奥から声がした。みいさんの声。
「こっちです! こっち!」
叫んでいた。村の中で。人が多いと小さくなってしまう、あの人が。声を殺して生きてきた、あの人が、今、村じゅうに響く声で、叫んでいた。別の声が重なった。年配の女の声。
「みいちゃん!」
おばちゃんだった。走る音。みいさんが誰かを引っ張っている。足音が二つ。みいさんと、おばちゃん。その後ろから、別の足音。重い。追いかけてきている。三人分。盗賊が三人、みいさんとおばちゃんを、追っている。みいさんの足が速くなった。おばちゃんの手を引いて走っている。でも、おばちゃんは速く走れない。追いつかれる。近づいてきた。私がいる場所に。メインの道に。匂いで分かった。金属の匂い。汗の匂い。三人分。近い。
「おばちゃん、先に!」
「みいちゃん!」
みいさんが振り返った。槍を構えた。三人に向かって。おばちゃんを、背中に庇って。また、守る側に立っている。怖がっている。声で、分かった。震えていた。それでも、立っている。一人目が斬りかかった。みいさんが盾で受けた。弾いた。二人目が横から。槍で薙いだ。三人目。三人目が回り込んだ。おばちゃんの方に。みいさんの、反対側に。みいさんが気づいた。視界の端で、見えている。でも、手が塞がっている。一人目と二人目を相手にしている。三人目に、手が届かない。
「っ」
みいさんの声が、詰まった。
胸の底が、動いた。ジャム。小さい。あの夜とは、違う。あの時は、体の奥底から噴き出してきた。今は、胸の表面を、かすめるくらい。でも、確かに、ある。三人目の足元を見た。ぼやけている。でも、足の動きは、見える。右足が前に出ようとしている。地面を踏む、その拍子を掴んだ。
ずらした。一拍の、半分。三人目の右足が地面を踏むタイミングが、ほんの少しだけ早くなった。自分の歩幅と、合わなくなった。つまずいた。三人目が前のめりに崩れた。地面に手をついた。一秒。たった、一秒。
頭が痛んだ。鋭い。鼻血は出ない。吐き気もない。でも、頭の右側が、脈打つ様に痛い。あの夜みたいに、まとめて崩れ落ちるほどじゃない。使った分だけの、小さな代償。それでも、確かに、私は、今度は、自分で、使った。誰かを守るために、自分の意思で、あの化け物の力を、ほんの少しだけ握った。
一秒で、十分だった。しおりさんが来た。足音が重い。空気が圧縮される。三人目を蹴り飛ばした。一人目を殴った。二人目が逃げた。追わなかった。
「みい!」
「だ、大丈夫です。おばちゃんも」
「みいちゃん、みいちゃん」
おばちゃんがみいさんにしがみついていた。震えていた。
「大丈夫、大丈夫です」
みいさんが、おばちゃんの背中を撫でていた。自分も震えているのに。頭が痛い。じんじん鳴っている。目を閉じた。暗くなった。でも、聞こえていた。みいさんの声。おばちゃんの声。しおりさんの足音。ことはの指示。チーの息。村の音が、少しずつ、戻っていく。盗賊が散っていく音。逃げていく。しおりさんが追っている。ことはが指示を飛ばしている。村の自警団が動き始めている。複数の足音。みいさんの、仲間だろう。遅れてきた。でも、来た。終わりが、近づいていた。
壁に背中を預けて座っていた。頭が痛い。でも、それだけだった。鼻血はない。吐き気もない。ジャムの代償は、頭痛だけ。でも、あの一秒で、おばちゃんが助かった。守られてばかりだった私が、指先一つ分でもなく、耳一つ分でもなく、今度は、この能力で、誰かの命を、一秒分、繋いだ。嬉しい、と言っていいのか、分からなかった。人を狂わせる力で、人を助けた。
みいさんの声が聞こえる。おばちゃんを落ち着かせている。「大丈夫」を繰り返している。いつもの「よかった」と、同じ声。でも今は、泣きそうだった。ことはが戻ってきた。
「お姉ちゃん。……頭、痛い?」
「……少しだけ」
ことはが隣に座った。肩に頭を乗せてきた。小さい頭。
「……ことはの方が、疲れてるでしょ」
「ん。でも、お姉ちゃんの肩が、あったかい」
子供だった。策を練って、走り回って、道を塞いで、指示を出して。全部やって、終わったら、肩に頭を乗せてくる。大人ぶりが全部剥がれた、子供だった。しおりさんが歩いてきた。足音が軽い。身体強化を解いている。
「終わった。逃げたのが何人かいるけど、もう来ないと思う」
「しおりん、怪我は」
「ないよ。みいは?」
「おばちゃんと一緒にいる」
しおりさんが座った。壁に背中を預けた。三人で、並んで座っている。夕方の光が、終わりかけていた。空の明るさが、ゆっくりと沈んでいく。
「……ことは」
しおりさんの声。
「ん?」
「あの作戦、すごかったよ」
「……お兄ちゃんの、受け売り」
「受け売りでも、使えたのは、ことはだよ」
ことはが黙った。肩の上の頭が、少し、重くなった。照れていた。あの家で教わったものを、今日、この子は自分のものにして、村を守った。主人様の受け売りが、ことはの手の中で、ちゃんとことはの力になっていた。それが、私には少しだけ眩しかった。




