シンクロニシティ 1
六日目の午後。みいさんの家の前に座っていた。日が傾き始めている。ぼやけた光が、畑の上を、ゆっくりと滑っていく。風が、穏やかだった。
しおりさんとことはが、村の外に出ていた。薪を拾いに行くと言っていた。チーも連れていった。みいさんは家に残っている。洗い物をしている。いつもの音。私も、壁に背中を預けて、目を開けていた。ぼやけた村の輪郭が、夕方の光で、少しだけ柔らかく見える。近くのものの形が、この頃、前より少しだけ掴める様になってきた。それが嬉しいのか、あの夜の線を思い出して怖いのか、自分でも、まだ決めかねていた。
みいさんが出てきた。隣に座った。手を拭きながら。しばらく、二人とも黙っていた。いつものことだった。口下手同士の沈黙。この沈黙にも、少しずつ、慣れてきていた。
「……さゆりさん」
「……はい」
「……あの、昨日の、しおりさんの話」
旅の誘い。みいさんは、まだ答えを出していない。二日、経っている。しおりさんは、何も言わない。ただ、待っている。
「……まだ、決められなくて」
「……はい」
「……こわいのは、変わらないです」
「……はい」
みいさんが膝を抱えた。いつもの姿勢。小さくなる姿勢。それから、長い沈黙のあとで、ほとんど消えかけた声が、風に混じってこぼれた。
「……でも、一緒に行けたら楽しそうだな、って。思うんです。しおりさんと、ことはちゃんと、さゆりさんと」
名前を、全部言った。四人分。
「……でも、こわいのは、こわくて」
声が震えていた。怖いのに、楽しそうだと思っている。行きたいのに、行けない。答えはもう、この人の中で出ているのに、体だけが追いつかない。
「……みいさん。……楽しそう、って言いました」
「……え」
「……こわい、じゃなくて。楽しそう、が、先に出た」
みいさんが黙った。自分の言葉を、今、初めて聞き直したみたいだった。
「……あ」
「……それだけで、いいと思います」
口下手の、精一杯だった。励ましでもない。背中を押したわけでもない。ただ、聞こえたことを、そのまま返しただけ。それでも、この人には、伝えたかった。あなたの一番先に出てきた本音は、こわいじゃなくて、楽しそう、だった。それを、私はちゃんと聞きましたよ、と。みいさんが鼻を啜った。泣いてはいなかった。でも、近かった。
「……ありがとう、ございます」
声が震えたまま、少しだけ笑っていた。泣きそうで、笑っている。この人はいつも、そうだった。
風が、変わった。
一瞬だった。草の匂いの中に、別の匂いが混じった。薄い。でも、覚えのある匂い。金属。油。研いだ刃と、手入れをした革の匂い。武器の匂いだった。心臓が、跳ねた。ドライアウトの夜と、同じだった。あの時は、血の匂いがしなかった。石鹸の匂いがした。だから、助かった。今は、違う。金属と油の匂いが、風上からまっすぐ流れてくる。
「……みいさん。匂い。分かりますか」
みいさんが鼻を動かした。小さく。
「……分から」
「金属です。油の匂い。武器の……」
みいさんの体が、強張った。隣で、空気が変わった。
「ど、どっちから」
「……西。風上」
みいさんが立ち上がった。速かった。あの木の実の時と、同じ。体が先に動いていた。家の中に入って、すぐに出てきた。手に、槍を持っていた。丸盾を、左腕に通していた。別人だった。さっきまで膝を抱えて泣きそうだった人間が、武器を持った瞬間に、変わった。変わったのではない。怖がっていた。手が震えていた。槍の穂先が、小さく揺れている。それでも、立っていた。立とうと、していた。
「さゆりさん、家の中に」
「……はい」
「鍵、ないけど、とにかく中に」
壁に手をついて、立ち上がった。体がまだ重い。それでも、動ける。みいさんの家の中に入った。土間に座って、壁に背中を預ける。入り口から、みいさんの背中が見えた。ぼやけた輪郭。槍を構えている。丸盾を前に出している。構えが、不格好だった。誰かに教わった、訓練の形。実戦の形ではない。
足音が聞こえた。複数。西から。草を踏む音。重い。走っている。三つ。四つ。五つ。五人。
「……来る」
みいさんが呟いた。声が震えていた。でも、槍を、下げなかった。
足音が近づいてくる。散開している。囲もうとしている。この小さな家を。みいさんを。みいさんが一歩下がって、入り口を背にした。背中で、私を守る位置に、立った。守られる側に、また、私はいる。走ることもできず、戦うこともできず、ただ、この人の背中の後ろで息をひそめている。悔しさすら、体の重さに溶けて、うまく形にならなかった。
最初の一人が、飛び出してきた。みいさんが盾を上げた。金属がぶつかる音。衝撃。みいさんの足が滑った。踏ん張った。弾いた。不格好だった。力任せだった。でも、弾いた。二人目が、横から来た。みいさんの視界の、端。振り向かなかった。振り向く前に、槍が動いた。横に薙いだ。二人目の武器に当たって、弾き返した。
「っ!」
みいさんの息が荒い。怖い。怖がっている。それでも、体が、止まらない。まるで、目と手が頭を置き去りにして勝手に動いている様に、体だけが先に前へ出ていた。三人目。前から。正面。みいさんが盾を構えた。突っ込んでくる。弾いた。また不格好に。また力任せに。技術が、ない。経験も、ない。それなのに、見えている。全部、見えている。どこから来るか、何が来るか。あの木の実を掴んだ目が、飛んでくる刃の一つひとつを、落ちてくる前に捉えている。見えているから、間に合っている。
でも、息が荒くなっていた。腕が震えている。盾を持つ左腕が、下がりかけている。体力が、追いついていない。見えているのに、体の方が、重くなっていく。目だけが凄くて、体がついてこない。それは、少しだけ、私に似ていた。耳だけが凄くて、何もできない、私に。
四人目が、回り込んだ。死角。みいさんの背中側。入り口。私の、目の前。匂いで分かった。近い。金属の匂いが、すぐそこにある。
体が、動いた。ジャムではなかった。ただ、声が、出た。
「みいさん、後ろ!」
みいさんが振り返った。速い。でも、遅い。間に合わない。四人目の武器が、振り下ろされる。
音が、変わった。空気が裂ける音。速い。横から。足音。一つだけ。重い。地面を蹴る音が、異常に、深い。しおりさんだった。空気が圧縮される音がした。足音が急に重くなる。身体強化。しおりさんの体が、一瞬だけ、別の重さになっている。四人目が、吹き飛んだ。しおりさんの蹴りだった。音だけで、分かった。回し蹴り。四人目の体が横に飛ぶ音。草に叩きつけられる音。動かなく、なった。
「遅れてごめんね」
軽かった。息も、切れていなかった。五人目が逃げようとした。背を向けた。しおりさんが追った。三歩。足音が重い。一歩ごとに、地面が沈む音がする。通常の人間の歩幅では、ない。追いついた。五人目を、押し倒した。終わった。静かに、なった。草の上に、五人が倒れていた。ぼやけた輪郭が、動かなくなっている。
しおりさんが立っていた。息を吐いた。一つだけ。足音が軽くなった。身体強化を解いた。普通のしおりさんの足音に、戻った。
「みい。怪我ない?」
「な、ないです」
みいさんの声が、裏返っていた。
「よかった」
しおりさんがみいさんの頭を撫でた。音で分かった。手のひらが髪に触れる音。
「一人で四人相手にしてたね」
「し、してないです。全然、弾いただけで」
「弾けるのがすごいんだって」
みいさんが黙った。ことはが走ってきた。チーが並走している。
「しおりん! みい!」
「大丈夫。終わった」
ことはが、倒れている五人を見回した。
「……五人?」
「遊撃隊だと思う。小規模」
しおりさんの声が、変わった。明るさが、消えていた。
「……小規模ってことは」
「うん。本体が、別にいる」
ことはの呼吸が変わった。浅くなった。考え始めている。
「どこに向かってる?」
「たぶん……」
しおりさんが西を見た。
「……村」
みいさんの息が、止まった。声が、消えた。この人が何年も暮らしてきた、小さな村。おばちゃんのいる村。人が多いと小さくなってしまう、それでも好きだと言った、あの村。
「……村」
「行こう」
しおりさんが走った。ことはがチーに飛び乗った。みいさんが走った。槍を持ったまま。丸盾を腕に通したまま。さっきまで「こわい」と震えていた足で、迷わず、村の方へ。
私は、みいさんの家の土間に、座っていた。走れなかった。膝に力が入らない。目だけが、耳だけが、こういう時にいつも、動く。遠ざかっていく四人分の足音を、私はただ暗がりの中で聞いていた。せめて、みんなが無事に戻ってくる、その足音を聞き逃さない様にと、耳だけを、精一杯、西へ、伸ばしながら。




