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No Look Jamming〜私は見る事ができない〜  作者: 船木
砂のお城
28/29

転機はいつも気まぐれに 4

 三日目の朝、ことはがみいさんの台所に立っていた。

「みいみい、これ何?」

「あ——それは——干した木の実で——」

「食べていい?」

「え——うん——でもそのままだと硬い——」

 ことはが齧った。

「……硬い」

「だから——言ったのに——」

 ことはがチーに半分あげた。チーも齧った。チーは平気だった。

「チーだけ食べれるのずるい」

 みいさんが小さく笑った。

 三日で、ことはがみいさんに懐いた。完全に。初日の夜に粥を出されたあたりから始まっていた。ご飯を作ってくれる人には弱い。ことはは正直だった。

 しおりさんの足は少しずつ良くなっていた。まだ引きずっている。でも、壁に手をつかなくても歩けるようになった。

 私の熱は二日目の夜に下がった。頭のぼんやりは残っている。体が重い。でも、起き上がれるようになった。

 目は、開けたり閉じたりしている。

 線は見えない。ぼやけた世界。近くのものは輪郭が見える。遠くは色の塊。みいさんの家の中なら、棚の位置と窓の光は分かる。

 開けている時間が少しずつ増えていた。

 みいさんが朝の支度をしている音が聞こえる。水を汲む。火を起こす。鍋を置く。同じ順番。毎朝同じ手順で、同じ音を立てる。迷いがない音。この家の中だけで鳴る音。

「しおりん!」

 ことはが入り口から叫んだ。

「何ー?」

 外からしおりさんの声がした。

「みいが木の実くれたー!」

「いいなー!」

「しおりんの分もあるよー」

「持ってきてー!」

 ことはが走っていった。チーが追いかけた。

 みいさんが鍋の前で固まっていた。

「……あの——勝手に——あげちゃって——」

「いいよ。ことはが喜んでるから」

「え——でも——」

「みいさん」

「……はい」

「いいんだよ」

 みいさんが黙った。

 鍋をかき混ぜる音が再開した。少しだけ、手の動きが柔らかくなっていた。

 外でしおりさんとことはが何か話している。笑い声が混じっている。三日前まではなかった音。この家に、少しずつ音が増えている。

 しおりさんが戻ってきた。入り口に寄りかかった。

「みい、今日の予定は?」

「え——予定——洗濯と——畑の——」

「手伝うよ」

「え——いいです——足——」

「洗濯なら座ってできるでしょ」

「え——まぁ——」

「決まり」

 みいさんが何か言おうとして、やめた。しおりさんのペースに巻き込まれている。三日で学んだはずなのに、まだ抵抗しようとする。そして毎回負ける。

「さゆりは?」

 しおりさんが聞いた。

「……大丈夫です。座ってます」

「無理しないでね」

「はい」

 しおりさんが外に出た。みいさんもついていった。鍋を火から降ろして、洗い物の桶を持って。

 静かになった。

 一人になった。

 みいさんの家の音がない。火が消えかけている。薪がときどき小さく弾ける。それだけ。

 目を開けた。

 天井の茶色。壁の灰色。窓から差す光。ぼやけている。でも、三日前より少しだけ輪郭がはっきりしている。気のせいかもしれない。

 棚の上にみいさんの器が並んでいる。木の器。大きさが揃っていない。でも、全部きれいに洗ってある。

 窓の向こうに色が見えた。緑。畑の緑。その向こうに、別の色。建物の壁。村の輪郭。ぼやけた世界の中の、ぼやけた村。

 外から声が聞こえた。

 しおりさんとみいさんの声。近い。家のすぐ横。洗濯をしている。

「みい、これどうやって絞るの?」

「あ——こうやって——こう——」

「あ、なるほど。力いるね」

「し、しおりさんは——力強いから——」

「そう? 普通だよ」

「普通じゃないです——」

 しおりさんが笑った。

「みいは力ないの?」

「ないです——すごく——」

「洗濯いつもどうしてるの」

「時間かけて——ゆっくり——」

「偉いなぁ」

「え——偉くない——全然——」

 同じやり取り。ドライアウトの朝にも聞いた。褒められると全力で否定する。でも、声が嫌がっていない。否定しているのに、声の奥が少しだけ嬉しそうにしている。

 水の音が続いている。布を揉む音。絞る音。

「ねぇ、みい」

「はい」

「この村、好き?」

 間があった。

「……好き——です」

「でも?」

「……でも、は——ないです」

「そう?」

「……好きです。みんな優しいし。おばちゃんも——いつも気にかけてくれるし」

「うん」

「……ただ——」

「ただ?」

「——人が——多いと——ちょっと——」

 止まった。言葉を探している。見つからない。

「緊張する?」

 しおりさんが補った。

「……はい」

「小さい村なのに?」

「……小さくても——人は——人なので——」

 しおりさんが黙った。少しだけ。

「分かるよ」

「え——しおりさんが——?」

「分からないと思った?」

「……思いました」

 しおりさんが笑った。否定しなかった。

 水の音が続いた。洗濯の音。穏やかな音。

 ことはが駆けてきた。

「しおりん、チーが畑に入っちゃった」

「え、大丈夫?」

「おばちゃんが怒ってる」

「行こう。みい、ごめん」

「え——あ——」

 しおりさんとことはが走っていった。しおりさんはまだ右足を引きずっていた。でも走れていた。ことはが横で何か言っている。しおりさんが笑いながら答えている。

 みいさんが残された。

 しおりさんの声が遠ざかっていく。さっきまですぐ隣にあった声が、どんどん小さくなっていく。

 洗濯の水の中に手を入れたまま、止まっていた。

 しばらく動かなかった。

 声が聞こえた。遠くで。しおりさんがおばちゃんに謝っている。ことはがチーを引っ張っている。おばちゃんが「もう、しょうがないね」と笑っている。

 みいさんが動いた。

 洗濯を再開した。

 手の動きが遅かった。いつもの迷いのない手つきとは違う。何かを考えている手つき。水の中で、指が止まったり動いたりしている。

 私は壁に背中を預けたまま、窓の向こうのぼやけた光を見ていた。

 しおりさんの声が遠くで聞こえる。明るい。眩しい。みいさんの家に来てから、しおりさんの声はずっとあの調子だった。嘘のない方の明るさ。

 みいさんが洗濯を終えた。干す音。布を広げる音。

 入ってきた。

 私の隣に座った。

「……さゆりさん」

「……はい」

「……体——どうですか」

「……楽です」

「よかった」

 また。何回目か分からない。でも、毎回本気で安堵している。

「……あの」

「……はい」

「……目——少し——見えてますか」

「……少しだけ」

「……そうですか」

 みいさんが膝を抱えた。音で分かった。

「……あの人——しおりさん——すごい人ですね」

「……はい」

「……来て三日で——村の人と——もう——」

 言葉が途切れた。

「……私——何年もいるのに——」

 止まった。

 長い沈黙。

「……ごめんなさい——変なこと——」

「……変じゃ、ないです」

 自分の声が出た。口下手が口下手に答えている。

「……しおりさんは、ああいう人です。……最初から。ずっと」

「……すごいですね」

「……はい。すごいです」

「……しおりさんみたいに——なれたらって——思う——ことが——あります」

 みいさんの声が小さくなった。最後の方は、ほとんど消えかけていた。

 黙った。

 言葉を探していた。喉の奥にあるのに、出てこない。いつもそうだった。大事なことほど、出てこない。

「……私も」

 みいさんが顔を上げた。気配で分かった。

「……さゆりさんも——?」

「……私は、口下手なので」

「……私も——です」

「……はい」

 沈黙。

 二人とも、次の言葉が出てこなかった。

 口下手と口下手が隣に座って、言葉を探して、見つからなくて、黙っている。

 窓の外で、しおりさんの声がした。

「みいー! お昼何がいいー?」

 みいさんが跳ねた。

「え——あ——何でも——」

「何でもじゃ分かんないよー!」

「え——えっと——」

 立ち上がった。慌てて外に出ていった。つまずきかけた。踏みとどまった。

 しおりさんの笑い声が聞こえた。

 みいさんの「えっと——えっと——」が聞こえた。

 ことはの「肉!」が聞こえた。

 チーが鳴いた。

 窓からの光が、ぼやけた部屋を照らしている。

 三日前、ここに辿り着いた時、この部屋は静かだった。みいさんの台所の音だけが埋めていた。

 今は違う。音が増えている。声が増えている。この小さい家に、人が増えている。

 胸の底で、あれが沈んでいる。ジャム。まだ黙っている。まだ何もしていない。でも、消えてもいない。

 消えなくていい。

 今は。

 まだ分からないことだらけだった。線のこと。目のこと。ジャムのこと。これからのこと。

 でも、窓の外で声がしている。

 みいさんの「えっと」が聞こえる。しおりさんの笑い声が聞こえる。ことはの「肉!」が聞こえる。

 座っていた。壁に背中を預けて。窓からの光の中で。

 それだけで、今は。


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