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No Look Jamming〜私は見る事ができない〜  作者: 船木
砂のお城
27/28

ドライアウトの漂着先 3

 匂いがした。

 温かい匂い。穀物を煮ている。薄い。でも確かに食べ物の匂い。

「……いい匂い」

 ことはが言った。いつの間にか起きていた。チーに寄りかかったまま、目を細めている。

「そう——ですか? あんまり美味しくないかも——」

「いい匂い」

 ことはが繰り返した。みいさんが黙った。

 ことはが器を受け取った。木の器と木の匙。

「いただきます」

 食べ始めた。

「……おいしい」

 小さい声。震えていた。疲れと空腹と、もう一つ何か。ことはの声が震えることは、あまりない。

 器が私にも渡された。みいさんの手。温かい器。

「あの——食べられますか——無理しないでいいので——」

 口に運んだ。穀物の粥。薄い味。塩と、少しだけ何かの葉の味。

 胃が受け付けた。温かいものが喉を通って、胸を通って、胃に落ちた。空っぽだった場所が、少しだけ埋まった。

「……おいしいです」

「え——ほんとですか——よかった——」

 よかった。何回言うんだろう、この人は。

 ことはが食べ終わった。器を置いた。私の肩に頭を乗せた。

 三十秒で寝息に変わった。

「……すごい寝つき」

 みいさんが呟いた。

「疲れてるからね。昨日、さゆりを背負ってずっと歩いてた」

 しおりさんの声。起きていた。いつの間に。

「え——この子が——?」

「まだ子供だよ。ことはと同じくらいの背丈の」

「——この子と——」

 みいさんの声が詰まった。

「あの——怪我——背中の——」

「打撲。折れてはなさそうだけど、しばらく安静がいい」

「布——巻いた方が——持ってきます——」

 立ち上がった。棚を漁る音。布を見つけた。戻ってきた。

 しおりさんがことはの服をそっとめくった。ことはは起きなかった。

「……ここ」

「あ——大きい——」

 みいさんの息が詰まった。

「大丈夫。打撲だから。巻いておけば楽になる」

 布を巻く音。静かに。起こさないように。

 ことはが小さく身じろぎした。寝息は続いていた。

 しおりさんが服を戻した。

「ねぇ、みい」

「はい」

「ここ、しばらくいていい?」

「え——はい——もちろん——」

「お金とか気にしなくていいよ。落ち着いたら何か手伝うから」

「お金なんて——いらないです——」

 本気だった。

「……ありがとう」

 しおりさんの声が掠れた。一瞬だけ。すぐに戻した。

 静かになった。

 ことはの寝息。チーの息。火がぱちぱちと弾ける音。みいさんが鍋を片付ける音。

 しおりさんの呼吸がまた深くなっていった。眠り直した。布を被ったまま。

 目を閉じている。

 ずっと閉じている。

 昨日の夜から。

 開けたら何が見えるのか分からなかった。

 線が見えるのか。あの赤と青と黄色のぐちゃぐちゃな線が、まだ見えるのか。見えたら、また壊れるのか。

 見えなかったら。

 線が消えていたら。あの夜に見えていたものが全部なくなっていたら。

 それは、それで。

 胸の奥で、あれが沈んでいる。黙っている。何もしていない。でも、いる。消えていない。ただ、底の方に、ある。

 ジャム。

 知っている。使ったことがある。でも、あの時起きたことは知らない。いつもなら視界を奪う。あの夜は違った。一拍を二拍にした。怪物の足が交差した。自分の足につまずいた。

 私がやった。

 分からないと言った。ことはに。嘘だった。嘘で、本当で、どっちでもあって。分からないのは本当だった。でも、偶然ではないことも知っていた。

 みいさんが近くに座った。

 布を替えようとして、額に布がないことに気づいた。朝の間に落ちていた。

「あ——冷やした方が——」

「……大丈夫です。もう楽です」

「でも——まだ熱い——」

 手が額に触れた。みいさんの手。昨日より落ち着いている。

「……下がってる。よかった」

 また。

 みいさんの手が離れた。

 隣に座っている。何か言いたそうにしている。言えないでいる。

「……あの」

「……はい」

「……目——怪我してるんですか」

「ずっと——閉じてるから——」

「……怪我じゃ、ないです」

「……そうですか」

 追わなかった。でも、隣にいた。

 みいさんの呼吸が聞こえる。少し不規則。考えている。言葉を探している。

「……あの——私——」

 止まった。

「……なんでもないです」

 何かを言いかけて、やめた。

 たぶん、さっきの村人のこと。「また拾ってきたの?」。あれを、謝ろうとしたのか。説明しようとしたのか。分からない。でも、喉まで来て、飲み込んだ。

 みいさんが立ち上がった。水を汲みに行った。戻ってきた。器を私の手に持たせた。

「飲めますか」

「……はい」

 飲んだ。冷たい。喉を通る。

「……みいさん」

 自分の声が出た。

 呼ぼうと思ったわけではなかった。口が勝手に開いた。喉の奥から、名前が出てきた。ジャムの時とは違う。あれは底の方から来た。これは、もっと浅い場所から。

 みいさんが止まった。

「……はい」

「……粥、おいしかったです」

 それだけだった。

 言えたのは、それだけだった。もっと言いたいことがあった。ありがとうとか。すみませんとか。迷惑かけてるのに、とか。でも言葉が出てこなかった。口下手は治らなかった。熱があっても、体が動かなくても、それだけは変わらなかった。

 みいさんが黙った。

 長い間。

「——ありがとうございます」

 声が震えていた。

 泣きそうな震えだった。泣いてはいなかった。でも、声の奥が揺れていた。粥をおいしいと言われたことが、そんなに大きなことだったのか。この人にとって。

 みいさんが離れた。火の前に戻った。鍋を洗う音がした。水の音。擦る音。丁寧に。ゆっくり。

 手が震えていた。音で分かった。

 目を開けた。

 自分で。誰にも言われずに。

 みいさんの背中を見たかった。

 薄く開いた。光が入ってきた。ぼやけていた。天井の茶色。壁の灰色。入り口から差す白い光。

 線は見えなかった。

 ただの、ぼやけた世界。色の境界が曖昧で、形が定まらない。普通の——私の、普通の視界。

 みいさんの背中が見えた。

 ぼんやりと。輪郭だけ。短い髪。細い肩。小さい背中。火の前にしゃがんで、鍋を洗っている。

 肩が震えていた。

 声は出していなかった。でも、肩が小さく上下していた。

 泣いていた。

 声を出さずに。振り返らずに。鍋を洗いながら。

 見てしまった。

 目を閉じた。

 また、音と匂いの世界に戻った。

 鍋を洗う音が続いている。水の音。擦る音。少しずつ、震えが収まっていく。

 見なかったことにした。

 でも、覚えていた。ぼやけた世界の中の、あの小さい背中。震えている肩。声を出さないこと。振り返らないこと。

 ことはの頭が肩の上で少し動いた。寝返り。小さい。

 しおりさんは眠っている。壁に背中を預けたまま。布を被ったまま。

 鍋を洗う音が止まった。

 みいさんが立ち上がった。振り返った。足音がこちらに来る。

 私の隣に座った。

 何も言わなかった。

 ただ、隣にいた。

 ここに辿り着いた。

 全部使い果たして。足も動かない。目も開けられない。嘘をついて。嘘をつかれて。ことはに背負われて。

 何もない。何も残っていない。

 でも、屋根がある。壁がある。隣に人がいる。肩の上に小さい頭が乗っている。入り口の近くでチーが丸くなっている。壁際でしおりさんが眠っている。

 全部使い果たした場所で。

 知らない人が、粥を作ってくれた。

 川の音が、まだ聞こえていた。


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