ドライアウトの漂着先 3
匂いがした。
温かい匂い。穀物を煮ている。薄い。でも確かに食べ物の匂い。
「……いい匂い」
ことはが言った。いつの間にか起きていた。チーに寄りかかったまま、目を細めている。
「そう——ですか? あんまり美味しくないかも——」
「いい匂い」
ことはが繰り返した。みいさんが黙った。
ことはが器を受け取った。木の器と木の匙。
「いただきます」
食べ始めた。
「……おいしい」
小さい声。震えていた。疲れと空腹と、もう一つ何か。ことはの声が震えることは、あまりない。
器が私にも渡された。みいさんの手。温かい器。
「あの——食べられますか——無理しないでいいので——」
口に運んだ。穀物の粥。薄い味。塩と、少しだけ何かの葉の味。
胃が受け付けた。温かいものが喉を通って、胸を通って、胃に落ちた。空っぽだった場所が、少しだけ埋まった。
「……おいしいです」
「え——ほんとですか——よかった——」
よかった。何回言うんだろう、この人は。
ことはが食べ終わった。器を置いた。私の肩に頭を乗せた。
三十秒で寝息に変わった。
「……すごい寝つき」
みいさんが呟いた。
「疲れてるからね。昨日、さゆりを背負ってずっと歩いてた」
しおりさんの声。起きていた。いつの間に。
「え——この子が——?」
「まだ子供だよ。ことはと同じくらいの背丈の」
「——この子と——」
みいさんの声が詰まった。
「あの——怪我——背中の——」
「打撲。折れてはなさそうだけど、しばらく安静がいい」
「布——巻いた方が——持ってきます——」
立ち上がった。棚を漁る音。布を見つけた。戻ってきた。
しおりさんがことはの服をそっとめくった。ことはは起きなかった。
「……ここ」
「あ——大きい——」
みいさんの息が詰まった。
「大丈夫。打撲だから。巻いておけば楽になる」
布を巻く音。静かに。起こさないように。
ことはが小さく身じろぎした。寝息は続いていた。
しおりさんが服を戻した。
「ねぇ、みい」
「はい」
「ここ、しばらくいていい?」
「え——はい——もちろん——」
「お金とか気にしなくていいよ。落ち着いたら何か手伝うから」
「お金なんて——いらないです——」
本気だった。
「……ありがとう」
しおりさんの声が掠れた。一瞬だけ。すぐに戻した。
静かになった。
ことはの寝息。チーの息。火がぱちぱちと弾ける音。みいさんが鍋を片付ける音。
しおりさんの呼吸がまた深くなっていった。眠り直した。布を被ったまま。
目を閉じている。
ずっと閉じている。
昨日の夜から。
開けたら何が見えるのか分からなかった。
線が見えるのか。あの赤と青と黄色のぐちゃぐちゃな線が、まだ見えるのか。見えたら、また壊れるのか。
見えなかったら。
線が消えていたら。あの夜に見えていたものが全部なくなっていたら。
それは、それで。
胸の奥で、あれが沈んでいる。黙っている。何もしていない。でも、いる。消えていない。ただ、底の方に、ある。
ジャム。
知っている。使ったことがある。でも、あの時起きたことは知らない。いつもなら視界を奪う。あの夜は違った。一拍を二拍にした。怪物の足が交差した。自分の足につまずいた。
私がやった。
分からないと言った。ことはに。嘘だった。嘘で、本当で、どっちでもあって。分からないのは本当だった。でも、偶然ではないことも知っていた。
みいさんが近くに座った。
布を替えようとして、額に布がないことに気づいた。朝の間に落ちていた。
「あ——冷やした方が——」
「……大丈夫です。もう楽です」
「でも——まだ熱い——」
手が額に触れた。みいさんの手。昨日より落ち着いている。
「……下がってる。よかった」
また。
みいさんの手が離れた。
隣に座っている。何か言いたそうにしている。言えないでいる。
「……あの」
「……はい」
「……目——怪我してるんですか」
「ずっと——閉じてるから——」
「……怪我じゃ、ないです」
「……そうですか」
追わなかった。でも、隣にいた。
みいさんの呼吸が聞こえる。少し不規則。考えている。言葉を探している。
「……あの——私——」
止まった。
「……なんでもないです」
何かを言いかけて、やめた。
たぶん、さっきの村人のこと。「また拾ってきたの?」。あれを、謝ろうとしたのか。説明しようとしたのか。分からない。でも、喉まで来て、飲み込んだ。
みいさんが立ち上がった。水を汲みに行った。戻ってきた。器を私の手に持たせた。
「飲めますか」
「……はい」
飲んだ。冷たい。喉を通る。
「……みいさん」
自分の声が出た。
呼ぼうと思ったわけではなかった。口が勝手に開いた。喉の奥から、名前が出てきた。ジャムの時とは違う。あれは底の方から来た。これは、もっと浅い場所から。
みいさんが止まった。
「……はい」
「……粥、おいしかったです」
それだけだった。
言えたのは、それだけだった。もっと言いたいことがあった。ありがとうとか。すみませんとか。迷惑かけてるのに、とか。でも言葉が出てこなかった。口下手は治らなかった。熱があっても、体が動かなくても、それだけは変わらなかった。
みいさんが黙った。
長い間。
「——ありがとうございます」
声が震えていた。
泣きそうな震えだった。泣いてはいなかった。でも、声の奥が揺れていた。粥をおいしいと言われたことが、そんなに大きなことだったのか。この人にとって。
みいさんが離れた。火の前に戻った。鍋を洗う音がした。水の音。擦る音。丁寧に。ゆっくり。
手が震えていた。音で分かった。
目を開けた。
自分で。誰にも言われずに。
みいさんの背中を見たかった。
薄く開いた。光が入ってきた。ぼやけていた。天井の茶色。壁の灰色。入り口から差す白い光。
線は見えなかった。
ただの、ぼやけた世界。色の境界が曖昧で、形が定まらない。普通の——私の、普通の視界。
みいさんの背中が見えた。
ぼんやりと。輪郭だけ。短い髪。細い肩。小さい背中。火の前にしゃがんで、鍋を洗っている。
肩が震えていた。
声は出していなかった。でも、肩が小さく上下していた。
泣いていた。
声を出さずに。振り返らずに。鍋を洗いながら。
見てしまった。
目を閉じた。
また、音と匂いの世界に戻った。
鍋を洗う音が続いている。水の音。擦る音。少しずつ、震えが収まっていく。
見なかったことにした。
でも、覚えていた。ぼやけた世界の中の、あの小さい背中。震えている肩。声を出さないこと。振り返らないこと。
ことはの頭が肩の上で少し動いた。寝返り。小さい。
しおりさんは眠っている。壁に背中を預けたまま。布を被ったまま。
鍋を洗う音が止まった。
みいさんが立ち上がった。振り返った。足音がこちらに来る。
私の隣に座った。
何も言わなかった。
ただ、隣にいた。
ここに辿り着いた。
全部使い果たして。足も動かない。目も開けられない。嘘をついて。嘘をつかれて。ことはに背負われて。
何もない。何も残っていない。
でも、屋根がある。壁がある。隣に人がいる。肩の上に小さい頭が乗っている。入り口の近くでチーが丸くなっている。壁際でしおりさんが眠っている。
全部使い果たした場所で。
知らない人が、粥を作ってくれた。
川の音が、まだ聞こえていた。




