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No Look Jamming〜私は見る事ができない〜  作者: 船木
砂のお城
26/29

ドライアウトの漂着先 2

 鳥が鳴いていた。

 遠い。高い。朝の鳥。夜の間は聞こえなかった種類の声。

 目を閉じたまま、意識が浮かんできた。体が重い。背中の下に草の感触。湿っている。朝露。

 熱は少し引いていた。まだある。頭の芯がぼんやりと熱い。でも、昨日の夜みたいに全身が燃えている感覚は消えていた。

 額に布が乗っている。

 冷たくない。温まっている。しばらく替えられていない。

 隣に気配があった。

 呼吸。浅い。規則的。眠っている。

 みいさん。

 いつ眠ったのか分からない。ずっと起きていた。布を替え続けていた。いつの間にか、座ったまま眠っていた。

 体が少し傾いている。私の方に。肩が触れそうな距離。触れてはいない。

「……起きた?」

 しおりさんの声。小さい。近い。

 起きていた。ずっと。

「……はい」

「熱、少し下がったね」

「……分かるんですか」

「顔色。……って、目閉じてるから分かんないか。汗が引いてきた」

 しおりさんが小さく笑った。作った笑いではなかった。

「しおりさんは……寝ましたか」

「うん。ばっちり」

 嘘。声に夜通しの疲れが滲んでいた。

 ことはの寝息がまだ聞こえる。チーの体温に包まれて、深く眠っている。

 しおりさんが立ち上がった。右足をかばっている。音で分かる。

「みい」

 しおりさんが呼んだ。静かに。

「……ん」

「朝だよ」

「——あっ」

 跳ねた。座ったまま体がびくっと動いた音。

「ね、寝てた——すみません——」

「いいよ。ありがとね」

 みいさんが立ち上がった。草を払う音。

「あの——村——私の家——近いので——よかったら——」

「行っていい?」

 しおりさんが即答した。みいさんが言い終わる前に。

「えっ——あ——はい——でも——狭いです——すごく——」

「屋根がある?」

「……あります」

「じゃあ最高だね」

 ことはが起きた。

「……ん……朝……?」

 まだ半分寝ている声。

「ご飯……」

 子供だった。

 しおりさんが笑った。

「ご飯あるって。行こう」

「……行く」

 チーの背中に乗った。たてがみを握った。ことはの背中とは違う。揺れが大きい。でも安定している。四つ足の、確かな歩き方。

 みいさんが先頭を歩いている。足音が軽い。でも不規則。ときどき何かにつまずく。そのたびに小さく「あっ」と言う。

 しおりさんが隣を歩いている。右足を引きずる音が、草の上だと目立たない。でも、歩幅が左右で違うのが呼吸のリズムで分かった。

 川の音が少しずつ遠ざかっていく。昨日の夜からずっと聞こえていた音。離れていく。

 朝の空気が湿っていた。草の匂い。露の匂い。冷たくて、柔らかい。あの甘い匂いも、血の匂いも、ここにはない。

 森が薄くなっていく。風が通る。開けていく。

 匂いが変わった。

 土。耕された土。畑の匂い。生活の匂い。鶏が遠くで鳴いている。

「あの——ここが——リンデンフォードです」

 みいさんの声が小さくなった。

 さっきまでと違った。

 川辺で走り回っていた声と違う。恥ずかしそうだった。歩幅が少し狭くなった。

「小さい村ですけど……」

 音で分かる。小さい村だった。足音が響かない。建物が少ない。声が遠くに抜ける。

 どこかで扉が開いた。

 気配。朝の空気の中に、人の気配が混じった。こちらに気づいている。小さい村だから、知らない人間が来ればすぐに分かる。

 みいさんの足が少し速くなった。

「あ——ここです——こっちです——」

 声が小さい。恥ずかしいのだ。知らない人を連れてきたことが。川辺では一人だったから声が出ていた。人目があると、みいさんは小さくなる。

 誰かが声をかけた。遠くから。年配の女の声。

「みいちゃん、誰? その人たち」

 みいさんが止まった。

 一拍。

「あ——あの——旅の方で——怪我を——」

「また拾ってきたの?」

 また。呆れたような、笑っているような声だった。

 みいさんが黙った。短い沈黙。言い訳が見つからない沈黙。

「……すみません——また——」

 みいさんが言った。顔が赤くなっている声だった。

 しおりさんが歩いた。みいさんの横を通り過ぎて、声の方に向かった。右足を引きずっている。でも、歩く音が変わった。背筋が伸びた音がした。

「すみません、ご迷惑おかけします。しばらくお世話になるかもしれません」

 しおりさんの声。聞いたことのないトーンだった。明るくもない。冷たくもない。丁寧で、真っ直ぐで、大人の声だった。

「仲間が怪我をしていて。みいさんに助けていただきました」

 間があった。

「……そう。大変だったね」

「みいちゃん、布は足りてる? うちにもあるから」

「あ——はい——大丈夫です——ありがとうございます——」

「足りなかったら言いなさいよ」

 温かかった。当たり前のように手を差し出す声だった。

 足音が遠ざかった。扉が閉まる音。

 みいさんが動いた。

「あの——こっち——」

 声がまだ小さかった。でも、村人が行ってから少しだけ戻っていた。

 扉が開いた。木の扉。軋む。古い。

「散らかってて——すみません——」

 中に入った。石鹸の匂い。昨日嗅いだのと同じ匂い。みいさんの家の匂い。

 チーから降ろしてもらった。壁に背中を預けた。土間。固い地面。狭い。

 でも、屋根がある。風が来ない。壁がある。

 みいさんが棚を開けた。器を出した。水を汲みに行った。戻ってきた。

 手つきが違った。

 川辺のみいさんとは違う。おろおろしていない。動きに迷いがない。棚のどこに何があるか分かっている。器をどう持つか知っている。水をどれだけ汲むか分かっている。

 自分の家だった。

 外では小さくなっていた人間が、自分の台所に立った瞬間に、少しだけ背筋が伸びていた。

 みいさんが火を起こし始めた。擦る音。何度か失敗した。つく。薪がぱちぱち言い始めた。

 しおりさんが壁際に座った。右足を伸ばした。深い息を吐いた。

「……いい子だね」

 小さかった。みいさんに聞こえない声。私だけに聞こえた。

「……はい」

「また、って言ってたね。前にもやってるんだ、あの子」

 しおりさんが小さく笑った。

「嫌いになれない子だね」

「さゆり」

「……はい」

「寝るね」

 嘘じゃなかった。

 初めて。

 しおりさんが嘘をつかなかった。もう限界だということを、隠さなかった。私にだけ。ことはがチーに寄りかかって眠っているこの一瞬だけ。

 壁に背中を預けたまま、しおりさんの呼吸が深くなっていった。

 ゆっくり。一段ずつ。体が落ちていく。

 眠った。

 みいさんが振り返る気配がした。

 しおりさんを見ている。しばらく見ていた。

 立ち上がった。静かに。棚から布を出した。しおりさんに近づいた。被せた。

 何も言わなかった。

 戻ってきた。火の前に座った。

 穀物を鍋に入れる音がした。水を注ぐ音。匙でかき混ぜる音。

 静かだった。

 みいさんの台所の音だけが、小さい部屋を埋めていた。


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