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No Look Jamming〜私は見る事ができない〜  作者: 船木
砂のお城
25/28

ドライアウトの漂着先 1

 背中が揺れている。

 誰かの背中。小さい。骨が当たる。肩甲骨。ことはの背中。

 歩いている。足音が二つ。ことはの足と、もう一つ。蹄。チーの足音。

 川の音がずっと聞こえている。右側から。水の流れが岩を叩く音。距離は近い。川沿いに歩いている。

 目は閉じている。

 しおりさんに言われた。開けないで。だから閉じている。

 頭が重い。鼻血は止まった。でも、鼻の奥と唇にまだ乾いた血の感触が残っている。胃の中は空っぽだった。吐くものがもう何もなかった。

 体が熱い。

 いつからか分からない。背中が熱い。首が熱い。額が熱い。ことはの背中に触れている部分が、自分の体温で湿っている。

 ことはの肩が震えた。

 小さく一瞬だけ震えて、すぐに戻した。足は止まらなかった。

「しおりん、まだ乗ってて」

「もう降りるよ。足くらい——」

「しおりんが歩いたら足終わる」

 しおりさんが黙った。

 チーの背中に乗っている。ことはが無理やり乗せた。しおりさんは抵抗した。でもことはが許さなかった。

 ことはの背中が痛い。分かっていた。打撲。チーが庇ってくれたけど、ことはの背中には重い。その上に私が乗っている。三十八キロ。ことはの背中に、ずっと。

「……ことは」

「うん?」

「降ろして」

「やだ」

 短かった。聞く気がなかった。

「歩ける?」

「……」

「歩けないでしょ。だからいいの」

 足が動く感じがしなかった。膝に力が入らない。頭が重い。体が熱い。ことはの言う通りだった。

 川の音が少し変わった。流れが緩くなっている。水面が広くなった音。浅くなっている。

 風が変わった。

 森の匂いが薄くなっている。木の密度が減っている。開けた場所が近い。

 匂い。

 別の匂い。

 煙。

 心臓が跳ねた。

 誰かがいる。

 焚き火の匂い。木が燃えている。乾いた木。遠い。でも、風が運んできている。

「……しおりさん」

「うん。嗅いでる」

 しおりさんも気づいていた。

 鼻を使った。血の残りが邪魔だった。それでも、嗅ぎ分けた。

 血の匂いはしない。金属の匂いもしない。武器を手入れした油の匂いもない。

 石鹸の匂いがした。

 薄い。でも確かにある。洗い物をしている。焚き火のそばで。

「血の匂いはしないです。石鹸の匂いがします」

「石鹸?」

 しおりさんが小さく笑った。

「行こう」

 短かった。判断が速い。さゆりの熱が上がっている。しおりさんはそれを知っている。ことはの背中越しに、私の体温がどうなっているか。ことはの肩の震えが何を意味しているか。

 休める場所が要る。

 ことはが向きを変えた。煙の方に。足音が変わった。砂利から、土に。草の匂い。開けた場所に出始めている。

 ことはの足が揺れた。

 小さく。膝がつきかけた。すぐに立て直した。でも、体が一瞬傾いた。背中の筋肉が硬い。限界が近い。

「ことは」

「大丈夫」

 大丈夫じゃなかった。声が硬い。息が浅い。大人ぶっている。ことはが、ずっと大人ぶっている。

 草の匂いが濃くなった。川の音が近い。水辺の開けた場所。焚き火の匂いがはっきりしてきた。煙の暖かさが風に混じっている。

 ことはが止まった。

「……着いた」

 私を降ろした。背中からゆっくり滑らせるように。地面に座らせた。湿った草の感触。冷たい。体が熱いから、冷たさがわかる。

 ことはの手が離れた。

 音がした。

 崩れる音。膝が地面を叩く音。両手が草に沈む音。

「ふへぇ……つかれた」

 子供の声だった。

 大人ぶりが全部剥がれた声。ただの子供の声。疲れて、潰れて、もう何も繕えない声。

 そのまま横に倒れた。草の上に。チーが駆け寄る音。ことはの横に体を寄せた。ことはがチーの毛に顔を埋めた。

「チー、あったかい……」

 小さい。小さい声。小さい体。

 私を運んでいた体が、こんなに小さい。

 足音が聞こえた。

 遠くから。違う足音。知らない足音。軽い。裸足に近い。草を踏む音。

 止まった。長い間があった。

 また動いた。速い。走っている。こちらに向かって。

 転んだ。

 派手に。膝と手が地面を叩く音。

「い゛っ」

 声。女の声。低くない。若い。痛がっている。

 立ち上がった。また走った。近づいてくる。息が荒い。

 止まった。すぐ近くで。

 息を呑む音が聞こえた。

 私たちを見ている。ボロボロの三人と一匹を。崩れた子供と、座り込んでいる私と、チーの背中のしおりさんを。

「あ——あの——」

 声が震えていた。

「だ、大丈夫ですか——その——怪我——」

 言葉が散らかっていた。順番がめちゃくちゃだった。何から言えばいいか分かっていない。でも、体は動いていた。

 膝をつく音。私のそばに。

「熱い——すごい熱——ちょっと待って——」

 立ち上がった。走った。また転びかけた。踏みとどまった。水の音。川に入った。何かを浸している。布。絞る音。走って戻ってきた。

 額に布が乗った。

 冷たい。

 川の水の冷たさが、額から染み込んでくる。頭の熱が、少しだけ引いた。

「あ、あと——水——飲めますか——」

 器を持ってきた。木の器。唇に当てられた。水が流れ込んだ。冷たい。喉が焼けていたから、冷たさが沁みた。少しだけ飲んだ。胃が受け付けるか分からなかった。

 受け付けた。

 そのまま、もう少し飲んだ。

「よ、よかった……」

 声が震えたまま安堵していた。

 しおりさんがチーから降りた。音がした。右足をかばっている。

「ありがとう。助かった」

 しおりさんの声。通常モード。明るさを作っている。

「えっ——あ——いえ——」

 混乱していた。

「怪我——足——」

「あー、これは大丈夫。ちょっと捻っただけ」

 嘘。

「私はしおり。あっちで寝てるのがことは。こっちがさゆり」

「は——えっ——あ——み、みい、です」

「みい?」

「みいです」

「いい名前だね」

「え——いえ——そんな——」

 しおりさんが座る音がした。ゆっくり。右足を伸ばして。

「焚き火、みいの?」

「あ——はい——洗濯——してて——今日お休みで——朝早く起きちゃって——」

「洗濯好きなの?」

「え——好き——というか——早く起きると——やることなくて——」

 しおりさんが小さく笑った。

「真面目だね」

「え——いえ——全然——」

 みいさんが動いた。また私のそばに戻ってきた。額の布に手が触れた。温まっている。

「あ——替えますね」

 布を取って、走った。川に浸した。絞った。戻ってきた。また額に乗せた。冷たい。

 手がおろおろしていた。

 次に何をすればいいか分からないまま、でも手が止まらない。水を汲む。布を替える。隣に座る。また布を確認する。

 怪我人の前では体が先に動くタイプの人間がいる。そういう人の手の動きだった。

「……ことは」

 しおりさんの声。小さい。

 返事がなかった。

 チーに寄りかかったまま、眠っていた。

 ことはの寝息が聞こえた。小さくて、浅くて、疲れ切った寝息。

「……小さいな」

 しおりさんが呟いた。

 誰に言ったのでもなかった。

 みいさんがまた布を替えた。手つきが少しだけ落ち着いてきた。でもまだそわそわしている。隣に座ったまま、何か言いたそうにして、言えないでいる。

「みいはこの辺の人?」

 しおりさんが聞いた。

「あ——はい。リンデンフォード——あの、この先の——村です」

「村?」

「小さい村です。すごく」

「ここまで一人で?」

「あ——ここの方が——川が広くて——洗いやすいので——」

「朝からえらいね」

「ぜ、全然——全然えらくないです——」

 慌てていた。本気で否定していた。

 しおりさんが小さく笑った。本当の笑い。作っていない方。

 布が温まっている。みいさんが立ち上がった。また川に走った。足音が軽い。でもときどき何もないところでつまずく音がする。

 戻ってきた。布を替えた。

「……ありがとう、ございます」

 自分の声が遠かった。掠れていた。

「あ——当然です——こんなに熱いのに——」

 みいさんの声が近い。すぐ横にいる。

「……あの——もう少ししたら——もう一回お水飲めますか」

「……はい」

「あ——よかった——」

 同じ言葉。さっきも言っていた。よかった。本当に安堵している。私のことを何も知らないのに。ボロボロの知らない人間が転がり込んできただけなのに。

 しおりさんが木に背中を預ける音がした。さっきと同じ。

「私が見張りしてるから、みいも休んで」

 嘘。

 足が限界なのを知っている。見張りなんてできない。座っているのがやっとのはず。でも、しおりさんはそう言う。いつも。

「え——でも——」

「大丈夫。慣れてるから」

 慣れている。それは本当だった。嘘の中に本当が混じっている。

 みいさんは休まなかった。

 私の横に座ったまま、布を替え続けた。黙って。そわそわしながら。手が膝の上で何度も握られて、開かれて。何か言いたそうにして、結局何も言わない。

 でも、隣にいた。

 人の体温が近くにある。ことはの背中とは違う。しおりさんの手甲とも違う。知らない人の、知らない温度。おろおろしていて、落ち着かなくて、でも逃げない温度。

 焚き火の音が遠くで弾けている。

 川の音が流れている。

 ことはの寝息。チーの息。しおりさんの静かな呼吸。

 胸の奥で、何かが沈んでいた。

 待っていなかった。

 ただ、沈んでいた。

 底の方で、静かにしていた。笑ってもいない。何もしていない。人の手が額に触れて、冷たい水が熱を吸い取って、知らない声が「よかった」と言って。

 それだけで、少しだけ。

 ほんの少しだけ。

 静かになっていた。

 布が温まった。みいさんが立ち上がる気配がした。

 川に向かう足音。

 転んだ。

「い゛っ」

 二回目。

 立ち上がった。また走った。

 川の音を聞いていた。

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