ドライアウトの漂着先 1
背中が揺れている。
誰かの背中。小さい。骨が当たる。肩甲骨。ことはの背中。
歩いている。足音が二つ。ことはの足と、もう一つ。蹄。チーの足音。
川の音がずっと聞こえている。右側から。水の流れが岩を叩く音。距離は近い。川沿いに歩いている。
目は閉じている。
しおりさんに言われた。開けないで。だから閉じている。
頭が重い。鼻血は止まった。でも、鼻の奥と唇にまだ乾いた血の感触が残っている。胃の中は空っぽだった。吐くものがもう何もなかった。
体が熱い。
いつからか分からない。背中が熱い。首が熱い。額が熱い。ことはの背中に触れている部分が、自分の体温で湿っている。
ことはの肩が震えた。
小さく一瞬だけ震えて、すぐに戻した。足は止まらなかった。
「しおりん、まだ乗ってて」
「もう降りるよ。足くらい——」
「しおりんが歩いたら足終わる」
しおりさんが黙った。
チーの背中に乗っている。ことはが無理やり乗せた。しおりさんは抵抗した。でもことはが許さなかった。
ことはの背中が痛い。分かっていた。打撲。チーが庇ってくれたけど、ことはの背中には重い。その上に私が乗っている。三十八キロ。ことはの背中に、ずっと。
「……ことは」
「うん?」
「降ろして」
「やだ」
短かった。聞く気がなかった。
「歩ける?」
「……」
「歩けないでしょ。だからいいの」
足が動く感じがしなかった。膝に力が入らない。頭が重い。体が熱い。ことはの言う通りだった。
川の音が少し変わった。流れが緩くなっている。水面が広くなった音。浅くなっている。
風が変わった。
森の匂いが薄くなっている。木の密度が減っている。開けた場所が近い。
匂い。
別の匂い。
煙。
心臓が跳ねた。
誰かがいる。
焚き火の匂い。木が燃えている。乾いた木。遠い。でも、風が運んできている。
「……しおりさん」
「うん。嗅いでる」
しおりさんも気づいていた。
鼻を使った。血の残りが邪魔だった。それでも、嗅ぎ分けた。
血の匂いはしない。金属の匂いもしない。武器を手入れした油の匂いもない。
石鹸の匂いがした。
薄い。でも確かにある。洗い物をしている。焚き火のそばで。
「血の匂いはしないです。石鹸の匂いがします」
「石鹸?」
しおりさんが小さく笑った。
「行こう」
短かった。判断が速い。さゆりの熱が上がっている。しおりさんはそれを知っている。ことはの背中越しに、私の体温がどうなっているか。ことはの肩の震えが何を意味しているか。
休める場所が要る。
ことはが向きを変えた。煙の方に。足音が変わった。砂利から、土に。草の匂い。開けた場所に出始めている。
ことはの足が揺れた。
小さく。膝がつきかけた。すぐに立て直した。でも、体が一瞬傾いた。背中の筋肉が硬い。限界が近い。
「ことは」
「大丈夫」
大丈夫じゃなかった。声が硬い。息が浅い。大人ぶっている。ことはが、ずっと大人ぶっている。
草の匂いが濃くなった。川の音が近い。水辺の開けた場所。焚き火の匂いがはっきりしてきた。煙の暖かさが風に混じっている。
ことはが止まった。
「……着いた」
私を降ろした。背中からゆっくり滑らせるように。地面に座らせた。湿った草の感触。冷たい。体が熱いから、冷たさがわかる。
ことはの手が離れた。
音がした。
崩れる音。膝が地面を叩く音。両手が草に沈む音。
「ふへぇ……つかれた」
子供の声だった。
大人ぶりが全部剥がれた声。ただの子供の声。疲れて、潰れて、もう何も繕えない声。
そのまま横に倒れた。草の上に。チーが駆け寄る音。ことはの横に体を寄せた。ことはがチーの毛に顔を埋めた。
「チー、あったかい……」
小さい。小さい声。小さい体。
私を運んでいた体が、こんなに小さい。
足音が聞こえた。
遠くから。違う足音。知らない足音。軽い。裸足に近い。草を踏む音。
止まった。長い間があった。
また動いた。速い。走っている。こちらに向かって。
転んだ。
派手に。膝と手が地面を叩く音。
「い゛っ」
声。女の声。低くない。若い。痛がっている。
立ち上がった。また走った。近づいてくる。息が荒い。
止まった。すぐ近くで。
息を呑む音が聞こえた。
私たちを見ている。ボロボロの三人と一匹を。崩れた子供と、座り込んでいる私と、チーの背中のしおりさんを。
「あ——あの——」
声が震えていた。
「だ、大丈夫ですか——その——怪我——」
言葉が散らかっていた。順番がめちゃくちゃだった。何から言えばいいか分かっていない。でも、体は動いていた。
膝をつく音。私のそばに。
「熱い——すごい熱——ちょっと待って——」
立ち上がった。走った。また転びかけた。踏みとどまった。水の音。川に入った。何かを浸している。布。絞る音。走って戻ってきた。
額に布が乗った。
冷たい。
川の水の冷たさが、額から染み込んでくる。頭の熱が、少しだけ引いた。
「あ、あと——水——飲めますか——」
器を持ってきた。木の器。唇に当てられた。水が流れ込んだ。冷たい。喉が焼けていたから、冷たさが沁みた。少しだけ飲んだ。胃が受け付けるか分からなかった。
受け付けた。
そのまま、もう少し飲んだ。
「よ、よかった……」
声が震えたまま安堵していた。
しおりさんがチーから降りた。音がした。右足をかばっている。
「ありがとう。助かった」
しおりさんの声。通常モード。明るさを作っている。
「えっ——あ——いえ——」
混乱していた。
「怪我——足——」
「あー、これは大丈夫。ちょっと捻っただけ」
嘘。
「私はしおり。あっちで寝てるのがことは。こっちがさゆり」
「は——えっ——あ——み、みい、です」
「みい?」
「みいです」
「いい名前だね」
「え——いえ——そんな——」
しおりさんが座る音がした。ゆっくり。右足を伸ばして。
「焚き火、みいの?」
「あ——はい——洗濯——してて——今日お休みで——朝早く起きちゃって——」
「洗濯好きなの?」
「え——好き——というか——早く起きると——やることなくて——」
しおりさんが小さく笑った。
「真面目だね」
「え——いえ——全然——」
みいさんが動いた。また私のそばに戻ってきた。額の布に手が触れた。温まっている。
「あ——替えますね」
布を取って、走った。川に浸した。絞った。戻ってきた。また額に乗せた。冷たい。
手がおろおろしていた。
次に何をすればいいか分からないまま、でも手が止まらない。水を汲む。布を替える。隣に座る。また布を確認する。
怪我人の前では体が先に動くタイプの人間がいる。そういう人の手の動きだった。
「……ことは」
しおりさんの声。小さい。
返事がなかった。
チーに寄りかかったまま、眠っていた。
ことはの寝息が聞こえた。小さくて、浅くて、疲れ切った寝息。
「……小さいな」
しおりさんが呟いた。
誰に言ったのでもなかった。
みいさんがまた布を替えた。手つきが少しだけ落ち着いてきた。でもまだそわそわしている。隣に座ったまま、何か言いたそうにして、言えないでいる。
「みいはこの辺の人?」
しおりさんが聞いた。
「あ——はい。リンデンフォード——あの、この先の——村です」
「村?」
「小さい村です。すごく」
「ここまで一人で?」
「あ——ここの方が——川が広くて——洗いやすいので——」
「朝からえらいね」
「ぜ、全然——全然えらくないです——」
慌てていた。本気で否定していた。
しおりさんが小さく笑った。本当の笑い。作っていない方。
布が温まっている。みいさんが立ち上がった。また川に走った。足音が軽い。でもときどき何もないところでつまずく音がする。
戻ってきた。布を替えた。
「……ありがとう、ございます」
自分の声が遠かった。掠れていた。
「あ——当然です——こんなに熱いのに——」
みいさんの声が近い。すぐ横にいる。
「……あの——もう少ししたら——もう一回お水飲めますか」
「……はい」
「あ——よかった——」
同じ言葉。さっきも言っていた。よかった。本当に安堵している。私のことを何も知らないのに。ボロボロの知らない人間が転がり込んできただけなのに。
しおりさんが木に背中を預ける音がした。さっきと同じ。
「私が見張りしてるから、みいも休んで」
嘘。
足が限界なのを知っている。見張りなんてできない。座っているのがやっとのはず。でも、しおりさんはそう言う。いつも。
「え——でも——」
「大丈夫。慣れてるから」
慣れている。それは本当だった。嘘の中に本当が混じっている。
みいさんは休まなかった。
私の横に座ったまま、布を替え続けた。黙って。そわそわしながら。手が膝の上で何度も握られて、開かれて。何か言いたそうにして、結局何も言わない。
でも、隣にいた。
人の体温が近くにある。ことはの背中とは違う。しおりさんの手甲とも違う。知らない人の、知らない温度。おろおろしていて、落ち着かなくて、でも逃げない温度。
焚き火の音が遠くで弾けている。
川の音が流れている。
ことはの寝息。チーの息。しおりさんの静かな呼吸。
胸の奥で、何かが沈んでいた。
待っていなかった。
ただ、沈んでいた。
底の方で、静かにしていた。笑ってもいない。何もしていない。人の手が額に触れて、冷たい水が熱を吸い取って、知らない声が「よかった」と言って。
それだけで、少しだけ。
ほんの少しだけ。
静かになっていた。
布が温まった。みいさんが立ち上がる気配がした。
川に向かう足音。
転んだ。
「い゛っ」
二回目。
立ち上がった。また走った。
川の音を聞いていた。




