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No Look Jamming〜私は見る事ができない〜  作者: 船木
バケモノと呼ばれて
24/29

狂ッた世界でこんばんワ 3

 結び目が脈打った瞬間、しおりさんは動いていた。

 ハルバードを構えたまま、前に出る。一歩。それだけで空気が変わった。

 それが地面を蹴った。

 這う姿勢。速い。均衡が壊れた直後の、最初の突進。三つの目がしおりさんを見ている。全部がしおりさんだけを見ている。

 しおりさんがハルバードを横に振った。地面を叩く。砂利が弾けて、壁になる。

 それが砂利の壁を突き抜けた。速度が落ちていない。

 前足が振り下ろされた。しおりさんがハルバードの柄で受けた。金属が軋む。足が地面を滑った。右足。細い方の足。

 押されている。

 さっきとは違う。均衡が壊れる前、怪物は半歩下がっていた。怯えていた。今はもう怯えていない。しおりさんの背中に守られている私は、もう化物じゃない。ただの子供だった。

「ことは!」

 しおりさんが叫んだ。受けた姿勢のまま。

「起きてる!」

「足元に何か出せる?」

「……やる!」

 ことはの声が遠くから聞こえた。震えている。でも、手は動いている。地面を指が擦る音。

 それの前足がもう一度振り下ろされた。しおりさんがハルバードを回して、刃で逸らした。前足の爪が地面を抉る。しおりさんの体が横にずれた。右足が踏ん張れていない。

 線が見えていた。

 目はまだ開いている。閉じていなかった。しおりさんの赤い線が見える。右足の線がさっきよりもっと細い。腕の線は太い。全身の力を上半身に集めて、下半身を捨てている。

 線の中に、整った何かが一瞬見えた。色とは別の、もっと奥にある何か。すぐに消えた。でも——キメラのぐちゃぐちゃとは、全く違うものだった。

 それの線も見えている。結び目が修復されている。さっき私が触れた場所の緩みが、もう塞がりかけていた。

 しおりさんが踏み込んだ。ハルバードの刃が唸る。前足の関節を斬り上げた。線が刃に集中する。赤い線が腕に流れて、刃に乗る。

 肉を裂く音。前足の鳥の関節が切れた。ぶらりと垂れた。

 でも、もう知っている。繋がる。

 切れた線の端が、すぐに伸び始めた。相手を探して、繋がっていく。

「……何回切っても繋がるね、これ」

 しおりさんの声。明るさを作ろうとしていた。作れていなかった。

 結び目が脈打った。紫が膨らむ。

「来ます!」

 叫んだ。私の声。

 しおりさんは返事をしなかった。体で答えた。横に飛んだ。紫が通過した。しおりさんがいた場所の木が一本消えた。

 着地。右足。膝が一瞬折れた。立て直した。でも、二度目はないとわかった。右足の線が、もう糸のようだった。

 地面が弾けた。

 それの後ろ足の下。ことはの仕掛け。小さい。弱い。体勢を崩すには足りない。

 でも、後ろ足が一瞬浮いた。

 しおりさんが踏み込んだ。最後の力を搾るように。ハルバードが結び目に向かって——

 それが頭を振った。

 ハルバードが弾かれた。結び目に届かなかった。刃が横に逸れて、頬を掠めた。浅い。線が数本飛び散っただけ。

 しおりさんの体が押し戻された。右膝が地面についた。ハルバードを杖にして、かろうじて支えている。

「しおりん!」

 ことはの声が裏返った。

「……大丈夫」

 嘘だった。

 ハルバードの刃が欠けていた。結び目を叩いた時に溶けた部分と合わせて、もう半分もない。

 それが体を起こした。四つ足で立った。三つの目が見下ろしている。

 結び目が脈打った。また溜め始めている。

 しおりさんが立てない。

 ことはの仕掛けはもう届かない。

 逃げる隙がない。

 線が見えていた。

 全部見えていた。

 それの体の中を走る線。ぐちゃぐちゃに繋ぎ合わされた線。接合部で色が変わる線。前足の四つの関節。獣の三つと、鳥の一つ。

 鳥の関節は、一拍遅れる。

 ずっと見えていた。最初から。一拍目に獣の三つが動いて、二拍目に鳥の一つが追いかける。その一拍のズレが、あの足音の不協和音を作っていた。

 拍子が二つある。

 一つの体から。

 あの音。最初に聞いた、あの音。足音がばらばらだった理由。拍子が合っていなかった理由。全部、このズレだった。

 結び目が膨らんでいく。紫が太くなる。あと数秒で撃つ。

 ズレが見えている。

 一拍。

 たった一拍のズレ。

 目が、そこから離れなかった。

 鳥の関節が遅れる瞬間。獣の三つが動いて、一拍の空白があって、鳥の一つが追いかける。その空白を、目が追っていた。離そうとしても離れなかった。空白が、目を掴んでいた。

 口が開いた。

 胸の奥から、何かが這い上がってくる。声ではなかった。もっと奥の、もっと底の、名前のない場所から来る何かが、喉を通って、唇に触れた。

「——ジャム」

 口が勝手に形を作った。知っている言葉。私の能力。でも——使おうとしたんじゃなかった。

 何も起きなかった。

 何も起きなかったように見えた。

 結び目が紫を押し出した。しおりさんの方に。

 しおりさんが避けようとした。

 それが踏み込んだ。紫を撃った直後に、追撃。前足で仕留めに来る。

 前足が動いた。

 一番奥の関節。動いた。真ん中の関節。動いた。外側の関節。動いた。

 鳥の関節。

 動かなかった。

 一拍遅れのはずだった。いつも一拍遅れで追いかけてくるはずだった。

 二拍。

 遅れた。

 たったそれだけのことだった。

 前足が振り下ろされた。獣の三つの関節が腕を振り下ろす。でも鳥の関節がついてこない。腕の途中で、力の流れが途切れた。振り下ろしの途中で、肘から先が一瞬止まった。

 軌道がずれた。

 しおりさんの頭を狙っていた爪が、肩の横を通過した。空を切った。

 それの体が、傾いた。

 振り下ろしの力が途中で途切れたせいで、体重が前に流れた。前足が地面に着く前に、もう片方の前足が出ようとした。でもそっちの鳥の関節も、遅れていた。二拍。さっきまでは一拍だった遅れが、両方の前足で二拍になっていた。

 前足が交差した。

 自分の足に、自分の足が引っかかった。

 頭から地面に突っ込んだ。三つの目が驚いていた。自分の体が言うことを聞かないことに。

 土が弾けた。木の根が折れた。それの体が地面を抉りながら滑って、木に突っ込んだ。

 短い咆哮が上がった。怒りではなかった。戸惑い。自分の体に何が起きたのか分かっていない。

 起き上がろうとした。

 後ろ足が地面を蹴った。立ち上がろうとした。でも、前足がまだ交差したままだった。鳥の関節が遅れている。解こうとしている。解けない。一拍が二拍になっただけで、全部がかみ合わなくなっている。

 もがいていた。

 自分の体に閉じ込められたように。

「——走って!」

 しおりさんが叫んだ。

 膝が地面についたまま。でも声は通った。

 ことはが動いた。

「チー!」

 チーが駆けた。ことはの方に。ことはがチーの背中に手を伸ばした。呻いた。背中が痛い。それでも乗った。

「お姉ちゃん!」

 手が伸びてきた。掴んだ。引き上げられた。チーの背中。たてがみを握った。

 しおりさんが立ち上がった。ハルバードを杖にして。右足を引きずって。

「ことは、崖!」

「右前!」

 チーが走った。

 背後で、それがまだもがいている。前足の鳥の関節が遅れたまま、体が言うことを聞かない。立ち上がれない。立ち上がろうとするたびに、前足が交差する。

 私が何かしたのか。

 ジャムを言った。でも自分で使おうとしたんじゃない。勝手に出た。

 地面が変わった。砂利になった。風が下から吹き上げてくる。

 崖。

「ここ! 岩が出っ張ってるとこ!」

 ことはが叫んだ。崖の縁の手前。大きな岩が三つ並んでいる。

 しおりさんが追いついた。走っていた。右足を引きずりながら。

「降りよう」

 短く言った。

 背後で、咆哮が聞こえた。

 立ち上がった。

 前足の交差が解けたのか。二拍の遅れが戻ったのか。分からない。でも、追ってくる音が聞こえた。這う音。地面を擦る音。

 速い。でも、さっきより遅い。まだどこか、動きがかみ合っていない。

「チー、崖降りて!」

 ことはがチーの首を叩いた。チーが崖の縁に足をかけた。風が下から吹き上げてくる。深い。

 チーが崖を降り始めた。木の根に足をかける。一段。また一段。

 しおりさんが最後に飛び込んだ。崖の縁を蹴って、岩の出っ張りに着地した。右足が触れた瞬間、息を呑んだ。

 上で、それが崖の縁に来た。

 三つの目がこちらを見下ろしている。

 前足が岩を叩いた。二回。三回。

 降りてこなかった。

 前足の拍子がまだ揃っていないのか。崖を降りるには四つの足が噛み合わないといけない。今のあれには、それができないのか。

 それとも、別の理由か。

 分からなかった。

 咆哮が降ってきた。長い。複数の声が重なった咆哮。でも距離がある。崖の上と下。

 咆哮が終わった。

 それが崖の縁を離れる音がした。四つ足の音。ばらばらの拍子。さっきより、もっとばらばらだった。遠ざかっていく。

 消えた。

 甘い匂いが、夜の風に押されて散っていく。

 チーが最後の段差を降りた。足の下が湿った土に変わった。水の匂い。川が近い。

 私はチーから降りた。

 足が地面に触れた瞬間、膝が折れた。

 そのまま座り込んだ。

 来た。

 頭の奥が割れるように痛んだ。目の奥が燃えている。視界が歪んだ。線がぐちゃぐちゃに重なって、何も判別できなくなった。

 鼻から血が溢れた。

 止まらなかった。両方の鼻から。顎を伝って、首に流れて、服に落ちた。

 目を閉じた。閉じた瞬間に、線が消えた。世界が音と匂いだけに戻った。

 でも頭痛は消えなかった。

 手が震えている。体の力が抜けていく。

 吐いた。

 横を向いて、胃の中のものを全部吐いた。地面に。何も食べていなかったから、酸っぱい液体だけが出てきた。喉が焼けた。

 ことはの声が聞こえた。遠い。

「お姉ちゃん! お姉ちゃん!」

 近い。すぐ横にいる。遠く聞こえるだけ。

「鼻血——すごい出てる——しおりん!」

 しおりさんの足音。右足を引きずっている。近づいてくる。屈む音。鎧が軋む。

「さゆり」

「……」

「さゆり、聞こえる?」

「……聞こえ、ます」

「目、閉じてる?」

「……はい」

「そのまま閉じてて。開けないで」

 しおりさんの手が額に触れた。冷たくて、硬い。鎧の手甲越しの指先。

「ごめんね。無理させちゃった」

 違う。

 しおりさんは何もしていない。私が勝手に目を開けた。勝手に見た。勝手に触れた。勝手に——ジャムが出た。使おうとしたんじゃないのに。

 何も言えなかった。口を開けたら、また吐きそうだった。

「いいよ。喋んなくて」

 しおりさんの手が額から離れた。

「ことは、怪我見せて」

「私はいいから——」

「見せて」

 ことはが黙った。

 しおりさんが屈む音。ことはが小さく呻いた。

「打撲。折れてはなさそう。チーが庇ってくれたね」

 チーが小さく鳴いた。

「しおりん」

「うん?」

「背中。当たったでしょ。さっきの」

「かすった程度だよ」

 嘘だった。

 目を閉じていても分かった。しおりさんの鎧から、焦げた匂いがしていた。あの甘い匂いの残り。鎧の一部が溶けている。

 でも、ことははそれ以上聞かなかった。

 川の音が聞こえる。水が岩を叩く、静かな音。虫の声。風が木の葉を揺らす音。

 さっきまでの森と同じ音のはずだった。でも、全部が遠かった。

 頭が痛い。鼻血が止まらない。

 しおりさんが近くの木に背中を預ける音がした。ハルバードを地面に置く。石突きが土に沈む音。重い音。疲れた音。

「ちょっとだけ休んで、川沿いに移動しよう。明るくなる前に距離を取りたい」

「うぃ」

 ことはの声。小さい。疲れている。

 鼻血が少しだけ収まってきた。まだ止まっていない。でも、溢れるような勢いは消えた。

 頭痛は消えない。

 目の奥が重い。

 さっき何が起きたのか。

 さっき目を開けた。線が見えた。怪物の体に触れた。黒い線を見た。

 あの時は、何も代償がなかった。

 嘘だった。

 なかったんじゃない。遅れていただけだった。全部、今来た。一度に。

 ことはが、チーに寄りかかって座る音がした。チーがことはの頭を舐める音。ことはが小さく笑った。笑いの中に、震えが混じっていた。

「……お姉ちゃん」

「……うん」

「さっき……あいつ、急に転んだよね」

「……うん」

「あれ……何だったんだろ」

 心臓が跳ねた。

 あれは。

 私が「ジャム」と言った直後に起きた。鳥の関節の遅れが、一拍から二拍になった。前足が交差して、自分の足につまずいた。

 私がやったのか。

 ジャムを使った。使おうとしたんじゃないのに、出た。

 でも——あれはいつものジャムじゃなかった。いつもなら視界を奪う。今回は違う。関節が遅れた。知っている能力なのに、知らないことが起きた。

 偶然かもしれない。たまたま足がもつれただけかもしれない。あの体はもともとばらばらだった。拍子が合っていなかった。勝手に崩れただけかもしれない。

 でも。

 胸の奥の何かが、静かに、知っていた。

「……分かんない」

 嘘だった。でも、本当でもあった。分からないのは本当だった。何が起きたのか、本当に分かっていない。ただ、完全に偶然ではないことだけが、胸の底に沈んでいた。

「そっか」

 ことはは、それだけ言った。

 追わなかった。

 しおりさんは何も言わなかった。木に背中を預けたまま、黙っていた。

 川の音を聞いていた。

 目を閉じたまま。

 頭が重い。鼻血がまだ少しだけ、唇の端を伝っている。

 胸の奥で、何かが沈んでいた。

 笑っていなかった。

 さっきまで笑っていた何かも、「ジャム」と囁いた何かも、全部が底の方に沈んで、静かにしていた。

 消えたのではない。

 待っている。

 川の音を聞いていた。


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