転機はいつも気まぐれに 4
三日目の朝、ことはがみいさんの台所に立っていた。
「みいみい、これ何?」
「あ、それは、干した木の実で」
「食べていい?」
「え、うん……でも、そのままだと硬いですよ」
ことはが齧った。
「……硬い」
「だから、言ったのに」
ことはがチーに半分あげた。チーも齧った。チーは平気だった。
「チーだけ食べれるの、ずるい」
みいさんが、小さく笑った。三日で、ことはがみいさんに懐いた。完全に。初日の夜に粥を出されたあたりから、始まっていた。ご飯を作ってくれる人には、弱い。正直な子だった。あの子が誰かに懐くのは、いつだって、その人が自分を裏切らないと、体のどこかで見抜いた時だった。
しおりさんの足は、少しずつ良くなっていた。まだ引きずっている。でも、壁に手をつかなくても歩ける様になった。私の熱は、二日目の夜に下がった。頭のぼんやりは残っている。体が重い。でも、起き上がれる様になった。目は、開けたり閉じたりしている。線は、見えない。ぼやけた世界。近くのものは輪郭が分かる。遠くは、明るさの塊。みいさんの家の中なら、棚の位置と、窓の光は分かる。開けている時間が、少しずつ増えていた。あの夜の線が戻ってこないことに、私は少しずつ慣れていく。慣れながら、時々、あれは本当に私の中で起きたことだったのかと、疑いたくなる。
みいさんが朝の支度をしている音が聞こえる。水を汲む。火を起こす。鍋を置く。同じ順番。毎朝同じ手順で、同じ音を立てる。迷いがない音。この家の中だけで鳴る音。外では小さくなるこの人が、自分の台所では、こんなにも確かな手つきになる。
「しおりん!」
ことはが入り口から叫んだ。
「何ー?」
外からしおりさんの声がした。
「みいが木の実くれたー!」
「いいなー!」
「しおりんの分もあるよー」
「持ってきてー!」
ことはが走っていった。チーが追いかけた。みいさんが鍋の前で固まっていた。
「……あの、勝手に、あげちゃって」
「いいよ。ことはが喜んでるから」
「え、でも」
「みいさん。いいんだよ」
みいさんが黙った。鍋をかき混ぜる音が、再開した。少しだけ、手の動きが柔らかくなっていた。外でしおりさんとことはが、何か話している。笑い声が混じっている。三日前まではなかった音。この家に、少しずつ音が増えている。
しおりさんが戻ってきた。入り口に寄りかかった。
「みい、今日の予定は?」
「え、予定……洗濯と、畑の」
「手伝うよ」
「え、いいです。足が」
「洗濯なら座ってできるでしょ」
「え、まぁ……」
「決まり」
みいさんが何か言おうとして、やめた。しおりさんのペースに巻き込まれている。三日で学んだはずなのに、まだ抵抗しようとする。そして、毎回、負ける。
「さゆりは?」
しおりさんが聞いた。
「……大丈夫です。座ってます」
「無理しないでね」
「はい」
しおりさんが外に出た。みいさんもついていった。鍋を火から降ろして、洗い物の桶を持って。静かになった。一人になった。みいさんの家の音がない。火が消えかけている。薪がときどき、小さく弾ける。それだけ。
目を、開けた。明るい場所と、暗い場所。窓の方だけが、白く滲んでいる。ぼやけている。でも、三日前より少しだけ、輪郭がはっきりしている。気のせいかもしれない。棚の上に、みいさんの器が並んでいた。木の器。大きさが揃っていない。それでも、全部、同じ向きに伏せて置いてある。窓の明るさの向こうに、低い塊が広がっている。畑。その先に、四角い輪郭がいくつか。村。ぼやけた世界の中の、ぼやけた村。
外から声が聞こえた。しおりさんとみいさんの声。近い。家のすぐ横。洗濯をしている。
「みい、これどうやって絞るの?」
「あ、こうやって……こう」
「あ、なるほど。力いるね」
「し、しおりさんは、力が強いから」
「そう? 普通だよ」
「普通じゃないです」
しおりさんが笑った。
「みいは力ないの?」
「ないです。すごく」
「洗濯いつもどうしてるの」
「時間かけて、ゆっくり」
「偉いなぁ」
「え、偉くないです。全然」
同じやり取り。褒められると、全力で否定する。でも、声が嫌がっていない。否定しているのに、声の奥が、少しだけ嬉しそうにしている。私は、その声を、壁の内側で聞いていた。褒められて、うまく受け取れなくて、否定して、それでも嬉しくて。この人の不器用さは、少し、私に似ていた。
水の音が続いている。布を揉む音。絞る音。
「ねぇ、みい。この村、好き?」
間があった。
「……好き、です。みんな優しいし。おばちゃんも、いつも気にかけてくれるし。……ただ」
「ただ?」
「……人が、多いと、ちょっと」
止まった。言葉を探している。見つからない。
「緊張する?」
しおりさんが補った。
「……はい。小さい村なのに、って思いますよね。……小さくても、人は、人なので」
しおりさんが黙った。少しだけ。
「分かるよ」
「え、しおりさんが……?」
「分からないと思った?」
「……思いました」
しおりさんが笑った。否定しなかった。水の音が続いた。洗濯の音。穏やかな音。ことはが駆けてきた。
「しおりん、チーが畑に入っちゃった」
「え、大丈夫?」
「おばちゃんが怒ってる」
「行こう。みい、ごめん」
しおりさんとことはが走っていった。しおりさんはまだ右足を引きずっていた。でも、走れていた。みいさんが残された。しおりさんの声が遠ざかっていく。さっきまですぐ隣にあった声が、どんどん小さくなっていく。洗濯の水の中に手を入れたまま、みいさんが止まっていた。しばらく、動かなかった。
みいさんが、家の中に入ってきた。私の隣に座った。
「……さゆりさん」
「……はい」
「……あの人、しおりさん、すごい人ですね。来て三日で、村の人と、もう……」
言葉が途切れた。
「……私、何年もいるのに」
止まった。長い沈黙。
「……ごめんなさい。変なこと」
「……変じゃ、ないです」
自分の声が出た。口下手が、口下手に答えている。
「……しおりさんは、ああいう人です。……最初から。ずっと」
「……すごいですね。しおりさんみたいに、なれたらって、思うことが、あります」
みいさんの声が小さくなった。最後の方は、ほとんど消えかけていた。私も、同じことをずっと思ってきた。しおりさんの様に、ことはの様に、みのりさんの様に。誰かの様に、なれたら。その「誰かの様に」の列に、みいさんの願いも、そっと並んだ気がした。
「……私も」
みいさんが顔を上げた。気配で分かった。
「……さゆりさんも?」
「……私は、口下手なので」
「……私も、です」
「……はい」
沈黙。二人とも、次の言葉が出てこなかった。口下手と口下手が、隣に座って、言葉を探して、見つからなくて、黙っている。
でも、と思った。ここで黙ったままでは、いつもの私だ。何も言えなくて、何も渡せなくて、ただ守られるだけの、いつもの私だ。せっかく、口下手同士で、隣に座っているのに。私は、膝の上に置いていた手を、みいさんの方へ、少しだけ動かした。
「……みいさんの粥、すごく、おいしいです。私、あの味、たぶん、ずっと覚えてます。匂いと味は、一度覚えたら、忘れないので」
言い終えて、心臓が鳴った。褒めるのも、自分から話しかけるのも、私はいつも苦手だった。喉の奥で言葉を握り潰して、後になって、言えばよかったと悔やむ。それでも、この人には伝えたかった。しおりさんみたいには、なれなくても。私にも、私の言葉で渡せるものが、あるはずだった。
みいさんが、息を呑む音がした。それから、小さく、「……ありがとう、ございます」と言った。さっきよりも、ずっと柔らかい声だった。
窓の外で、しおりさんの声がした。
「みいー! お昼何がいいー?」
みいさんが跳ねた。
「え、あ、何でも」
「何でもじゃ分かんないよー!」
「え、えっと」
立ち上がった。慌てて外に出ていった。つまずきかけた。踏みとどまった。しおりさんの笑い声が聞こえた。みいさんの「えっと、えっと」が聞こえた。ことはの「肉!」が聞こえた。チーが鳴いた。
窓からの光が、ぼやけた部屋を照らしている。三日前、ここに辿り着いた時、この部屋は静かだった。みいさんの台所の音だけが埋めていた。今は違う。音が増えている。声が増えている。この小さい家に、人が増えている。胸の底で、あれが沈んでいる。ジャム。まだ黙っている。まだ何もしていない。でも、消えてもいない。消えなくていい。今は。まだ分からないことだらけだった。線のこと。目のこと。ジャムのこと。これからのこと。でも、窓の外で、声がしている。
私は、壁に背中を預けて、窓から差し込む光の温もりを頬に受けながら、増えていくこの家の音のひとつひとつを、指の隙間からこぼしてしまわない様に、そっと、胸の中に数え上げていた。




