表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
No Look Jamming〜私は見る事ができない〜  作者: 船木
砂のお城
22/35

ドライアウトの漂着先 3

 匂いがした。温かい匂い。穀物を煮ている。薄い。でも、確かに、食べ物の匂い。


 「……いい匂い」


 ことはが言った。いつの間にか起きていた。チーに寄りかかったまま、目を細めている。


 「そう、ですか? あんまり美味しくないかも……」


 「いい匂い」


 ことはが繰り返した。みいさんが黙った。ことはが器を受け取る。木の器と、木の匙。


 「いただきます」


 食べ始めた。


 「……おいしい」


 小さい声。震えていた。疲れと、空腹と、もう一つ、何か。ことはの声が震えることは、あまりない。あの秘密基地で泣いた夜以来、この子はずっと、しっかりした声だけを選んで出してきた。その声が、粥を一口食べただけで、震えている。


 器が、私にも渡された。みいさんの手。指先が荒れている。薬草を潰した匂いが、微かに残っていた。温かい器。


 「あの、食べられますか。無理しないでいいので」


 口に運んだ。穀物の粥。薄い味。塩と、少しだけ何かの葉の味。胃が受け付けた。温かいものが喉を通って、胸を通って、胃に落ちた。空っぽだった場所が、少しだけ埋まった。


 「……おいしいです」


 「え、ほんとですか。よかった」


 よかった。何回言うのだろう、この人は。ことはが食べ終わった。器を置いた。私の肩に頭を乗せた。あっという間に、寝息に変わった。


 「……すごい寝つき」


 みいさんが呟いた。


 「疲れてるからね。昨日、さゆりを背負って、ずっと歩いてた」


 しおりさんの声。起きていた。いつの間に。


 「え、この子が……?」


 「まだ子供だよ。ことはと同じくらいの背丈の」


 「……この子と」


 みいさんの声が詰まった。この小さな子が、大人一人を背負って一晩中歩き通したのだと、うまく信じられないでいる。私にも、まだ信じられない。肩に乗ったことはの頭は、こんなにも軽いのに。


 「あの、怪我……背中の」


 「打撲。折れてはなさそうだけど、しばらく安静がいい」


 「布、巻いた方がいいです。持ってきます」


 立ち上がった。棚を漁る音。布を見つけた。戻ってきた。しおりさんがことはの服を、そっとめくった。ことはが起きる気配はなかった。


 「……ここ」


 「あ、大きい……」


 みいさんの息が詰まった。


 「大丈夫。打撲だから。巻いておけば楽になる」


 布を巻く音。静かに。起こさない様に。みいさんの手つきが、丁寧だった。布の端を折り込む時の、指先の慎重さが、音で分かった。ことはが小さく身じろぎした。寝息は続いていた。しおりさんが服を戻した。


 「ねぇ、みい」


 「はい」


 「ここ、しばらくいていい?」


 「え、はい。もちろん」


 「お金とか気にしなくていいよ。落ち着いたら、何か手伝うから」


 「お金なんて、いらないです」


 本気だった。


 「……ありがとう」


 しおりさんの声が掠れた。一瞬だけ。すぐに戻した。静かになった。ことはの寝息。チーの息。火がぱちぱちと弾ける音。みいさんが鍋を片付ける音。しおりさんの呼吸が、また深くなっていった。眠り直した。布を被ったまま。


 目を、閉じている。ずっと閉じている。昨日の夜から。開けたら、何が見えるのか分からなかった。線が見えるのか。あの赤と青と黄色の、ぐちゃぐちゃな線が、まだ見えるのか。見えたら、また、壊れるのか。見えなかったら。線が消えていたら。あの夜に見えていたものが、全部なくなっていたら。それは、それで。安心する様な、寂しい様な、名前のつけられない気持ちが、胸の底で揺れていた。


 胸の奥で、あれが沈んでいる。黙っている。何もしていない。でも、いる。消えていない。ただ、底の方に、ある。ジャム。知っている。使ったことがある。でも、あの時起きたことは、知らない。いつもなら、視界を奪う。あの夜は、違った。一拍を、二拍にした。怪物の足が交差した。自分の足に、つまずいた。私が、やった。分からない、と言った。ことはに。嘘だった。嘘で、本当で、どっちでもあって。分からないのは、本当だった。でも、偶然ではないことも、知っていた。


 みいさんが、近くに座った。布を替えようとして、額に布がないことに気づいた。朝の間に落ちていた。


 「あ、冷やした方が」


 「……大丈夫です。もう楽です」


 「でも、まだ熱いです」


 手が額に触れた。みいさんの手。昨日より落ち着いている。


 「……下がってる。よかった」


 また。みいさんの手が離れた。隣に座っている。何か言いたそうにしている。言えないでいる。


 「……あの」


 「……はい」


 「……目、怪我してるんですか。ずっと、閉じてるから」


 「……怪我じゃ、ないです」


 「……そうですか」


 追わなかった。でも、隣にいた。みいさんの呼吸が聞こえる。少し不規則。考えている。言葉を探している。


 「……あの、私」


 止まった。


 「……なんでもないです」


 何かを言いかけて、やめた。たぶん、さっきの村人のこと。「また拾ってきたの?」。あれを、謝ろうとしたのか。説明しようとしたのか。分からない。でも、喉まで来て、飲み込んだ。この人も、言いたいことを喉の奥で握り潰してしまう人なのかもしれない。私と、同じ様に。


 みいさんが立ち上がった。水を汲みに行った。戻ってきた。器を私の手に持たせた。


 「飲めますか」


 「……はい」


 飲んだ。冷たい。井戸水の匂いがした。鉄分の少し混じった、硬い水の味。喉を通る。乾いていた粘膜が、少しだけ楽になった。


 「……みいさん」


 自分の声が出た。呼ぼうと思ったわけではなかった。口が、勝手に開いた。喉の奥から、名前が出てきた。ジャムの時とは、違う。あれは、底の方から来た。これは、もっと浅い場所から。


 「……はい」


 「……粥、おいしかったです」


 それだけだった。言えたのは、それだけだった。もっと言いたいことが、あった。ありがとう、とか。すみません、とか。迷惑かけてるのに、とか。でも、言葉が出てこなかった。口下手は、治らなかった。熱があっても、体が動かなくても、それだけは変わらなかった。


 みいさんが黙った。長い間。


 「……ありがとうございます」


 声が震えていた。泣きそうな震えだった。泣いては、いなかった。でも、声の奥が揺れていた。粥をおいしいと言われたことが、そんなに大きなことだったのか。この人にとって。


 みいさんが離れた。火の前に戻った。鍋を洗う音がした。水の音。擦る音。丁寧に。ゆっくり。手が震えていた。音で分かった。


 目を、開けた。自分で。誰にも言われずに。みいさんの背中を、見たかった。薄く開いた。光が入ってきた。ぼやけていた。明るい場所と、暗い場所。入り口の方だけが、眩しく滲んでいる。


 線は、見えなかった。


 ただの、ぼやけた世界。境界が曖昧で、形が定まらない。あの夜の、世界を覆い尽くす線も、生き物の中を走る赤や青も、どこにも、なかった。安心した。それなのに、胸の奥が少しだけざわついた。あの目は、消えたわけではない。ただ、また、蓋の下に戻っただけ。そんな気が、していた。


 みいさんの背中が見えた。ぼんやりと。輪郭だけ。短い髪。細い肩。小さい背中。火の前にしゃがんで、鍋を洗っている。肩が、震えていた。声は出していなかった。でも、肩が小さく上下していた。泣いていた。声を出さずに。振り返らずに。鍋を洗いながら。


 見てしまった。目を閉じた。また、音と匂いの世界に戻った。鍋を洗う音が続いている。水の音。擦る音。少しずつ、震えが収まっていく。見なかったことにした。でも、覚えていた。ぼやけた世界の中の、あの小さい背中。震えている肩。声を出さないこと。振り返らないこと。


 ことはの頭が、肩の上で少し動いた。寝返り。小さい。しおりさんは眠っている。壁に背中を預けたまま。布を被ったまま。鍋を洗う音が止まった。水を切る音。布で手を拭く音。みいさんが立ち上がった。振り返った。足音がこちらに来る。私の隣に座った。何も言わなかった。ただ、隣に、いた。


 ここに、辿り着いた。全部使い果たして。足も動かない。目も開けられない。嘘をついて。嘘をつかれて。ことはに背負われて。何もない。何も残っていない。でも、屋根がある。壁がある。隣に人がいる。肩の上に小さい頭が乗っている。入り口の近くでチーが丸くなっている。壁際でしおりさんが眠っている。全部使い果たした場所で。名前を教え合っただけの、昨日会ったばかりの人が。見返りも求めずに、額に濡れた布を当て続けて、粥を炊いて、水を汲んでくれた。私は、その温もりに、まだ半分は戸惑いながら、それでも、指の先まで浸みてくる温かさの中へ、そっと身を委ねていた。


 川の音が、まだ聞こえていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ