ドライアウトの漂着先 2
鳥が鳴いていた。遠い。高い。朝の鳥。夜の間は聞こえなかった種類の声。
目を閉じたまま、意識が浮かんできた。体が重い。背中の下に、草の感触。湿っている。朝露。熱は、少し引いていた。まだある。頭の芯が、ぼんやりと熱い。でも、昨日の夜みたいに全身が燃えている感覚は、消えていた。額に布が乗っている。冷たくない。温まっている。しばらく、替えられていない。
隣に、気配があった。呼吸。浅い。規則的。眠っている。みいさん。いつ眠ったのか、分からない。ずっと起きていた。布を替え続けていた。いつの間にか、座ったまま眠っていた。体が少し傾いている。私の方に。肩が触れそうな距離。触れてはいない。みいさんの髪から、石鹸の匂いがかすかにした。川の水の匂いと混じって、薄くなっている。知らない人が、自分の眠りを削って、朝までずっと、私のそばにいてくれた。そのことの意味を、熱の引いた頭で、少しずつ理解していく。
「……起きた?」
しおりさんの声。小さい。近い。起きていた。ずっと。
「……はい」
「熱、少し下がったね」
「……分かるんですか」
「顔色。……って、言っても伝わらないか。汗が引いてきた」
しおりさんが、小さく笑った。作った笑いでは、なかった。
「しおりさんは……寝ましたか」
「うん。ばっちり」
嘘。声に、夜通しの疲れが滲んでいた。ことはの寝息が、まだ聞こえる。チーの体温に包まれて、深く眠っている。しおりさんが立ち上がった。右足をかばっている。左足だけに体重を乗せて、ゆっくり立つ。関節が鳴った。音で、分かる。一晩中、同じ姿勢でいた体の音だった。
「みい」
しおりさんが呼んだ。静かに。
「……ん」
「朝だよ」
「あっ」
跳ねた。座ったまま体がびくっと動いた音。
「ね、寝てた……すみません」
「いいよ。ありがとね」
みいさんが立ち上がった。草を払う音。
「あの、村……私の家が近いので。よかったら」
「行っていい?」
しおりさんが即答した。みいさんが言い終わる前に。
「えっ、あ、はい。でも、狭いです。すごく」
「屋根がある?」
「……あります」
「じゃあ最高だね」
ことはが起きた。
「……ん……朝……?」
まだ半分寝ている声。
「ご飯……」
子供だった。しおりさんが笑った。
「ご飯あるって。行こう」
「……行く」
チーの背中に乗った。たてがみを握った。ことはの背中とは違う。揺れが大きい。でも、安定している。四つ足の、確かな歩き方。みいさんが先頭を歩いている。足音が軽い。でも、不規則。ときどき何かにつまずく。そのたびに、小さく「あっ」と言う。しおりさんが隣を歩いている。右足を引きずる音が、草の上だと目立たない。でも、歩幅が左右で違うのが、呼吸のリズムで分かった。
川の音が、少しずつ遠ざかっていく。昨日の夜からずっと聞こえていた音。離れていく。チーの爪が草を踏む音に変わった。柔らかい音。地面が乾き始めている。朝の空気が湿っていた。草の匂い。露の匂い。冷たくて、柔らかい。あの甘い匂いも、血の匂いも、ここには、ない。森が薄くなっていく。風が通る。開けていく。匂いが変わった。土。耕された土。畑の匂い。生活の匂い。鶏が遠くで鳴いている。
「あの、ここが、リンデンフォードです」
みいさんの声が、小さくなった。さっきまでと違った。川辺で走り回っていた声と、違う。恥ずかしそうだった。歩幅が少し狭くなった。
「小さい村ですけど……」
音で分かる。小さい村だった。足音が響かない。建物が少ない。声が遠くに抜ける。どこかで扉が開いた。気配。朝の空気の中に、人の気配が混じった。こちらに気づいている。小さい村だから、知らない人間が来れば、すぐに分かる。みいさんの足が、少し速くなった。
「あ、ここです。こっちです」
声が小さい。知らない人を連れてきたことが、恥ずかしいのだろう。川辺では一人だったから、声が出ていた。人目があると、みいさんは、小さくなる。
誰かが声をかけた。遠くから。年配の女の声。
「みいちゃん、誰? その人たち」
みいさんが止まった。一拍。
「あ、あの、旅の方で……怪我を」
「また拾ってきたの?」
また。呆れた様な、笑っている様な声だった。みいさんが黙った。短い沈黙。言い訳が見つからない沈黙。
「……すみません。また」
みいさんが言った。声に、じんわりと熱がこもっている感じがした。しおりさんが歩いた。みいさんの横を通り過ぎて、声の方に向かった。右足を引きずっている。でも、歩く音が変わった。背筋が伸びた音がした。
「すみません、ご迷惑おかけします。しばらくお世話になるかもしれません。仲間が怪我をしていて。みいさんに、助けていただきました」
しおりさんの声。聞いたことのないトーンだった。明るくもない。冷たくもない。丁寧で、真っ直ぐで、大人の声だった。間があった。
「……そう。大変だったね。みいちゃん、布は足りてる? うちにもあるから」
「あ、はい、大丈夫です。ありがとうございます」
「足りなかったら言いなさいよ」
温かかった。当たり前の様に手を差し出す声だった。声の温度に、この村の匂いがした。足音が遠ざかった。扉が閉まる音。
みいさんが動いた。
「あの、こっち」
声がまだ小さかった。でも、村人が行ってから、少しだけ戻っていた。扉が開いた。木の扉。軋む。古い。蝶番の錆びた匂いがした。
「散らかってて、すみません」
中に入った。石鹸の匂い。昨日嗅いだのと同じ匂い。みいさんの家の匂い。干した薬草の匂いが、天井の近くからした。煤の匂い。竈の火を何年も焚いた壁の匂い。チーから降ろしてもらった。壁に背中を預けた。土間。固い地面。狭い。でも、屋根がある。風が来ない。壁がある。何日ぶりだろう。壁に囲まれた場所にいるのは。
みいさんが火を起こし始めた。擦る音。何度か失敗した。つく。薪がぱちぱち言い始めた。火が安定すると、部屋の空気が少しだけ動いた。煙の匂いが鼻を掠めて、竈の上に吸い込まれていった。しおりさんが壁際に座った。装備が壁に当たる音がした。右足を伸ばした。深い息を吐いた。長い息だった。
「……いい子だね」
小さかった。みいさんに聞こえない声。私だけに聞こえた。
「……はい」
「また、って言ってたね。前にもやってるんだ、あの子」
しおりさんが小さく笑った。
「嫌いになれない子だね」
「さゆり」
「……はい」
「寝るね」
嘘じゃなかった。初めて。しおりさんが、嘘をつかなかった。もう限界だと、隠さなかった。私にだけ。ことはがチーに寄りかかって眠っている、この一瞬だけ。この人はいつも、一番弱っている姿を誰にも見せない。組手で大男を倒しても、崖から私を抱えて降りても、右足を引きずっても、声はいつも通りのまま軽口を叩く。その人が、たった一言、「寝るね」と本当のことを言った。
壁に背中を預けたまま、しおりさんの呼吸が深くなっていった。ゆっくり。一段ずつ。体が落ちていく。眠った。みいさんが振り返る気配がした。しおりさんを見ている。しばらく見ていた。立ち上がった。静かに。棚から布を出した。しおりさんに近づいた。被せた。何も言わなかった。戻ってきた。火の前に座った。
穀物を鍋に入れる音がした。乾いた粒が金属に当たる、さらさらとした音。水を注ぐ音。匙でかき混ぜる音。穀物が水を吸い始める匂いがした。静かだった。みいさんの台所の音だけが、小さい部屋を埋めていた。
その音を聞いていると、少しだけ、体が動いた。
私は、壁づたいに、みいさんの座っている方へにじり寄った。まだ熱があって、頭が重い。それでも、ここでただ寝ているだけでいるのが、なんだか違う気がした。ずっと、守られて、運ばれて、介抱されて。しおりさんに背負われ、ことはに運ばれ、名前も知らないこの人に、朝まで看病されて。もらってばかりだった。今日くらいは、私の方から、この人に、何か一つでも返してもいいはずだった。
「……手伝います」
声が、小さかった。それでも、出た。みいさんの手が止まる気配がした。
「え、でも、さゆりさん、熱……」
「……座ったままでも、できることは、あるので」
みいさんは、少し迷って、それから、乾いた豆の入った小さな器を私の手に握らせてくれた。悪いものを、指で選り分けるらしい。私は、指先で豆の一つひとつをなぞった。丸いもの。割れたもの。少し柔らかいもの。虫の食った跡のあるもの。指でなら、分かる。良い豆は、器に。悪い豆は、脇に。二人で、黙って、豆を選った。竈の火がぱちぱちと鳴っている。しおりさんは壁際で眠っていて、外からは、鶏の声と、遠くの畑の物音が聞こえてくる。この小さな村の、小さな家の、ささやかな朝の支度の音の中に、私も、指先一つ分だけ混ざっていた。守られるだけの私が、初めて、誰かの朝ごはんの、ほんの端っこを手伝っていた。




