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No Look Jamming〜私は見る事ができない〜  作者: 船木
砂のお城
21/35

ドライアウトの漂着先 2

 鳥が鳴いていた。遠い。高い。朝の鳥。夜の間は聞こえなかった種類の声。


 目を閉じたまま、意識が浮かんできた。体が重い。背中の下に、草の感触。湿っている。朝露。熱は、少し引いていた。まだある。頭の芯が、ぼんやりと熱い。でも、昨日の夜みたいに全身が燃えている感覚は、消えていた。額に布が乗っている。冷たくない。温まっている。しばらく、替えられていない。


 隣に、気配があった。呼吸。浅い。規則的。眠っている。みいさん。いつ眠ったのか、分からない。ずっと起きていた。布を替え続けていた。いつの間にか、座ったまま眠っていた。体が少し傾いている。私の方に。肩が触れそうな距離。触れてはいない。みいさんの髪から、石鹸の匂いがかすかにした。川の水の匂いと混じって、薄くなっている。知らない人が、自分の眠りを削って、朝までずっと、私のそばにいてくれた。そのことの意味を、熱の引いた頭で、少しずつ理解していく。


 「……起きた?」


 しおりさんの声。小さい。近い。起きていた。ずっと。


 「……はい」


 「熱、少し下がったね」


 「……分かるんですか」


 「顔色。……って、言っても伝わらないか。汗が引いてきた」


 しおりさんが、小さく笑った。作った笑いでは、なかった。


 「しおりさんは……寝ましたか」


 「うん。ばっちり」


 嘘。声に、夜通しの疲れが滲んでいた。ことはの寝息が、まだ聞こえる。チーの体温に包まれて、深く眠っている。しおりさんが立ち上がった。右足をかばっている。左足だけに体重を乗せて、ゆっくり立つ。関節が鳴った。音で、分かる。一晩中、同じ姿勢でいた体の音だった。


 「みい」


 しおりさんが呼んだ。静かに。


 「……ん」


 「朝だよ」


 「あっ」


 跳ねた。座ったまま体がびくっと動いた音。


 「ね、寝てた……すみません」


 「いいよ。ありがとね」


 みいさんが立ち上がった。草を払う音。


 「あの、村……私の家が近いので。よかったら」


 「行っていい?」


 しおりさんが即答した。みいさんが言い終わる前に。


 「えっ、あ、はい。でも、狭いです。すごく」


 「屋根がある?」


 「……あります」


 「じゃあ最高だね」


 ことはが起きた。


 「……ん……朝……?」


 まだ半分寝ている声。


 「ご飯……」


 子供だった。しおりさんが笑った。


 「ご飯あるって。行こう」


 「……行く」


 チーの背中に乗った。たてがみを握った。ことはの背中とは違う。揺れが大きい。でも、安定している。四つ足の、確かな歩き方。みいさんが先頭を歩いている。足音が軽い。でも、不規則。ときどき何かにつまずく。そのたびに、小さく「あっ」と言う。しおりさんが隣を歩いている。右足を引きずる音が、草の上だと目立たない。でも、歩幅が左右で違うのが、呼吸のリズムで分かった。


 川の音が、少しずつ遠ざかっていく。昨日の夜からずっと聞こえていた音。離れていく。チーの爪が草を踏む音に変わった。柔らかい音。地面が乾き始めている。朝の空気が湿っていた。草の匂い。露の匂い。冷たくて、柔らかい。あの甘い匂いも、血の匂いも、ここには、ない。森が薄くなっていく。風が通る。開けていく。匂いが変わった。土。耕された土。畑の匂い。生活の匂い。鶏が遠くで鳴いている。


 「あの、ここが、リンデンフォードです」


 みいさんの声が、小さくなった。さっきまでと違った。川辺で走り回っていた声と、違う。恥ずかしそうだった。歩幅が少し狭くなった。


 「小さい村ですけど……」


 音で分かる。小さい村だった。足音が響かない。建物が少ない。声が遠くに抜ける。どこかで扉が開いた。気配。朝の空気の中に、人の気配が混じった。こちらに気づいている。小さい村だから、知らない人間が来れば、すぐに分かる。みいさんの足が、少し速くなった。


 「あ、ここです。こっちです」


 声が小さい。知らない人を連れてきたことが、恥ずかしいのだろう。川辺では一人だったから、声が出ていた。人目があると、みいさんは、小さくなる。


 誰かが声をかけた。遠くから。年配の女の声。


 「みいちゃん、誰? その人たち」


 みいさんが止まった。一拍。


 「あ、あの、旅の方で……怪我を」


 「また拾ってきたの?」


 また。呆れた様な、笑っている様な声だった。みいさんが黙った。短い沈黙。言い訳が見つからない沈黙。


 「……すみません。また」


 みいさんが言った。声に、じんわりと熱がこもっている感じがした。しおりさんが歩いた。みいさんの横を通り過ぎて、声の方に向かった。右足を引きずっている。でも、歩く音が変わった。背筋が伸びた音がした。


 「すみません、ご迷惑おかけします。しばらくお世話になるかもしれません。仲間が怪我をしていて。みいさんに、助けていただきました」


 しおりさんの声。聞いたことのないトーンだった。明るくもない。冷たくもない。丁寧で、真っ直ぐで、大人の声だった。間があった。


 「……そう。大変だったね。みいちゃん、布は足りてる? うちにもあるから」


 「あ、はい、大丈夫です。ありがとうございます」


 「足りなかったら言いなさいよ」


 温かかった。当たり前の様に手を差し出す声だった。声の温度に、この村の匂いがした。足音が遠ざかった。扉が閉まる音。


 みいさんが動いた。


 「あの、こっち」


 声がまだ小さかった。でも、村人が行ってから、少しだけ戻っていた。扉が開いた。木の扉。軋む。古い。蝶番の錆びた匂いがした。


 「散らかってて、すみません」


 中に入った。石鹸の匂い。昨日嗅いだのと同じ匂い。みいさんの家の匂い。干した薬草の匂いが、天井の近くからした。煤の匂い。竈の火を何年も焚いた壁の匂い。チーから降ろしてもらった。壁に背中を預けた。土間。固い地面。狭い。でも、屋根がある。風が来ない。壁がある。何日ぶりだろう。壁に囲まれた場所にいるのは。


 みいさんが火を起こし始めた。擦る音。何度か失敗した。つく。薪がぱちぱち言い始めた。火が安定すると、部屋の空気が少しだけ動いた。煙の匂いが鼻を掠めて、竈の上に吸い込まれていった。しおりさんが壁際に座った。装備が壁に当たる音がした。右足を伸ばした。深い息を吐いた。長い息だった。


 「……いい子だね」


 小さかった。みいさんに聞こえない声。私だけに聞こえた。


 「……はい」


 「また、って言ってたね。前にもやってるんだ、あの子」


 しおりさんが小さく笑った。


 「嫌いになれない子だね」


 「さゆり」


 「……はい」


 「寝るね」


 嘘じゃなかった。初めて。しおりさんが、嘘をつかなかった。もう限界だと、隠さなかった。私にだけ。ことはがチーに寄りかかって眠っている、この一瞬だけ。この人はいつも、一番弱っている姿を誰にも見せない。組手で大男を倒しても、崖から私を抱えて降りても、右足を引きずっても、声はいつも通りのまま軽口を叩く。その人が、たった一言、「寝るね」と本当のことを言った。


 壁に背中を預けたまま、しおりさんの呼吸が深くなっていった。ゆっくり。一段ずつ。体が落ちていく。眠った。みいさんが振り返る気配がした。しおりさんを見ている。しばらく見ていた。立ち上がった。静かに。棚から布を出した。しおりさんに近づいた。被せた。何も言わなかった。戻ってきた。火の前に座った。


 穀物を鍋に入れる音がした。乾いた粒が金属に当たる、さらさらとした音。水を注ぐ音。匙でかき混ぜる音。穀物が水を吸い始める匂いがした。静かだった。みいさんの台所の音だけが、小さい部屋を埋めていた。


 その音を聞いていると、少しだけ、体が動いた。


 私は、壁づたいに、みいさんの座っている方へにじり寄った。まだ熱があって、頭が重い。それでも、ここでただ寝ているだけでいるのが、なんだか違う気がした。ずっと、守られて、運ばれて、介抱されて。しおりさんに背負われ、ことはに運ばれ、名前も知らないこの人に、朝まで看病されて。もらってばかりだった。今日くらいは、私の方から、この人に、何か一つでも返してもいいはずだった。


 「……手伝います」


 声が、小さかった。それでも、出た。みいさんの手が止まる気配がした。


 「え、でも、さゆりさん、熱……」


 「……座ったままでも、できることは、あるので」


 みいさんは、少し迷って、それから、乾いた豆の入った小さな器を私の手に握らせてくれた。悪いものを、指で選り分けるらしい。私は、指先で豆の一つひとつをなぞった。丸いもの。割れたもの。少し柔らかいもの。虫の食った跡のあるもの。指でなら、分かる。良い豆は、器に。悪い豆は、脇に。二人で、黙って、豆を選った。竈の火がぱちぱちと鳴っている。しおりさんは壁際で眠っていて、外からは、鶏の声と、遠くの畑の物音が聞こえてくる。この小さな村の、小さな家の、ささやかな朝の支度の音の中に、私も、指先一つ分だけ混ざっていた。守られるだけの私が、初めて、誰かの朝ごはんの、ほんの端っこを手伝っていた。

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