フローティングポイントの向こう岸 2
川を渡ってから、音が変わった。
土が硬い。草が少ない。木の立ち方が、さっきまでと少しだけ違う。木と木の間隔が広くて、幹が太い。枝が高いところで広がっているから、地面に近い場所の空気が、通っている。
風の道がある。
それだけで分かる。ここには人が入ってくる。あるいは、かつて入っていた。
「……道があります」
私は言った。
「古い道だね、ちゃんと踏み固められてる」
「分かる?」
「足の下の音が違います。土が詰まってる感じがします」
しおりさんが少し立ち止まる気配がした。
「……本当だ」
しおりさんが、足裏で地面を確かめるように体重をかける音がした。
「騎士道じゃないね。馬も通れないくらい細いし。でも、明らかに誰かが使ってた感じがするね」
「昔の猟師の道かな」
ことはが言う。
「このあたり、猟師の人たちが南の村との間を行き来してたって、お兄ちゃんが言ってた気がするよ」
「なるほど、これは使えるかも!」
しおりさんの声が、少し前向きになった。
古い道に沿って、南へ進む。
歩きやすい。土が固いから足音が立ちやすいが、それよりも、道の両側に草や低木がないことの方が助かった。暗闇の中で、枝が顔に当たらない。足が絡まない。チーの足も滑らない。
ことはがチーの首のあたりをそっと撫でた。
チーが鼻を鳴らして、少しだけ歩幅を広げた。
進んで、止まる。止まるたび、耳を広げる。東の爆ぜる音が、まだ消えない。確かめてから、また進む。
異変に気づいたのは、道が少し曲がったあたりだった。
「……止まってください」
声を低くした。
しおりさんがすぐに足を止める。チーも合わせる。
耳を南西に向ける。
金属の音。
革が擦れる音。複数の足音が、地面を踏む。そろっている。間隔が一定だ。
騎士だ。
それも一人ではない。
「騎士の隊列が来ます。南西から、こっちに向かってる」
「何人?」
「……七、八人。」
「どのくらい?」
「音の速さからすると……一分も経たないくらい」
しおりさんの息が、一瞬で変わった。
「木の上」
短く言った。
「ことは、チーと一緒に動ける?」
「うぃ」
「さゆりは私が持つ。いい?」
返事をする間もなく、腰のあたりに腕が回り、音が消えた。
しおりさんの足が地面を離れる感触が、体を通して伝わってくる。一歩、二歩。それだけで、高さが変わる。枝が頬を掠める。さらに高くなる。
止まった。
葉の音が、顔のすぐそこで鳴っている。木の幹が背中に当たる。しおりさんが枝に腰を落ち着かせる微かな音。それだけで、どのくらい上にいるのかが、なんとなく分かった。
かなり高い。
下から上がってくる音が、少しだけ遠くなった。
騎士の足音が近づいてくる。
革が擦れる。金属が揺れる。誰かが短く何かを言う声がした。言葉は聞き取れない。でも、緊張している感じじゃない。いつも通りの巡回に聞こえた。
チーが、下のどこかで息を殺している気配がした。ことはが、チーの首に顔を埋めているような、そういう気配。
足音が、真下を通る。
七人だった。鎧の重さが違う人間が一人混じっている。指揮官か、あるいは魔術師か。
通り過ぎていく。
東の方へ。
音が、少しずつ遠くなって、葉擦れの中に溶けていった。
しおりさんが、ゆっくりと枝から動いた。
地面に降りると、ことはがチーの首元から顔を上げた。チーが大きく息を吐く。
「……行った?」
「うん」
しおりさんが短く答えた。
「東に向かって歩いてるね。たぶんまだ何かを探してる」
「向こうのことは放っておいていいから、あいつらには別の目的があるんだろうし」
酸っぱい匂いは、しなかった。
それだけ確かめた。
道を再び進み始めてから、ことはが立ち止まった。
チーを止めて、しゃがむ気配がした。
何をしているのか、音では分からない。
土に触れている音がした。指が地面をなぞるような、細くて静かな音。
次の瞬間、湿った土の匂いが、一瞬だけ濃くなった。
すぐに消えた。
ことはが立ち上がって、チーの首を撫でた。チーが鼻を鳴らした。
「何してたの?」
私は聞いた。
「ちょっとね」
ことはは答えた。それだけだった。
それ以上は聞かなかった。
南へ進み続けた。
古い道はまだ続いている。足の下の音が、ゆっくりと変わっていく。踏み固められた土から、少しずつ柔らかい地面に戻り始めている。道の端が崩れて、草に飲まれかけている場所もあった。
その道が、森の奥に向かって細くなっていくあたりで、チーの足が止まった。
ことはが何かを言う前に、チーは自分で立ち止まっていた。耳が前を向いている。鼻先が低くなる。前足が、一歩だけ下がった。
「チー?」
ことはの声に、チーは答えなかった。
私は耳を前に向けた。
最初は何も聞こえなかった。
虫の声。風。木々が擦れる音。いつも通りの森の音。
でも、その下に。
何かがいた。
音の穴ではなかった。今まで何度か感じた、虫や鳥が黙る静けさとは違う。むしろ逆だった。何かが、音を出している。不規則な音。土を叩くような、引きずるような、低くて重い音。リズムがない。人間の足音ではない。獣の足音でもない。
何かが、ゆっくりと、こちらに近づいている。
チーの毛が逆立つ音がした。
「……しおりさん」
私の声が、かすれた。
「何か、います」
しおりさんが振り返る気配がした。ハルバードの石突きが、地面に静かに触れた。
「どっち」
「前。道の先。まだ遠いけど……こっちに来てます」
「人?」
「……違います」
自分でも、声が震えているのが分かった。
「人じゃないです。何なのか分からない。でも、今まで聞いたことがない音です」
森の奥から、また音がした。
土を叩く音。引きずる音。その間に、かすかに何かが軋むような、乾いた音が混じっている。
チーが、低く唸った。
ことはがチーの首を握って、何かを堪えるように息を吸った。
風が止まった。
森が、私たちの方を見ている気がした。




