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No Look Jamming〜私は見る事ができない〜  作者: 船木
ツキナミの生活
21/29

フローティングポイントの向こう岸 2

 川を渡ってから、音が変わった。

 土が硬い。草が少ない。木の立ち方が、さっきまでと少しだけ違う。木と木の間隔が広くて、幹が太い。枝が高いところで広がっているから、地面に近い場所の空気が、通っている。

 風の道がある。

 それだけで分かる。ここには人が入ってくる。あるいは、かつて入っていた。

「……道があります」

 私は言った。

「古い道だね、ちゃんと踏み固められてる」

「分かる?」

「足の下の音が違います。土が詰まってる感じがします」

 しおりさんが少し立ち止まる気配がした。

「……本当だ」

 しおりさんが、足裏で地面を確かめるように体重をかける音がした。

「騎士道じゃないね。馬も通れないくらい細いし。でも、明らかに誰かが使ってた感じがするね」

「昔の猟師の道かな」

 ことはが言う。

「このあたり、猟師の人たちが南の村との間を行き来してたって、お兄ちゃんが言ってた気がするよ」

「なるほど、これは使えるかも!」

 しおりさんの声が、少し前向きになった。

 古い道に沿って、南へ進む。

 歩きやすい。土が固いから足音が立ちやすいが、それよりも、道の両側に草や低木がないことの方が助かった。暗闇の中で、枝が顔に当たらない。足が絡まない。チーの足も滑らない。

 ことはがチーの首のあたりをそっと撫でた。

 チーが鼻を鳴らして、少しだけ歩幅を広げた。

 進んで、止まる。止まるたび、耳を広げる。東の爆ぜる音が、まだ消えない。確かめてから、また進む。

 異変に気づいたのは、道が少し曲がったあたりだった。

「……止まってください」

 声を低くした。

 しおりさんがすぐに足を止める。チーも合わせる。

 耳を南西に向ける。

 金属の音。

 革が擦れる音。複数の足音が、地面を踏む。そろっている。間隔が一定だ。

 騎士だ。

 それも一人ではない。

「騎士の隊列が来ます。南西から、こっちに向かってる」

「何人?」

「……七、八人。」

「どのくらい?」

「音の速さからすると……一分も経たないくらい」

 しおりさんの息が、一瞬で変わった。

「木の上」

 短く言った。

「ことは、チーと一緒に動ける?」

「うぃ」

「さゆりは私が持つ。いい?」

 返事をする間もなく、腰のあたりに腕が回り、音が消えた。

 しおりさんの足が地面を離れる感触が、体を通して伝わってくる。一歩、二歩。それだけで、高さが変わる。枝が頬を掠める。さらに高くなる。

 止まった。

 葉の音が、顔のすぐそこで鳴っている。木の幹が背中に当たる。しおりさんが枝に腰を落ち着かせる微かな音。それだけで、どのくらい上にいるのかが、なんとなく分かった。

 かなり高い。

 下から上がってくる音が、少しだけ遠くなった。

 騎士の足音が近づいてくる。

 革が擦れる。金属が揺れる。誰かが短く何かを言う声がした。言葉は聞き取れない。でも、緊張している感じじゃない。いつも通りの巡回に聞こえた。

 チーが、下のどこかで息を殺している気配がした。ことはが、チーの首に顔を埋めているような、そういう気配。

 足音が、真下を通る。

 七人だった。鎧の重さが違う人間が一人混じっている。指揮官か、あるいは魔術師か。

 通り過ぎていく。

 東の方へ。

 音が、少しずつ遠くなって、葉擦れの中に溶けていった。

 しおりさんが、ゆっくりと枝から動いた。

 地面に降りると、ことはがチーの首元から顔を上げた。チーが大きく息を吐く。

「……行った?」

「うん」

 しおりさんが短く答えた。

「東に向かって歩いてるね。たぶんまだ何かを探してる」

「向こうのことは放っておいていいから、あいつらには別の目的があるんだろうし」

 酸っぱい匂いは、しなかった。

 それだけ確かめた。

 道を再び進み始めてから、ことはが立ち止まった。

 チーを止めて、しゃがむ気配がした。

 何をしているのか、音では分からない。

 土に触れている音がした。指が地面をなぞるような、細くて静かな音。

 次の瞬間、湿った土の匂いが、一瞬だけ濃くなった。

 すぐに消えた。

 ことはが立ち上がって、チーの首を撫でた。チーが鼻を鳴らした。

「何してたの?」

 私は聞いた。

「ちょっとね」

 ことはは答えた。それだけだった。

 それ以上は聞かなかった。

 南へ進み続けた。

 古い道はまだ続いている。足の下の音が、ゆっくりと変わっていく。踏み固められた土から、少しずつ柔らかい地面に戻り始めている。道の端が崩れて、草に飲まれかけている場所もあった。

 その道が、森の奥に向かって細くなっていくあたりで、チーの足が止まった。

 ことはが何かを言う前に、チーは自分で立ち止まっていた。耳が前を向いている。鼻先が低くなる。前足が、一歩だけ下がった。

「チー?」

 ことはの声に、チーは答えなかった。

 私は耳を前に向けた。

 最初は何も聞こえなかった。

 虫の声。風。木々が擦れる音。いつも通りの森の音。

 でも、その下に。

 何かがいた。

 音の穴ではなかった。今まで何度か感じた、虫や鳥が黙る静けさとは違う。むしろ逆だった。何かが、音を出している。不規則な音。土を叩くような、引きずるような、低くて重い音。リズムがない。人間の足音ではない。獣の足音でもない。

 何かが、ゆっくりと、こちらに近づいている。

 チーの毛が逆立つ音がした。

「……しおりさん」

 私の声が、かすれた。

「何か、います」

 しおりさんが振り返る気配がした。ハルバードの石突きが、地面に静かに触れた。

「どっち」

「前。道の先。まだ遠いけど……こっちに来てます」

「人?」

「……違います」

 自分でも、声が震えているのが分かった。

「人じゃないです。何なのか分からない。でも、今まで聞いたことがない音です」

 森の奥から、また音がした。

 土を叩く音。引きずる音。その間に、かすかに何かが軋むような、乾いた音が混じっている。

 チーが、低く唸った。

 ことはがチーの首を握って、何かを堪えるように息を吸った。

 風が止まった。

 森が、私たちの方を見ている気がした。

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