サウンドマッピング3
森の南の端に出てから、私たちは東に向かって進んでいた。
師匠と合流するはずだった東の村は、この先――ことはが前に地面に描いてくれた、あの簡単な地図の、その方向にある。
チーの背中の上で、ことはと二人並んで揺れる。
足元を流れていく土の音と、下草を踏む感触で、木の間隔が少しずつ広がってきているのが分かった。森の密度が、わずかに薄くなっていく。
「もう少し進んだら、一回止まろう」
先頭でチーを引きながら、しおりさんが短く言う。
「村の近くは、必ず様子を見てから動く」
「うぃー!」
ことは嬉しそうに返事をした。
昨日から怒涛の連続だったから、ようやくゆっくりできる、主人様にも会える、その2つの感情が返事に現れていた。
でも、それは一瞬で泡となって、降ってきた雪を捕まえた時のように消えていった。
耳の奥で、小さな「パチッ」という音がした。
乾いた枝が折れたような音。けれど、すぐにそれが一つじゃないと気付く。
パチ、パチパチ、パチパチパチ――。
乾いた木の皮がはじける音が、風に乗って届く。
その下で、低い「ごうっ」という唸りが、ゆっくり大きくなっていく。
焦げた匂いが、鼻の奥を刺した。
焚き火の匂いじゃない。薪の甘さより先に、油と乾ききった木が焼ける、苦い匂いがくる。
「……ねえ、お姉ちゃん」
ことはが、顔をしかめながら小さな声で言う。
「なんか、焦げ臭い」
「うん」
無意識に、胸元のブローチを握りしめていた。
耳を澄ませる。
パチパチという細かい爆ぜる音が、あちこちで同時に鳴っている。
その合間に、重い木が折れる「ミシッ」、何かが崩れ落ちる「ドサッ」という音。
「……東の方」
喉が乾く。
「さっきまで“静かな村がある”って言ってた方向から。何かが、大きく燃えてる」
次の瞬間、しおりさんはハルバードを地面に捨て、風のように木の上に駆け上がっていた。
歩数を数える間もなく、きっと視界に入っていたとしても目で追うこともできなかっただろう。
枝の軋む音が頭上ですると思った次の瞬間には音がしなくなった。
見えてはいないはずなのに、今の動きが“いつものしおりさん”じゃないことだけは、はっきり分かった。
「……えっ?」
ことはが、小さく息を呑んだ。
私も、チーのたてがみを握りしめる。
上の方で、枝が一度だけ大きく揺れる音がした。
それきり、しばらくの間は、風の音しか聞こえない。
代わりに、東からの音が、少しずつ厚みを増していった。
爆ぜる音。
燃え移る音。
何かが倒れる音。
しおりさんが木の上に消えてから数分、ことはがこの空気に耐えられずに小さな、消え入りそうな声で
「……お兄ちゃん、いるかな」
声はか細く、消え入りそうだった。
体感時間では数十分、その重く苦しい空気が続いた。
その間、息を詰めていたせいで、胸が苦しくなりかけた頃。
上から、枝を踏みかえる小さな音。
すぐに、幹を滑り降りてくる気配が落ちてきた。
さっきと同じくらい速い。
でも、音の立て方は、さっきより荒くかった。
どん、と土を踏む音。
すぐ目の前に、しおりさんの気配が戻ってくる。
額から流れた汗が、顎を伝って落ちる音まで聞こえた気がした。
「……ただいま」
呼吸は少し荒いのに、声だけはいつものしおりさんだった。
無理やり、そこに戻してきた、という感じがする。
「どう…でしたか」
自分の声が、思ったよりも掠れていた。
「村の、端っこの方がいくつか燃えてる」
言葉を選びながら、ゆっくりと告げられる。
「真ん中から一気に、じゃない。家ごと、あちこちに火が点いてる感じ」
ことはが、小さく息を呑んだ。
「人は……?」
「いたよ」
短い返事。
「走ってる人も、倒れてる人もいた。全部は見えなかったけど……」
言いながら、しおりさんの喉が、一度だけひくっと鳴った。
そのすぐあとで、いつもの調子を少しだけ上塗りしたみたいに、続ける。
「それから、兵隊が何人か。あと、ローブを着た魔術師も」
しおりさんは唇を噛んだように、少し間を置いてから、
「魔術師の奴らが、村に火を放ってた」
その説明の途中で、一瞬だけ、酸っぱい匂いがした。
全部を言っていない匂い。
それを口に出す前に、しおりさんが、先に話を進める。
「……で」
軽く息を吐く音。
そのあとの言葉は、少しだけ低かった。
「今の私たちがあそこに向かうのは危ないから進路変更をしよう」
さらりとした口調なのに、胸の奥に重く沈む。
「さゆりの目は、まだ本調子じゃないし。ことはの札も、今は使えない。チーだってずっと走って疲れてる」
「でも――」
ことはが、思わず声を上げた。
「お兄ちゃん、あっちに……」
「分かってるよ」
しおりさんは優しく、でも鋭くことはの言葉を遮った。
「だからこそ、今は行かない」
その一言に、また酸味が混じる。
嘘の匂いがする。
しおりさんはきっと一人なら行っていただろう、主人様に会いたいから。
でも、私とことはがいるから、行かない選択肢を選んでいる。
私たちがいたら足手まといになるから、しおりさんの負担になってしまうから。
私の脳内にはそんな事がぐるぐるとかけ巡った。
しおりさんが先ほどとは変わって、いつもの明るい感じの声で、
「朝、決めたでしょ」
土を踏みしめる音が、一歩、近づく。
「『見つからない』『戦わない』『三人ともできるだけ無傷で森を抜ける』。それと、『師匠に、できるだけ怒られない』」
「師匠は、ああいうのを見たら、多分こう言うよ」
しおりさんは少し声のトーンを下げた。
「『今は近寄らないほうが賢明だ』ってね」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
自分たちで決めたはずのルールが、今になって重たく響く。
ことはが、唇を噛む音を立てる。
「……じゃあ、どうするの」
「東は、一回あきらめるよう」
迷いのない言い方だった。
「今の“鬼ごっこのフィールド”は、南。崖と川の方」
「崖の……?」
「うん」
土の上に、何か先端の丸いもので線を引く音がする。ハルバードの石突きだ、とすぐに分かった。
「ここが今いる場所。東は、さっきさゆりが言った“燃えてる方”。で、南にちょっと行くと、崖と川がある。あっちは、まだ静か」
たしかに、耳を澄ませても、水音以外の嫌な気配はしない。
兵隊の金具の音も、ローブの擦れる音も、今は届いてこない。
「崖の方が危なくないですか」
「危ない」
即答だった。
「でも、危ないの種類が違うんだよ。崖は、気をつければ避けられる。見張りも、魔術師も、あんまり来たがらない」
そこで一度言葉を切ってから、続ける。
「炎と兵隊とローブの人たちは、こっちがどれだけ気をつけても、巻き込んでくる。だから、今はそっちを選ばないようにするの」
静かな説明だった。
怖がらせないように、できるだけ形を整えて話してくれているのが分かる。
そのうえで。
「……師匠に会うまで死なないって、約束したでしょ」
少しだけ、声の端が震えていた。
でも、それを押し込めるみたいに、すぐ笑いを乗せる。
「ここでルール破って、三人まとめて丸焦げになったら、師匠に何言われるかわかないよ?」
その笑い声には、ほんの少しだけ酸っぱい匂いと、一緒に塩っぽい匂いが混ざっていた。
泣きそうなときの匂いだ。
「……うん」
ことはが、しばらく黙ったあとで、ぽつりと返事をした。
さっきまでの不安に、悔しさが混じった声。
「お兄ちゃん、怒るの嫌だし、怒るの下手くそだもんね」
「そうそう」
「だから、怒られないようにしないとね」
しおりさんが、チーの首筋を軽く撫でる。
チーが、低く小さく鼻を鳴らした。
「だから、今は生き延びるルートを選ぼう。東を見ない方角に向き直って、南に下りる」
私は胸元のブローチを握りしめたまま、うなずいた。
「……はい」
視界は真っ暗なままなのに、背中側だけがじりじりと熱く感じる。
遠くで燃えている村の音が、背中越しに追いかけてくるみたいだった。
でも――今、振り返らないことを選ぶ。
師匠の手の温度と、あのときの声を思い出しながら。
『嫌なことからは逃げていいんだよ、怖かったら助けてって言っていんだよ』
喉の奥で、小さく息を飲んだ。
「チー、南に行くから、二人をお願いね」
しおりさんが、静かに号令をかける。
チーの蹄が、土を踏む位置を変えた。
東からの熱と叫び声を、背中で受ける向きに。
崖と川の方へ。
まだ何も知らない方角へ。
私たちは、朝に決めた鬼ごっこのルールを抱えたまま、一歩、また一歩と、森の縁から離れていった。




