サウンドマッピング2
出発の準備を終えて、私たちは秘密基地を後にした。
ことはが入口の上に、割れた硝子のレンズをいくつか吊るす。紐がこすれて、ちりん、と微かに鳴った。
「これでさ」
ことはが言う。
「今度ここに戻ってきた時、お姉ちゃんが『ルック』ってしたら、すぐ周りの様子分かるからね」
「うん。その時までに、もっと上手に使えるようになっとく」
「そのためにも、生きて帰ってこないと、だから」
ことはが、チーの頭をやわく撫でる。
チーは嬉しそうに、ふご、と短く鼻を鳴らした。
「チーも、がんばろ」
その一声で、チーの背中の筋肉が、すっと緊張したのが分かる。
「じゃ、サウンドマッピング開始〜」
いつもの、ちょっとふざけた調子のしおりさんの声。
「さゆり先生、よろしくね」
「……はい」
私はことはの後ろ、チーの背中にまたがる。
ことはの腰にそっとつかまると、チーが体勢を整える気配がした。
その横で、鎧の擦れる音と一緒に、しおりさんの足音が付いてくる。
ハルバードの石突きが、とん、と柔らかい土を叩いた。
「西は静か?」
ことはが、前を向いたまま聞いてくる。
「うん。鳥と風だけ。大きい足音はしない」
「うい。じゃ、まず西に回りまーす」
ことはがチーの首筋を、ぽん、と軽く撫でる。
チーはそれだけで進行方向を変え、ゆっくりと歩き出した。
本当のことを言えば、目を開けていれば、足元の根っこも岩もちゃんと分かる。
でも私は、それを「見えている」とは数えないことにしている。
耳に届く足音の響き方、鼻先をかすめる土と木の匂い。
チーの背中越しに伝わる傾き。
それだけで、どこに段差があって、どこに枝が横切っているか——分かる“気がする”。
「あ、そこ段差」
私はチーの首の少し上を、指先でとん、と叩いた。
「ちょっとだけ左」
「へーい」
ことはが短く返事をして、手綱代わりの紐を軽く引く。
チーが一歩、二歩と進路をずらした。
さっき足で確かめておいた根の位置を、体が勝手に覚えていた。
私は、あくまでそれを「耳と匂いのおかげ」にしておく。
しばらく西に進むと、風の手触りが変わった。
柔らかい葉を撫でる音が、ざらざらとした擦れ音に変わる。
低い枝が増えて、チーの耳に何度かこすれる気配がした。
「この先、枝が低くなる」
私は前に向かって声をかける。
「ことは、ちょっと頭下げて」
「あいさー」
ことはがチーのたてがみに顔をうずめた。
代わりに、しおりさんの鎧が、何度か軽く枝を受け止める音がする。
「うぐ。これ以上低かったら、ハルバードしまうとこだったわ」
冗談めかしてるけど、足音はちゃんと慎重だ。
木々の密度が少しだけ薄くなり、風の通り道が広がる。
土の匂いに、かすかに水の匂いが混ざった。
「……水の音」
私は息を止めて耳を澄ませた。
「前の方、ちょっと右。そんなに太くはないけど、そこそこ速い流れ」
「川?」
ことはの声が、すぐ近くで跳ねる。
「うん。石に当たってる。……あ、誰か渡ってる」
水音に、重い靴の音が重なる。
水が跳ねて、布と革を叩く気配。
「一人か二人。鎧は軽い。偵察って感じ」
「こっち来てる?」
「南から北。こっちとは逆」
「なら、一回ストップね」
しおりさんの足音がぴたりと止まる。
「さゆり、動き変わったら教えて」
「分かりました」
私はチーの首に頬を預けて、川の方角に意識を集中させた。
水面を叩く靴の音が、一定の間隔で続く。
半分、三分の二、ほとんど向こう岸——そんな感覚が、足音の間からなんとなく伝わってくる。
やがて、水を蹴る音が途切れ、濡れた靴で草を踏む音に変わった。
「……もう岸に上がりました。こっちから離れていってます」
「ナイス」
ことはが小さく指を鳴らした。
「じゃ、川を正面に見ない方向で。ちょっとだけ西にずれてから南下ね」
ことはが、チーの耳の後ろをぽん、と撫でる。
「チー、右は“行っちゃダメな音”だよ。左から回るよー」
チーが鼻を鳴らし、言葉が分かっているみたいに進路を変えた。
川から少し離れたあたりで、森の空気がまた変わった。
さっきまで騒がしかった鳥の声が、急に途切れる。
虫の羽音も、ぱたりと消えた。
「……ここ、嫌な静けさ」
思わず口からこぼれた。
「さっきまでいた鳥が、全部どこか行った感じ。風の音だけ残ってる」
「ふむ」
ことはが、チーの背の上で座り直す気配を見せる。
「じゃあ、そこは“音の穴ゾーン”ってことで」
さらさら、と地面に何か描く音がした。
ことはが、チーの脇から身を乗り出して、指で土をなぞっている。
「お姉ちゃん、今の“穴”、どのへん?」
「今いる場所から……少し東寄り。大きくはないけど、ぽっかり空いてる感じ」
「オッケ。じゃ、その穴の端っこをかすめるくらいで、ちょい遠回り」
ことはの指先が、地面に描いた線の上をすっとなぞる。
なぞったところから、土の匂いが一瞬だけ濃くなった気がした。
描かれた線の中に、何かが小さく息をしたような、変な感覚。
でも、目で見たわけじゃないから、たぶん気のせいだ。
「罠はさ、それっぽく見えない方が楽しいからね」
ことはが、地面から手を離しながら笑う。
「一個でドカンより、ちょっとずつイラっとする方が、たぶん効くよ」
「ことはっぽい」
「でしょ?」
ことはが、チーの背の上でちょっと胸を張った。
「変な奴らイライラ大作戦だもん。殺しちゃったら、そこで終わりだからね」
西に回り込みながら南へ下っていくと、土の柔らかさがだんだん変わってきた。
最初は森の奥の、ふかふかした土。
それが少しずつ締まっていって、石の多い感触になる。
「斜面になってきてる」
チーの肩が、わずかに下がる。
「ここから先、ちょっと下り坂」
「あい」
ことはが、チーの背の上でぴょこんと体勢を変えた。
「一回止まろ」
チーが足を揃えて止まると、しおりさんの足音もその横で止まる。
「さゆり、この先、何かいそう?」
しおりさんの声が落ち着いて飛んでくる。
「……今のところ、大きい足音はないです。風は前から。鳥も、さっきよりは普通に鳴いてます」
「よし。じゃ、この斜面の上側を回って、森の縁まで出たいな。ことは、ルートお願い」
「うい!」
ことはが、ぴっと斜面の方を指さす。
「上からなら、様子見てから降りられるし、何かあったらまた森側に戻れる。下からだと、逃げ場少ないからね」
チーの背中をまた撫でながら、ことはが姿勢を整える。
「しおりんは、そのちょっと前。お姉ちゃんと私はチーで後ろから」
「はいはい。壁役ね」
鎧がきしむ音と一緒に、しおりさんが一歩、斜面側に出る。
ハルバードの刃が、枝に当たって柔らかく音を立てた。
「さゆり、また耳、貸して」
「もちろんです」
私はチーのたてがみに指を絡ませ、外の音に意識を開いた。
少し進むごとに、森の音が変わっていく。
さっきまで頭上を覆っていた枝葉の天井が、だんだん薄くなる。
風が、絡みつくような動きから、まっすぐ抜けていく流れに変わった。
「……音が、広くなってきた」
私は言った。
「前の方、少し空いてる。土の匂いに、草の匂いが混ざってきてる」
「森の縁かな」
しおりさんの声が、ほんの少しだけ弾む。
「一回そこで止まって、様子見よ。さゆり、いけそう?」
視界のことだと、すぐ分かった。
「……少しだけなら」
私は深く息を吸い、胸元のブローチをぎゅっと握る。
「ルック」
静かな糸が一本、森の縁の方へと伸びていく。
その先にぶら下がっている、小さな硝子片に触れる感覚。
光が、鈍く跳ね返る。
その向こうに——ぼやけた輪郭。
森を抜けた先に広がる、ひらけた草地。
少し離れたところに、細い道。人が何度も通った痕跡。
さらに奥には、屋根がいくつか固まっている。細い煙が、空に溶けていく。
「……見えました」
私は息を吐いた。
「森を抜けた先に、小さな道があります。その先に、屋根がいくつか……多分、村です」
「東の村?」
ことはの声が、期待で揺れた。
「分かりません。でも、誰かが“暮らしてる音”はします。鍛冶の金属みたいな音と、子どもの笑い声と……あと、食器のぶつかる音」
「ご飯……」
ことはのお腹が、小さく鳴る音がした。
「道には、人影は?」
しおりさんが、確認するように聞く。
「今のところ、見えません。馬も、兵隊も」
「んじゃ、一回そこまで出ようか」
私は「ルック」を解いて、糸をそっと手放した。
頭の奥がじん、としたけれど、さっきほどの痛みではない。
「大丈夫?」
「はい。ちょっと重いだけです」
「頼りにしてるよ、サウンドマッピングさん」
しおりさんがおどけた声で言う。
その声には、酸っぱい匂いは混ざっていなかった。
「じゃ、森の縁までラストスパート」
「へいへい」
ことはがチーの首をぽんと撫でる。
「チー、もうちょっとだけがんばろ。お外に出たら、ご飯」
チーが嬉しそうに鼻を鳴らして、前へ踏み出した。
風の音が、さらに広がっていく。
木々のざわめきの向こうで、人の暮らしの気配が、少しずつ近づいてきた。
負けてもいい。勝たなくていい。
でも——三人と一頭で、生きてそこまで辿り着く。
胸の奥でその言葉をもう一度なぞりながら、私は耳を前に向けた。
仕事が忙しすぎるので、ゆっくり投稿していこうと思います。




