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No Look Jamming〜私は見る事ができない〜  作者: 船木
バケモノと呼ばれて
19/35

狂ッた世界でこんばんワ 3

 結び目が脈打った瞬間、しおりさんは、動いていた。


 ハルバードを構えたまま、前に出る。一歩。それだけで、空気が変わった。それが地面を蹴る。這う姿勢。速い。均衡が壊れた直後の、最初の突進。三つの目が、しおりさんを向いている。全部が、しおりさんだけを向いている。


 しおりさんがハルバードを横に振った。地面を叩く。砂利が弾けて、壁になる。それが砂利の壁を突き抜けた。速度が、落ちていない。前足が振り下ろされた。しおりさんがハルバードの柄で受けた。金属が軋む。足が地面を滑った。右足。細い方の足。押されている。


 さっきとは、違う。均衡が壊れる前、あの化け物は半歩下がっていた。怯えていた。今は、もう怯えていない。しおりさんの背中に守られている私は、もう化け物じゃない。ただの、非力な子供だった。守られた瞬間に、私は、あれにとって、恐れる理由のない獲物に、戻ってしまった。


 「ことは!」


 しおりさんが叫んだ。受けた姿勢のまま。


 「起きてる!」


 「足元に何か出せる?」


 「……やる!」


 ことはの声が、遠くから聞こえた。震えている。それでも、手は動いている。地面を指が擦る音。


 それの前足が、もう一度、振り下ろされた。しおりさんがハルバードを回して、刃で逸らした。前足の爪が地面を抉る。しおりさんの体が横にずれた。右足が、踏ん張れていない。


 線が、見えていた。目は、まだ開いている。閉じていなかった。しおりさんの赤い線が見える。右足の線が、さっきよりもっと細い。腕の線は太い。全身の力を上半身に集めて、下半身を、捨てている。片足を捨ててでも私達を守ろうとする、その線の配り方が、私には、痛いほど見えていた。線の中に、整った何かが、一瞬見えた。色とは別の、もっと奥にある何か。すぐに消えた。でも、あのぐちゃぐちゃとは、全く違うものだった。しおりさんは、一つの流れだった。


 それの線も、見えている。結び目が修復されている。さっき私が触れた場所の緩みが、もう塞がりかけていた。


 しおりさんが踏み込んだ。ハルバードの刃が唸る。前足の関節を、斬り上げた。線が刃に集中する。赤い線が腕に流れて、刃に乗る。肉を裂く音。前足の鳥の関節が、切れた。ぶらりと、垂れた。でも、もう知っている。繋がる。切れた線の端が、すぐに伸び始めた。相手を探して、繋がっていく。


 「……何回切っても繋がるね、これ」


 しおりさんの声。明るさを作ろうとしていた。作れていなかった。結び目が脈打った。紫が膨らむ。


 「来ます!」


 叫んだ。私の声。しおりさんは返事をしなかった。体で答えた。横に飛んだ。紫が通過した。しおりさんがいた場所の木が、一本、消えた。着地。右足。膝が一瞬折れた。立て直した。右足の線が、もう、糸の様だった。


 地面が弾けた。それの後ろ足の下。ことはの仕掛け。小さい。弱い。体勢を崩すには、足りない。でも、後ろ足が、一瞬、浮いた。しおりさんが踏み込んだ。最後の力を搾る様に。ハルバードが、結び目めがけて振り下ろされた。それが頭を振った。ハルバードが弾かれた。結び目に、届かなかった。刃が横に逸れて、頬を掠めた。浅い。線が数本飛び散っただけ。しおりさんの体が押し戻された。右膝が地面についた。ハルバードを杖にして、かろうじて支えている。


 「しおりん!」


 ことはの声が裏返った。


 「……大丈夫」


 嘘だった。ハルバードの刃が欠けていた。結び目を叩いた時に溶けた部分と合わせて、もう、半分もない。それが体を起こした。四つ足で立った。三つの目が、見下ろしている。結び目が脈打った。また、溜め始めている。しおりさんが、立てない。ことはの仕掛けは、もう届かない。逃げる隙が、ない。


 線が見えていた。全部、見えていた。それの体の中を走る線が、ぐちゃぐちゃに繋ぎ合わされて、接合部ごとに色を変えている。前足の関節は、四つ。獣の三つと、鳥の一つ。鳥の関節は、一拍遅れる。ずっと見えていた。最初から。一拍目に獣の三つが動いて、二拍目に鳥の一つが、追いかける。その一拍のズレが、あの足音の不協和音を作っていた。


 拍子が二つある。

 一つの体から。


 あの音。最初に聞いた、あの音。足音がばらばらだった理由。拍子が合っていなかった理由。全部、このズレだった。まるで、二人の奏者が別々の楽譜を読んでいる様に。まるで、割れた鏡に映る、少しずつずれた二つの像の様に。まるで、遅れて届く木霊が本物の声と重なってしまった様に。一つの体が、二つの時間を、同時に生きている。


 結び目が膨らんでいく。紫が太くなる。あと数秒で、撃つ。ズレが見えている。一拍。たった一拍のズレ。目が、そこから離れなかった。鳥の関節が遅れる瞬間。獣の三つが動いて、一拍の空白があって、鳥の一つが追いかける。その空白を、目が追っていた。離そうとしても、離れなかった。空白が、目を掴んでいた。


 口が開いた。胸の奥から、何かが這い上がってくる。声では、なかった。もっと奥の、もっと底の、名前のない場所から来る何かが、喉を通って、唇に触れた。


 「……ジャム」


 口が、勝手に形を作った。知っている言葉。私の能力。でも、使おうとしたんじゃなかった。いつも、私のジャムは、相手の視界を奪う。目を潰して、その視界を、私の側へ引きずり込む。それが、ジャムだった。ずっと、そう思っていた。今、私が呟いたそれが何をするのか、私自身、分かっていなかった。


 何も起きなかった。何も起きなかった様に、思えた。結び目が紫を押し出した。しおりさんの方に。しおりさんが避けようとした。それが踏み込んだ。紫を撃った直後に、追撃。前足で、仕留めに来る。前足が動いた。一番奥の関節。動いた。真ん中の関節。動いた。外側の関節。動いた。鳥の関節。


 動かなかった。


 一拍遅れの、はずだった。いつも一拍遅れで追いかけてくるはずだった。二拍。遅れた。たった、それだけのことだった。前足が振り下ろされた。獣の三つの関節が、腕を振り下ろす。でも、鳥の関節が、ついてこない。腕の途中で、力の流れが途切れた。振り下ろしの途中で、肘から先が、一瞬、止まった。軌道がずれた。しおりさんの頭を狙っていた爪が、肩の横を通過した。空を、切った。


 それの体が、傾いた。振り下ろしの力が途中で途切れたせいで、体重が前に流れた。前足が地面に着く前に、もう片方の前足が出ようとした。でもそっちの鳥の関節も、遅れていた。二拍。さっきまでは一拍だった遅れが、両方の前足で、二拍になっていた。前足が交差した。自分の足に、自分の足が引っかかった。頭から地面に突っ込んだ。三つの目が、驚いていた。自分の体が言うことを聞かないことに。土が弾けた。木の根が折れた。それの体が地面を抉りながら滑って、木に、突っ込んだ。


 短い咆哮が上がった。怒りではなかった。戸惑い。自分の体に何が起きたのか、分かっていない。起き上がろうとした。後ろ足が地面を蹴った。立ち上がろうとした。でも、前足が、まだ交差したままだった。鳥の関節が遅れている。解こうとしている。解けない。一拍が二拍になっただけで、全部が噛み合わなくなっている。もがいていた。自分の体に閉じ込められた様に。


 「走って!」


 しおりさんが叫んだ。膝が地面についたまま。でも声は、通った。ことはが動いた。


 「チー!」


 チーが駆けた。ことはの方に。ことはがチーの背中に手を伸ばした。呻いた。背中が痛い。それでも、乗った。


 「お姉ちゃん!」


 手が伸びてきた。掴んだ。引き上げられた。チーの背中。たてがみを握った。しおりさんが立ち上がった。ハルバードを杖にして。右足を引きずって。


 「ことは、崖!」


 「右前!」


 チーが走った。背後で、それがまだもがいている。前足の鳥の関節が遅れたまま、体が言うことを聞かない。立ち上がれない。立ち上がろうとするたびに、前足が交差する。


 私が、何かしたのか。ジャムを言った。でも、自分で使おうとしたんじゃない。勝手に、出た。地面が変わった。砂利になった。風が下から吹き上げてくる。崖。


 「ここ! 岩が出っ張ってるとこ!」


 ことはが叫んだ。崖の縁の手前。大きな岩が三つ並んでいる。しおりさんが追いついた。走っていた。右足を引きずりながら。


 「降りよう」


 短く言った。背後で、咆哮が聞こえた。立ち上がった。前足の交差が解けたのか。二拍の遅れが戻ったのか。分からない。でも、追ってくる音が聞こえた。這う音。地面を擦る音。速い。でも、さっきより遅い。まだどこか、動きが噛み合っていない。


 「チー、崖降りて!」


 ことはがチーの首を叩いた。チーが崖の縁に足をかける。風が下から吹き上げてくる。深い。チーが崖を降り始めた。木の根に足をかける。一段。また一段。しおりさんが最後に飛び込んだ。崖の縁を蹴って、岩の出っ張りに着地した。右足が触れた瞬間、息を呑んだ。


 上で、それが崖の縁に来た。三つの目が、こちらを見下ろしている。前足が岩を叩いた。二回。三回。降りてこなかった。前足の拍子が、まだ揃っていないのか。崖を降りるには、四つの足が噛み合わないといけない。今のあれには、それができないのか。それとも、別の理由か。分からなかった。咆哮が降ってきた。長い。複数の声が重なった咆哮。でも、距離がある。崖の上と下。咆哮が終わった。それが崖の縁を離れる音がした。四つ足の音。ばらばらの拍子。さっきより、もっと、ばらばらだった。遠ざかっていく。消えた。甘い匂いが、夜の風に押されて散っていく。


 チーが最後の段差を降りた。足の下が湿った土に変わった。水の匂い。川が近い。私はチーから降りた。足が地面に触れた瞬間、膝が、折れた。そのまま、座り込んだ。


 来た。頭の奥が、割れる様に痛んだ。目の奥が、燃えている。線がぐちゃぐちゃに重なって、何も判別できなくなった。鼻から血が溢れた。止まらなかった。両方の鼻から。顎を伝って、首に流れて、服に落ちた。目を閉じた。閉じた瞬間に、線が消えた。世界が、音と匂いだけに戻った。でも、頭痛は消えなかった。手が震えている。体の力が抜けていく。吐いた。横を向いて、胃の中のものを全部吐いた。地面に。何も食べていなかったから、酸っぱい液体だけが出てきた。喉が焼けた。


 目を開けていた時は、何ともなかった。線を見ても、触れても、平気だった。遅れていただけ。全部、今、来た。一度に。


 「お姉ちゃん! お姉ちゃん!」


 ことはの声が聞こえた。遠い。すぐ横にいるのに、遠く聞こえる。


 「鼻血、すごい出てる、しおりん!」


 しおりさんの足音。右足を引きずっている。近づいてくる。屈む音。装備が軋む。


 「さゆり。さゆり、聞こえる?」


 「……聞こえ、ます」


 「目、閉じてる?」


 「……はい」


 「そのまま閉じてて。開けないで」


 しおりさんの手が額に触れた。冷たくて、硬い。手甲越しの指先。


 「ごめんね。無理させちゃった」


 違う。しおりさんは、何もしていない。私が勝手に目を開けた。勝手に見た。勝手に触れた。勝手に、ジャムが出た。使おうとしたんじゃないのに。あなたが謝ることは、何も、ない。そう言いたかった。言えなかった。口を開けたら、また吐きそうだった。


 「いいよ。喋んなくて」


 しおりさんの手が、額から離れた。ことはが、チーに寄りかかって座る音がした。チーがことはの頭を舐める音。ことはが小さく笑った。笑いの中に、震えが混じっていた。


 「……お姉ちゃん」


 「……うん」


 「さっき……あいつ、急に転んだよね」


 「……うん」


 「あれ……何だったんだろ」


 心臓が跳ねた。あれは。私が「ジャム」と言った直後に起きた。鳥の関節の遅れが、一拍から二拍になった。前足が交差して、自分の足につまずいた。私が、やったのか。ジャムを使った。使おうとしたんじゃないのに、出た。でも、あれはいつものジャムじゃなかった。いつもなら、視界を奪う。今回は、違う。関節が、遅れた。知っている能力なのに、知らないことが起きた。


 偶然かもしれない。たまたま足がもつれただけ。あの体はもともとばらばらだった。拍子が合っていなかった。勝手に崩れただけ。でも。胸の奥の何かが、静かに、知っていた。あれは、私だった。


 「……分かんない」


 嘘だった。でも、分からないのは、本当だった。ただ、完全に偶然ではないことだけが、胸の底に沈んでいた。


 「そっか」


 ことはが言ったのは、それだけだった。追わなかった。しおりさんは何も言わなかった。木に背中を預けたまま、黙っていた。岩を打つ水の音だけが、静かに響いていた。目を閉じたまま。頭が重い。鼻血がまだ少しだけ、唇の端を伝っている。胸の奥で、何かが沈んでいた。笑っていなかった。さっきまで笑っていた何かも、「ジャム」と囁いた何かも、全部が底の方に沈んで、静かにしていた。消えたのではない。待っている。


 私は目を閉じたまま、岩を打つ水の音に耳を預けて、胸の底で静かに息をひそめる何かの気配ごと、その冷たい流れの音の中に、自分を、ゆっくりと沈めていった。

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