狂ッた世界でこんばんワ 2
笑っていた。私の口が。
止められなかった。止めようとも、思わなかった。胸の底から這い上がってきた何かが、私の顔を使って笑っている。それを、遠くから眺めている様な、すぐ近くで感じている様な、どちらとも言えない感覚だった。まるで、ずっと鍵をかけていた部屋の扉が、内側から、ゆっくりと押し開けられていく様に。
それが、目の前にいる。甘い匂いも、獣の匂いも、血の匂いも、全部が近かった。手を伸ばしたら、届くくらい。
立ち上がった。膝が震えていた。体は、確かに、怖がっている。それでも、胸の奥の何かは、笑っている。その二つが同時に存在していて、どちらが本当の私なのか、分からなかった。たぶん、どちらも、本当だった。
目を、開けた。開けるつもりは、なかった。勝手に、開いた。
最初に来たのは、色だった。木は、木ではなかった。幹の中を、細い線が走っている。根から幹へ、幹から枝へ、枝から葉へ。緑の線。水が通っている。その隣を、もっと薄い黄色の線が並走している。養分が走る道。線は枝分かれして、葉の一枚一枚にまで届いている。木の形をした、線の束。地面にも、線があった。土の中を、赤い線が這っている。虫の体温。小さな生き物の、小さな赤い線が、何本も。空気にも、色があった。風が吹くと、薄い青が揺れた。冷たい空気は青く、湿った空気は白く、滲んでいた。
普通の人が見る「森」は、ここにはなかった。私に見えるのは、これだけ。これしか、見えない。
それは、目の前に、いた。それを、見た。吐きそうになった。
一つの体の中に、線が何本も走っている。多すぎる。木の中を走る線は、一つの流れだった。でも、これは、違う。赤い線と、青い線と、黄色い線と、名前のつけられない色の線が、一つの体の中で、ぐちゃぐちゃに走っている。繋がり方が、間違っている。前足と胴体の接合部で、線が途切れている。途切れた先に、別の色の線が始まっている。一つの流れじゃない。途中で、繋ぎ変えられている。赤い線が前足の途中で消えて、そこから青い線が始まる。関節を跨いで、色が変わる。一つの体に、あっていい繋がり方じゃなかった。
関節の数が、合っていない。前足は、四つの関節で曲がっている。四つ。獣なら、三つのはずだった。余った一つは、鳥の翼を畳む様な角度で、内側に折れている。そこから先の線の色が、また、変わっている。何匹も、詰め込まれている。違う絵を何枚も切り貼りして、一枚に貼り合わせた様に、一つの体の中に、別々の生き物の線が、繋ぎ合わされている。
口の周りが、一番ひどかった。赤と青と黄色が絡み合って、結び目の様になっている。その結び目から、匂いが出ていた。あの甘い匂い。線の色が混ざる場所から、匂いが漏れている。それの頭部に、目があった。目だと思った。三つ。三つの目が、ばらばらの方向を向いていた。一つはこちらを向いている。一つは上を向いている。一つは、自分の体の方を向いていた。三つの目の中にも、それぞれ違う色の線が走っていて、同じ生き物の目では、なかった。三匹分の目が、一つの頭についている。
理解できなかった。理解できないのに、見えていた。全部、見えていた。
赤い線が、太くなった。それの口の周りに集まっている結び目が、どくん、と脈打った。あの匂いが濃くなる。溜めている。あれが、来る。
動いた。考えるより先に、体が動いていた。横に。岩の裏から転がり出て、地面を這って、右に。見えていた。赤い線が太くなる方向。結び目から何かが押し出される向き。それが、分かった。分かったから、避けた。直後、さっきまでいた場所が、消えた。岩が割れた。音が、遅れてくる。岩の表面が削れて、粉が散った。
「遅い」
私の口が、勝手に動いた。自分の声が、遠かった。声の形は私のものなのに、温度が、違う。もっと冷たくて、もっと乾いていて、もっと、楽しそうだった。
結び目が脈打つ速度。赤い線が太くなる間隔。溜めて、押し出すまでの拍子。全部が、線の動きとして、見えている。
「次、右から来る。三歩」
誰に言っているのか、分からなかった。ここには、私しかいない。誰に報告しているのか。それでも、口は、動いた。
「右」
体が右に転がった。それの前足が地面を叩いた。さっき私がいた場所を。砂利が弾けて、岩に当たる音がした。前足の関節が、見えている。四つの関節が動く順番。一番奥から、真ん中、外側。鳥の関節が、一拍遅れる。その一拍が、合図だった。
右、ではなく、左に来た。私が「右」と言った瞬間、それが方向を変えた。私の声を聞いて。私がどこに逃げるかを、私の声から、読んだ。
「……賢い」
また、口が勝手に動いた。声が、笑っていた。それの三つの目が、こちらを向いた。ばらばらだった向きが、揃った。結び目が脈打つ。赤だけじゃない。青い線も、太くなっている。二つが絡み合って、紫に近い色になっていく。さっきより速い。溜める時間が、短くなっている。
私が声を出すと、私の逃げる方向が分かる。だから溜める時間を短くして、声を出す前に、撃つ。なら。口を、閉じた。声を出さない。体だけで、動く。結び目が膨らむ。紫が太くなる。線を見ている。紫が結び目からどの方向に押し出されるか。結び目の形が変わる瞬間に、方向が決まる。決まった。左。声を出さずに、右に跳んだ。左側の空間が消えた。木が二本、幹の途中が無くなった。避けた。声を出さずに。
それの三つの目が、一瞬だけ止まった。声が出ると思っていた。声に合わせて狙いを変えるつもりだった。でも声が出なかった。だから、外れた。
それが這う姿勢に変わった。速い。地面に張り付いて、滑ってくる。遠距離が効かないと判断した。距離を詰めてくる。関節が見える。四つ足ではなく、三つの関節だけで這っている。鳥の関節を畳んでいる。だから速い。余計な一拍が、ない。近い。前足が振り下ろされた。関節の動きが見えている。一番奥が動いた。次が来る。三つ目が来る。振り下ろしの軌道が、線で見える。伏せた。爪が頭の上を通過した。風が髪を引っ張った。続けて反対の前足。横薙ぎ。鳥の関節が先に動いた。さっきと順番が違う。後ろに跳んだ。爪が鼻先を掠めた。空気が裂ける音がした。三つの目が追ってくる。前足がもう一度。今度は両足同時。左右で拍子が違う。読めない。
読めなくても、線は見える。二つの爪の間を、抜けた。
それが唸った。低い振動。苛立ちの声。獲物が、当たらない。這う姿勢から、体を起こし始めた。四つ足で立つ。高い。私の倍以上の高さ。三つの目が、見下ろしている。結び目が脈打った。また紫。さっきより膨らみが速い。同時に、前足が動いた。遠距離と近距離を、同時に。結び目で紫を溜めながら、前足で殴りに来ている。両方、同時。溜めている間は動かないはずだった。さっきまでは。今は、違う。私が結び目の脈だけを見て避けていることに、気づいている。だから、溜めながら、殴る。紫の方向を読んでいたら、前足が来る。前足を避けたら、紫が来る。両方は、避けられない。
両方が、見える。結び目の膨らみ。前足の関節。どちらの線も、見えている。前足が先。紫が後。前足を避けてから、紫を避ける。間に合うか。間に合わない。普通は。前足が振り下ろされた。一番奥の関節が動いた瞬間に、横に踏み出した。半歩。それだけで、爪が地面を叩くのを、線の端で見ていた。結び目の紫が押し出された。方向は正面。さっき私がいた場所。でも私は、半歩横にいる。正面から、半歩。紫が横を通過した。甘い匂いが頬を撫でた。髪の先が焦げた。服の袖が熱くなった。
半歩。当たっていない。半歩で、避けた。
それの三つの目が、止まった。当たるはずだった。前足で動きを制限して、紫で仕留める。なのに、当たらなかった。半歩だけ動いて、両方の間を、抜けた。
怖い。私が、怖い。自分の体が、怖い。半歩で避けた。何がそうさせたのか、分からない。胸の奥の何かが、体を動かした。私の意思じゃなかった。私は動けなかった。動いたのは、あれだった。私の中にいる、あの、笑っている化け物だった。
それが後ろに下がった。半歩。初めてだった。私が半歩前に出た。同時だった。それが下がった分だけ、私が詰めた。距離が、変わらない。三つの目が、こちらを向いている。結び目が脈打った。三色全部が絡み合って、紫よりも暗い色になっていく。初めて見る色だった。
溜め方が、変わった。さっきまでより、結び目の脈が深い。線が体中から集まっている。前足の線まで、細くなっている。全身の線を、結び目に注ぎ込んでいる。全力。前足は動かない。動かせない。全部の線を結び目に注ぎ込んでいるから、体を動かす線が、残っていない。動けない代わりに、これを撃つ。これだけで終わらせるつもりで、撃つ。暗い紫が膨らんでいく。結び目が脈打つたびに、大きくなる。甘い匂いが、さっきの比じゃなかった。空気が歪んでいる。地面の砂利が、震えている。
逃げなきゃ。逃げなきゃいけない。あれが来たら、半歩じゃ足りない。木どころか、この一帯が、消える。逃げなきゃ。
足が、前に出た。逃げる方向じゃ、なかった。近づいていた。自分の足が、それに向かって走っていた。
怖い。怖い怖い怖い。体が震えている。足が震えている。それなのに、足は止まらなかった。胸の奥の何かが、足を動かしていた。この期に及んで、私は、自分の体を、一ミリも操縦できていない。ただ、乗っているだけだった。流されていく川の中で息継ぎの場所だけを探す様に、私は、私自身に運ばれていく。
線が見える。前足の関節は、動いていない。全部の線が、結び目に行っている。前足は、空っぽ。殴れない。今、前足は、殻だった。前足が振り下ろされないなら、潜れる。低く、地面に滑り込んだ。砂利が背中を擦った。前足の間を抜けて、腹の下に。線がぐちゃぐちゃに走っている場所。結び目が頭の上にある。甘い匂いが、真上から降ってくる。
何をしているのか。何をしに来たのか。私は武器を持っていない。ハルバードも、剣も、ことはの術式も、何もない。手しか、ない。小さな手しか、ない。それなのに、手が伸びていた。腹の下の、線が一番乱れている場所に。赤と青が繋ぎ変わっている、接合部に。触れた。指先が、それの体に触れた。熱かった。表面は、獣の毛皮の感触だった。でも、その下が、熱い。線が走っている場所が、異常に、熱い。
触れた瞬間、線が見えた。もっと深く。表面の線じゃない。もっと奥の、体の芯を走っている線。赤でも青でも黄色でもない。もっと暗い色。黒に近い紫。それが、体の中心を、一本だけ走っていた。背骨の様に。全部の線が、その一本から枝分かれしていた。赤も青も黄色も、全部が、その黒い線から生えている。根っこ。全部の根っこが、ここに、ある。
見えた。見えた瞬間に、それが、動いた。暴れた。体を捩じって、跳ね上がった。腹の下から私を振り落とす。前足が地面を叩き、後ろ足が地面を蹴って、体を横に投げた。私は、弾き飛ばされた。地面を転がった。背中が岩に当たった。息が、詰まった。
それが、叫んだ。今までで一番大きい声だった。六つ、七つの声が、一つの口から溢れ出て、森を叩いた。木の葉が散って、空気が揺れた。怒りじゃなかった。怯えていた。三つの目が、私を向いていた。さっきまでと、向け方が変わっていた。獲物を見る目じゃなかった。私を向いているその目は、さっき私がそれを見た時の目と、同じだった。理解できないものを見る、目。
私は地面に転がったまま、それを見上げていた。口元が、戻らなかった。それが後ろに下がった。一歩。二歩。三つの目がこちらを固定したまま。結び目は脈打っていない。攻撃の兆候が、ない。下がっている。私から。私が触れた場所の近く。腹の下の接合部。赤と青の繋がりが、少しだけ、緩んでいた。触れただけで。何もしていない。ただ触れて、線を見ただけ。でも、それは、下がった。
私も、動けなかった。地面に転がったまま。膝が震えている。手が震えている。胸の奥の何かだけが、震えていなかった。どのくらいそうしていたか、分からない。それと私の間で、何も起きない時間が流れた。三つの目が私を向いている。私の目が、それを向いている。結び目は脈打たない。前足は動かない。私も、動かない。均衡だった。バケモノとバケモノの間の、静かな均衡。
右後方から、足音が聞こえた。重い。速い。地面を蹴る、一歩。しおりさんだった。ハルバードが唸った。しおりさんがそれと私の間に割り込んだ。背中で私を隠す様に。
「さゆり、下がって」
声が、冷たかった。でも、冷たさの下に、別の何かが混じっていた。下がれなかった。体が動かなかった。口の端が、まだ、上がっていた。
「さゆり」
もう一度。少しだけ、声が揺れた。
「下がって」
振り返らなかった。でも、声だけで分かった。怒っていない。怖がっている。私の、何かに。優しくて、大きくて、家族の中で一番強いはずのしおりさんが、目の前の化け物にではなく、庇っている私の方に、怯えている。それが、どうしようもなく、悲しかった。
口の端を、手で押さえた。笑いが、消えなかった。しおりさんの背中が、見える。体の中を走る、赤い線。太くて、真っ直ぐで、全身を一つの流れで繋いでいる。繋ぎ目が、ない。一つの生き物の、一つの線。あれとは、全く違った。右足の辺りだけ、少し細くなっていた。庇って、戦って、擦り減った、その一本。
それの三つの目が、動いた。私から、しおりさんに。変わった。理解できないものを見る目が、消えた。獲物を見る目に、戻った。しおりさんが私を庇っている。守られている。それだけで、均衡が、壊れた。
結び目が、脈打った。




