狂ッた世界でこんばんワ 1
それは、足音と呼んでいいものか、私には分からなかった。
ばらばらのリズムが、一つの塊から零れ落ちている。四つ足の獣が地面を蹴る軽い音に、何か重たいものを引きずる湿った音が、まるで別々の生き物が二匹、無理やり同じ体に押し込められて歩いているかの様に、絡み合いながら、少しずつ、こちらへ近づいてきていた。
「逃げよう」
しおりさんの声だった。いつものあの明るさが、綺麗に抜け落ちていた。
「南じゃなくて西。崖沿いに戻る」
「うぃ」
ことはがチーの首を撫でると、チーは弾かれた様に走り出した。私は慌ててたてがみにしがみつく。硬い毛が掌に食い込んで、背中から伝わってくる振動が、歯の根までびりびりと響いた。しおりさんの足音が、チーの横を並走している。あれだけの武装をしているのに、装備の擦れる音も、ハルバードの鳴る音も、木の葉が一枚落ちるよりも静かだった。速い。それでいて、全力ではない。私達に、速さを合わせてくれている。
背後から、音が追ってくる。
さっきより速く、さっきより重く、地面を叩く間隔が、じりじりと狭まっていく。一つの生き物が走る音だというのに、拍子が、どうしても合わない。片方は、四つ足の獣が駆ける速度。もう片方は、地面に腹を擦りつけて滑ってくる、蛇の様な、もっと別の何か。その二つが、同じ体の中で、別々の時間を生きていた。
拍子が二つある。
一つの体から。
「右に寄って!」
ことはが叫んだ。チーが急に方向を変える。体が大きく傾いて、私はたてがみを握り直した。ことはの背中に顔がぶつかって、絵の具と、土と、チーの獣毛の匂いが、一度に鼻の奥へ流れ込んでくる。
直後、左側の木が、弾けた。
幹が裂ける音。枝が吹き飛ぶ音。折れた木片が頬を掠めていく。それから、重い着地音。いや、着地ではなかった。木にぶつかって、そのまま突き抜けている。人の力で折れる様な木ではない。木の繊維が千切れていく湿った音が、耳の底にこびりついて、いつまでも消えなかった。
匂いが、来た。
血の匂い。獣の匂い。それから、焦げた様な、けれど炎とは違う、甘くて重い匂い。三つが、一つの方向から来ている。混ざっているのではなかった。三つが、別々に、けれど同じ場所から、同時に立ち上っている。そんな匂い方を、私は知らなかった。獣の匂いの奥に、人の血の匂いが、まるで元からそこにあったかの様に、静かに溶けていた。
「しおりさん!」
「分かってる!」
鉄の棒が伸びる音。ハルバードが展開していく硬い音。金属の噛み合わせが、一つずつ、確かな手応えで嵌まっていく。あの音を聞くと、いつも、ほんの少しだけ安心する。しおりさんの足音が、私達の横から離れて、後ろへ回った。
振り向くことはできない。それでも、音だけは、追える。
しおりさんの足が地面を蹴った。たった一歩で、距離が消える。ハルバードの刃が空気を裂いて、巻き込まれた風が私の髪を後ろへ引っ張った。重い、確かな、一撃。
当たった。
金属が肉を叩く音がした。けれど、返ってくる手応えが、どこかおかしい。柔らかすぎる部分と、硬すぎる部分が、たった一度の斬撃の中に、同時に存在していた。生臭い匂いが弾ける。血ではない。もっと古い、腐った水が長く溜まった場所の様な匂いが、切り口から噴き出してきた。
そして、それが、叫んだ。
声ではなかった。獣の咆哮と、鳥の様な甲高い鳴きと、それよりももっと低い、地面を震わせる何かが、三つ、同時に、一つの口から溢れ出した。耳の奥が、裂ける様に痛んだ。鼓膜のさらに奥で何かが弾けた感覚がして、一瞬、世界中の音が遠くへ退いた。両手でたてがみを握ったまま、私は耳を塞ぐこともできない。痛みが引いた後も、左耳の奥には、鋭い残響が、刺さった棘の様にこびりついて残った。
「チー、止まらないで!」
ことはの声が震えていた。それでも、手は、チーの首をしっかりと握っている。指の関節が硬くなっているのが、握る力で分かった。チーが木々の間を縫って駆ける。石を跳んで、根を越えて、私の体が何度も跳ねる。背骨に衝撃が走るたびに、奥歯が鳴った。唇の裏を噛んで、口の中に、じわりと血の味が広がった。
後ろで、しおりさんがもう一度打ち込んだ。今度は軽い。当てるためではなく、追わせないための、牽制。そのまま後退していく足音。
「止まんないよ、こいつ!」
しおりさんの声に、焦りはなかった。けれど、明るさも、もうなかった。ただ事実だけを、こちらへ投げてくる声。しおりさんの心拍は、さっきから一度も乱れていない。
背後の音が、また、変わった。
四つ足の音が、消えた。代わりに、地面を這う音。速い。さっきの四つ足よりも、ずっと速い。走っていたものが、這い始めている。走るより這う方が速い生き物を、私は知らなかった。地面を擦る音の中に、乾いた鱗の様な擦過音と、湿った肉が引きずられる音が、交互に混じり合っていた。
「ことは、崖はどっち!」
「右前! もうすぐ地面が変わるはず!」
ことはの声は裏返っていた。それでも、頭は、動いている。この子の頭が止まったら、私達は終わる。背中越しに伝わってくることはの鼓動は、速い。速いのに、正確だった。
背後から、空気が、揺れた。
熱ではなかった。熱に、限りなく近い何か。空気の中を、何かが走り抜けた。匂いは甘い。焦げる匂いに似ているのに、火の匂いではない。水に近い匂いまで、そこに混じっている。火と水が同じ場所に同時に存在するという、ありえない匂いが、背中のすぐ後ろを通過していった。
木が一本、音もなく、倒れた。
切れたのではなかった。幹の途中が、消えていた。音もなく。切断面から、木の中の水分が蒸発していく細い音が、遅れて立ち上る。通り過ぎた空気の跡に、舌が痺れる様な味だけが残されていた。
「何、あれ……」
ことはの声が、小さくなった。
しおりさんが着地する音。走りながら、こちらへ戻ってくる。
「あれは、避けないとまずいね。当たったら、終わりだと思う」
言い方は柔らかいのに、中身が、氷の様に冷たかった。
「ことは、この先の地形、分かる?」
「崖の……手前に、窪みがあったと思う。お兄ちゃんと遊んだ時に……岩が出っ張ってるとこ」
「どのくらい先?」
「分かんない。でも、近いはず」
ことはの声は震えている。それでも、今この手で使えるものを、必死に探していた。
「……しおりん」
「うん」
「さっきの道……私が土に描いたやつ、まだ残ってると思うんだけど」
「使える?」
「分かんない。でも、あいつがそこを通ったら……たぶん、ちょっとだけ」
「ちょっとだけ?」
「足が、もつれるかも。たぶん」
「たぶん」が、二回。確信なんて、どこにもなかった。それでも、私達の手の中に残っているものは、それだけだった。
「やって」
しおりさんが、短く言った。
ことはがチーの首を叩く。チーが方向を変えて、さっきことはが地面に線を描いた場所へ、少しだけ戻るルートを取る。爪が土を蹴り上げて、湿った土の匂いが顔に当たった。遠回り。時間を失う。背後から追ってくる這う音が、その分だけ、また近くなる。それでも、ことはの「たぶん」に賭けるしか、なかった。
「お姉ちゃん」
ことはが、私の名前を呼んだ。
「あいつの音、聞こえてる?」
「……聞こえてる」
「どのくらい後ろ?」
「……近い。すごく、近い」
「あいつが地面を這う音が変わったら、教えて。足が何かに引っかかったみたいな音がしたら」
「分かった」
耳を、後ろへ向ける。
這う音が、近い。もう、木を二つ挟んだくらいの距離しかなかった。ことはの描いた場所を通るか通らないかも、通ったとして何が起きるのかも、何一つ分からない。それでも、他に、何もなかった。私は、耳を研ぎ澄ました。チーの背の振動を、体から切り離す。ことはの呼吸を切り離す。風を切り離す。這う音だけを、そっと手の中に残す。擦る音。土を叩く音。そこに混じるかすかな乱れを、一つも取りこぼさない様に。
来た。
音が、ほんの一瞬だけ、乱れた。這う音の中に、引っかかる様な、短い摩擦音が混じる。ほんの一拍。足ではない。腹か、体のどこかが地面の何かに触れて、リズムが、わずかに崩れた。
「今!」
私は叫んだ。
「今、少しだけ乱れました!」
しおりさんは、返事をしなかった。代わりに、空気が動いた。しおりさんの足が地面を蹴る。一歩。ハルバードが唸る。この一瞬だけを、しおりさんはずっと狙っていた。
音が、弾けた。
ハルバードが何かを叩き、何かが地面に叩きつけられ、木が折れ、土が飛び散る。土と血の匂いが混ざって飛んできた。それが、また咆哮した。さっきよりも、大きい。さっきよりも、数が、多い。四つ、五つの声が、一つの口から溢れて、森を丸ごと叩きつけた。傷ついたばかりの左耳が、また悲鳴を上げる。
倒れて、いない。
しおりさんの、小さくて鋭い舌打ちが、聞こえた。
「効いてないわけじゃ、ないんだけどね……足りない」
「走って。窪みまで走って!」
チーが走る。ことはが低く伏せて、私はたてがみに顔を埋めた。背後で、それが起き上がる音がした。骨が軋む音。関節が嵌まる音。一つの体の中で、別々の部品が、無理やり組み直されている様な音。さっきの打撃が嘘だったみたいに、それは、同じ速度で、また這い始めた。ことはの仕掛けも、しおりさんの一撃も、ほんの数秒しか稼げなかった。
それでも、その数秒で、チーは崖の手前まで走り切っていた。
地面が、急に傾いた。露出した岩。足の下が砂利に変わって、チーの爪が石を弾く乾いた音がする。風が下から吹き上げてきた。冷たい風。谷底の水の匂いが混じっている。崖だった。ことはの言った通り、大きな岩が三つ並んで、その裏に、窪みの様な空間があった。
「ここ!」
ことはが叫ぶ。チーが滑り込む様に窪みへ入る。私は背中から岩に当たった。衝撃で息が詰まる。汗で濡れた背中に、岩の冷たさが、ぴったりと張りついた。しおりさんが最後に飛び込んでくる。ハルバードの石突きが岩を叩く音。走り続けた体から、熱が蒸気の様に立ち上っていた。息が荒い。荒いのに、声だけは荒くなかった。
「ちょっとだけ、時間稼げたね」
明るい声に、戻そうとしていた。戻り、きってはいなかった。
背後で、それが、止まった。
這う音が消えて、立ち上がる音がした。四つ足で立った。さっきとは違う。走っていたのでも、這っていたのでもない。立っている。こちらの方を、まっすぐ向いて。じっとしている。私達を、確かめる様に。
呼吸が、聞こえた。それの、呼吸。一つの口から出ているのに、吸う音と吐く音の拍子が、合っていない。吸いながら、吐いている。二つの肺が、別々に動いていた。
あの甘い匂いが、濃くなる。
溜めている。何かを。
空気が、張り詰めた。
「来る!」
しおりさんが叫んだ。同時に、それが、動いた。岩に向かってでは、なかった。窪みの横を、一瞬で回り込んで、四つ足から這う動きに変わりながら、岩の裏側へ。ことはの、方へ。
チーが吠えた。ことはが悲鳴を上げるより早く、しおりさんが動いていた。私の横を、風が切る。走り続けた体の熱と、返り血の匂いが一瞬だけ鼻を打って、すぐに消えた。しおりさんが岩の隙間から飛び出す。ハルバードを構える暇は、なかった。素手でことはを抱えて、体を、捻った。
背中を、向けた。
あれに対して。自分の背中を、盾にして。
音が、割れた。
何かが、しおりさんの背中に当たった。甘い匂いが、爆発する。革と金属が焼ける匂い。しおりさんの体が、ことはを抱えたまま、横へ吹き飛んだ。岩を越えて。木に叩きつけられる音。枝が折れる音。金具が岩を擦る甲高い音。体が地面にぶつかる、鈍い音。ことはの、短い悲鳴。チーの、咆哮。
しおりさんの体から、ことはが転がり出る音がした。砂利が散る。チーがことはの方へ駆ける。ことはが呻いて、土を吐く音。
しおりさんは、音を、立てなかった。
地面にぶつかった後、何の音もしない。心臓の音も、呼吸の音も、ここからでは聞こえない。遠い。吹き飛ばされた距離が、あまりにも遠かった。
目の前に、それが、いる。
甘い匂いが近い。軋む音。這う音。立っている音。その全部が、すぐそこにある。息が届くほどの距離。岩一枚を隔てた向こう側に、あの壊れた呼吸が、吸いながら吐く、あの呼吸が、あった。
岩の裏で、私は、一人だった。
チーはことはの方へ行った。しおりさんは吹き飛ばされた。ことはも動けない。私だけが、ここにいる。それと、私だけが。
自分の心臓の音が、やけに、うるさかった。速い。速いのに、乱れていない。指先が冷たい。足の裏は汗で滑っている。体は、確かに、怯えていた。それなのに、頭のどこか、ずっと奥の方だけが、嘘みたいに静かだった。
人を殺した時と、同じだった。あの森で引き金を引いた時。私の体は怖がっているのに、心臓だけが、いつも通りに打っている。速くも、遅くもならず。何があっても、変わらない。いざという時に私の一番奥にいるのは、いつも、こいつだった。
胸の奥で、何かが、音を立てた。
怒りでは、なかった。悲しみでも、なかった。もっと奥の、もっと底の、名前をつけられない場所から、冷たくて静かな何かが、ゆっくりと這い上がってくる。鍵のかかった扉が、内側から軋みながら開いていく。
胸の中で、何かが、笑った。
口の端が、勝手に、上がった。




