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No Look Jamming〜私は見る事ができない〜  作者: 船木
ツキナミの生活
16/35

フローティングポイントの向こう岸 2

これまで投稿していた一部の話を、少し整理しました。


大きく変えたわけではないです。

ただ、読み返していてどうしても気になるところがあって、

「今の自分なら、もう少しちゃんと書けるな」と思ってしまいました。


なので、必要な部分だけ手を入れています。


展開はほとんど同じです。

でも、感情の流れや選択の重さは、少しだけ変わっていると思います。


ここから改めて、逃げる物語を続けていきます。


引き続き、よろしくお願いします。

 川を渡ってから、音が変わった。


 足が濡れていた。靴の中に水が入っている。歩くたびに、くちゅくちゅと鳴った。冷たかった。川の水が、まだ足首に纏わりついている感覚がする。土が硬い。草が少ない。木の立ち方が、さっきまでと少しだけ違う。木と木の間隔が広くて、幹が太い。枝が高いところで広がっているから、地面に近い場所の空気が、よく通っている。風の道がある。ここには人が入ってくる。あるいは、かつて、入っていた。


 「……道があります」


 私は言った。


 「古い道だね、ちゃんと踏み固められてる」


 「分かる?」


 「足の下の音が違います。土が詰まってる感じがします」


 しおりさんが、少し立ち止まる気配がした。足裏で地面を確かめる様に、体重をかける音がする。


 「……本当。騎士道じゃないね。馬も通れないくらい細いし。でも、明らかに誰かが使ってた感じがするね」


 「昔の猟師の道かな」


 ことはが言う。


 「このあたり、猟師の人たちが南の村との間を行き来してたって、お兄ちゃんが言ってた気がするよ」


 「なるほど、これは使えるかも」


 しおりさんの声が、少し前向きになった。古い道に沿って、南へ進む。歩きやすい。土が固いから足音は立ちやすいが、それよりも、道の両側に草や低木がないことの方が助かった。暗闇の中で、枝が顔に当たらない。足が絡まない。チーの足も滑らない。靴の中の水が、少しずつ温まってくる。体温で。不快だったけれど、歩けないほどじゃなかった。


 進んで、止まる。止まるたび、耳を広げる。東の爆ぜる音が、まだ消えない。風が東から吹くたびに、煙の匂いが追いかけてきた。もう遠いはずなのに。まだ燃えている。確かめてから、また進む。


 異変に気づいたのは、道が少し曲がったあたりだった。


 「……止まってください」


 声を、低くした。しおりさんがすぐに足を止める。チーも合わせる。耳を南西に向けた。金属の音。革が擦れる音。複数の足音が、地面を踏む。そろっている。間隔が一定だ。訓練された歩き方。揃えることを叩き込まれた歩き方。騎士だ。それも一人ではない。松明の匂いがした。油が燃える匂い。パチパチと小さく爆ぜる音。火を持って、歩いている。


 「騎士の隊列が来ます。南西から、こっちに向かってる」


 「何人?」


 「……七、八人」


 「どのくらい?」


 「音の速さからすると……一分も経たないくらい」


 しおりさんの息が、一瞬で変わった。


 「木の上」


 短く言った。


 「ことは、チーと一緒に動ける?」


 「うぃ」


 「さゆりは私が持つ。いい?」


 返事をする間もなく、腰のあたりに腕が回った。しおりさんの腕が硬かった。筋肉が張っている。片腕で私の体重を支えている。しおりさんの足が地面を離れる感触が、体を通して伝わってくる。一歩、二歩。それだけで、高さが変わる。枝が頬を掠める。葉の匂いが濃くなる。さらに高くなる。空気が冷たくなった。地面から離れると、気温が変わった。止まった。葉の音が、顔のすぐそこで鳴っている。木の幹が背中に当たる。しおりさんが枝に腰を落ち着かせる、微かな音。どのくらい上にいるのかが、なんとなく分かった。かなり高い。虫の声が、足の裏ではなく、腰の下から聞こえてくる。


 下から上がってくる音が、少しだけ遠くなった。騎士の足音が近づいてくる。松明の匂いが濃くなっていく。革が擦れる。金属が揺れる。誰かが短く何かを言う声がした。言葉は聞き取れない。でも、緊張している感じじゃない。欠伸を噛み殺す気配がした。いつも通りの巡回に聞こえた。チーが、下のどこかで息を殺している気配がした。ことはが、チーの首に顔を埋めている様な、そういう気配。


 足音が、真下を通る。七人だった。鎧の重さが違う人間が、一人混じっている。指揮官か、あるいは、魔術師か。通り過ぎていく。東の方へ。音が、少しずつ遠くなって、葉擦れの中に溶けていった。松明の匂いも薄れていく。油の匂いが、夜の空気に溶けて、消えた。


 しおりさんが、ゆっくりと枝から動いた。地面に降りると、ことはの気配がチーの首元から持ち上がる。チーが大きく息を吐く。息を止めていた。チーも。


 「……行った?」


 「うん」


 しおりさんが短く答えた。


 「東に向かって歩いてるね。たぶん、まだ何かを探してる。向こうのことは放っておいていいから。あいつらには、別の目的があるんだろうし」


 声に、さっきの様な途切れはなかった。それだけ確かめた。道を再び進み始めてから、ことはが立ち止まった。チーを止めて、しゃがむ気配がした。何をしているのか、音では分からない。土に触れている音がした。指が地面をなぞる様な、細くて静かな音。次の瞬間、湿った土の匂いが、一瞬だけ濃くなる。すぐに消えた。ことはが立ち上がって、チーの首を撫でた。チーが鼻を鳴らす。ことはの指先から、土の匂いがした。爪の間に土が入っている匂い。それと、さっきの、根が呼吸する様な匂いが、微かに残っていた。


 「何してたの」


 私は聞いた。


 「ちょっとね」


 返ってきたのは、それだけだった。声に、笑みが混じっている。悪戯をした後の声。それ以上は、聞かなかった。ことはがやることには、いつも理由がある。聞かなくても、後で分かる。


 南へ進み続けた。古い道は、まだ続いている。足の下の音が、ゆっくりと変わっていく。踏み固められた土から、少しずつ柔らかい地面に戻り始めている。道の端が崩れて、草に飲まれかけている場所もあった。その道が、森の奥に向かって細くなっていくあたりで、チーの足が止まった。


 ことはが何かを言う前に、チーは自分で立ち止まっていた。耳が前を向いている。鼻先が低くなる。前足が、一歩だけ、下がった。


 「チー?」


 ことはの声に、チーは答えなかった。私は耳を前に向けた。最初は、何も聞こえなかった。虫の声。風。木々が擦れる音。いつも通りの森の音。でも、その下に。何かが、いた。音の穴では、なかった。今まで何度か感じた、虫や鳥が黙る静けさとは、違う。むしろ、逆だった。何かが、音を出している。不規則な音。土を叩く様な、引きずる様な、低くて重い音。リズムがない。足が何本あるのかも分からない。三つ鳴って、一つ飛んで、また二つ鳴る。数えようとするたびに、数が合わなくなった。人間の足音ではない。獣の足音でも、ない。何かが、ゆっくりと、こちらに近づいている。


 匂いがした。知らない匂い。獣の匂いでもない。人間の匂いでもない。石と、鉄と、何か腐った液体が混じった様な匂い。舌の奥が、痺れた。チーの毛が逆立つ音がした。


 「……しおりさん」


 私の声が、かすれた。


 「何か、います」


 しおりさんが振り返る気配がした。ハルバードの石突きが、地面に静かに触れた。


 「どっち」


 「前。道の先。まだ遠いけど……こっちに来てます」


 「人?」


 「……違います」


 自分でも、声が震えているのが分かった。


 「人じゃないです。何なのか分からない。でも、今まで聞いたことがない音です」


 森の奥から、また音がした。土を叩く音。引きずる音。その間に、かすかに、何かが軋む様な、乾いた音が混じっている。チーが、低く唸った。ことはがチーの首を握って、何かを堪える様に息を吸った。ことはの心拍が、初めて、乱れた。


 風が止まった。匂いが消えた。音が消えた。あの不規則な足音だけが、暗闇の中を、ゆっくりと、こちらへ近づいてくる。虫も鳥も、いっせいに口を閉じていた。その何かが通るための道を、森が静かに空けている様だった。私は動けないまま、その足音が近づいてくるのを、ただ、聞いていた。

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